ep.10 何のために此処に居る
「……おい。朝食を残すなと言ったはずだが?」
低く、しかし有無を言わせぬ声が、理央の耳元で響いた。口いっぱいにパンを頬張り、ハムを詰め込もうとしていた理央は、思わず動きを止める。
「見てわかんない? 今、パンを口に詰めてる最中なの!」
頬袋がリスのように膨らんだまま、理央は口を動かしながら反論した。
「食べると喋るという行為は、両立させてはいけない場面だ。行儀が悪い」
「うるさいわね、食事中に細かいこと言わないで! そもそもこの量、誰向けよ!? 騎士みたいな筋肉馬鹿じゃないんだから!」
目の前には、焼きたてのパンが山のように積まれ、香ばしい香りを漂わせている。隣には山盛りの卵料理、皿からはみ出さんばかりの肉料理、そして山海の幸がふんだんに盛り付けられたサラダ。これらはすべて、理央一人のために用意されたものだった。というか肉食は禁じられているのではなかったのでは。
手っ取り早く体力を身に付けたいとは言ったものの、前世の朝食といえば、トースト一枚とコーヒーが精々だった理央にとって、この豪華すぎる食事は、むしろ拷問に近い。
「聖女殿が力を発揮するには体力が必要だと判断した。その身体は、中身の性質より脆弱だ」
ジークは、表情一つ変えずに告げる。
その眼差しは、まるで精密機械を分析するかのようだ。
「褒めてるのか貶してるのかどっちよ、ほんと……」
理央はうんざりしたように呟いた。
なんなのこの朝から圧強い騎士サマ……。
護衛兼監視役がほぼ常駐するようになって約一週間。命の危機からはとりあえず脱し、絶賛教会内内引きこもり生活をしている理央だが、乙女の朝食を見張るのはやめて欲しい。
彼は監視役であるにもかかわらず、やたらと理央の行動に口を出す。時には厳しい言葉で、時には妙に丁寧な口調で。そのたびに理央の神経は逆撫でされ、反論せずにはいられないのだ。
「ところでリオ・アリミヌエ」
「フルネームで呼ぶのやめてって言ってるでしょうが。そんな堅苦しい監査役みたいな呼び方、毎回ムカつくのよ。まるで私が何か不正を働いているかのような響きがあるじゃない」
理央は、いまだ口いっぱいのパンを咀嚼しながら、不満をぶつけた。
「では聖女殿。……いや、やはり問題児のほうが似合いそうだな。爆発聖女殿の行動は予測不能で、常に周囲に混乱をもたらす」
ジークは、一瞬の間を置いてから、心持ち口角を上げた。
その表情は、理央をからかっているかのように見えた。
「今の取り消してよ。即刻、丁寧に詫びなさい。私は問題児なんかじゃない。むしろ、あらゆる問題を解決に導いているのよ! っていうかしれっと爆発聖女ってほんとむかつく」
そう言いつつ理央は立ち上がり、カツカツとヒール音を鳴らして彼に詰め寄った。
反射的に反論する理央の様子にジークは、肩を震わせている。
「またその靴を履いているのか。転倒したらどうする。聖女たるもの、常に優雅であるべきだ」
ジークは、理央の足元を一瞥し、眉をひそめた。
「美意識と気迫は戦場でも通用するの。地味なローブなんかに染まってたまるもんですか。私は私のスタイルを貫くわ。それに、この靴を履くと、なんだか力が湧いてくるのよ。ヒールは武器。布靴なんてもたもたして気持ち悪いでしょ」
理央は、胸を張って言い切った。
彼女にとって、この異世界でも自分らしさを保つことは、精神的な安定に繋がっていた。
「……全力で異質だな」
ジークは、やや呆れたように呟いた。
「最大級の賛辞と受け取っておくわ! 異質だからこそ、この閉鎖的な教会に新しい風を吹き込めるんじゃないかしら」
理央は、満足げに笑った。そのやり取りを聞いていた侍女たちは、部屋の外で震えていた。
「(……)」
「(また始まった……)」
「(……毎朝のこれ、なんなん、でしょう……)」
部屋付き侍女の三人は、毎日繰り返される理央とジークの言い争いに、すっかり慣れてしまっていた。最初は恐れおののいていた彼女達も、今では微笑ましい日課として見守っている。
◇◇◇
理央が聖教会における不正会計の証拠を漁り始めてから、数日が経った。
教会の管理は想像以上に杜撰で、理央の論理的思考が火を噴くには十分な、どころか、まるで燃え盛る大火災に油を注ぐような惨状だった。
過去十年分の物資管理簿を突き合わせた結果、数百件もの消失記録が発覚した。奉納されたはずの貴金属や貴重な食料品、さらには民衆からの寄進品である貴重な工芸品までが、ことごとく帳簿から消え去っていたのだ。教会の腐敗は想像以上に根深かった。
……何のためにここにいるんだっけ。
処刑回避、のはずが、気づけば業務効率化と不正摘発に全力を注いでいる。前世では、会社の不正を暴いてヒーロー扱いされることはなかったが、この世界では、それが自分の命を繋ぐ手段なのだ。
「……信じられない。これ、監査が一度も入ってないの? 王政側が聖教会の手綱を握っているとばかり思っていたんだけど」
理央が呆れたように呟くと、隣に控えていたジークの氷蒼の瞳が鋭くなった。
「教会は外部からの直接的な監査を拒んできた。聖なる独立性、と称してな」
「ふうん、護衛兼監視は送り込むのを許すのに?」
「聖なる裁きの日まで、聖女に対しての処遇は、見解が一致しているからな」
あっさりと返された言葉に、理央は無感情のまま「そう」と答える。
聖女の処遇。
とはいえ、何となく、教会側も王政側も、聖女の扱いに関しての思惑は、若干違うように感じる。
実際問題としては、理央の行動に関して、未だ教会側から制限がかかっていない。
恐らく、リオ・アリミヌエの中身が、原田理央に成ったことが起因しているのだと思う。
「ねえ、これ、全部まとめれば、教会の汚職を決定的に暴けるわ。そうすれば、私が処刑される理由も、ただの無能扱いから、真実を知った不都合な存在へと変わるでしょう?」
理央の言葉に、ジークは微かに眉をひそめた。
彼女の思考回路は、彼にとって未知の領域だった。
自分の死の運命すら、業務上の課題として捉えているかのようだ。
「リオ・アリミヌエの存在そのものに問題があるとは思わないのか」
ジークは言葉を飾らずに言った。しかし、その理由までは明かさない。なぜ問題があるのか、誰が何を恐れているのか、その具体的な理由は伏せられたままだ。
「少なくとも……今の私は、誰かの思い通りに動かないのは確かでしょうね」
理央は鼻で笑った。彼女にとって、それは会社における不当な解雇通告のようなものだった。
絶対に受け入れられない。
ジークはしばらく無言で理央を見つめた後、ゆっくりと口を開く。
「この不正を暴けば、教会は大きく揺れる。そして、上層部の反発は必至だろう」
彼の言葉には、警告の響きが含まれていた。
ジークは王政側と聖教会間の複雑な力関係を熟知している。教会の不正を暴くことは、単に清掃作業に留まらない。それは、王室の安定にも影響を及ぼしかねない、政治的な変革と傷を伴う。
「構わないわ。この国の民のためになる。そうなんじゃないの?」
理央は、まっすぐジークの目を見た。その瞳には、かつて部下からいつまで経っても独身であることを揶揄され、理不尽な要求にも笑顔で対応しながら、業務改善のために徹夜を繰り返した時の、粘り強い闘志が宿っていた。
ジークは、その真っ直ぐすぎる視線から目を逸らした。
彼の中で、現王からの密命、教会の腐敗、そして目の前の少女の運命が複雑に絡み合い、答えが出せずにいたのだ。