起 たとえ毒だとしても、効きは遅い
王国立魔術学校は昔ながらの木造校舎で、教室はカビ臭く、しかしどこか生命の温かみを感じさせる場所でございます。
ホコリと壁のあちこちに生じたシミは伝統や格式を象徴し、なによりも高い志を持つ生徒たちが学校の品格を如実に表しているのです。
「ねえお聞きになって。バルドゥル先輩が決闘部の部長に勝ったらしいわよ」
「うっそぉ、あたしたちもお近づきになれないかしら」
「木っ端貴族なんか歯牙にもかけちゃくれないわ。男も知らない生娘なんか特に」
後ろの席から同級生のヒソヒソ話が聞こえます。男女の機微に纏わるあれこれはさておき、自分の家柄を『程度が低い』と語る姿勢は、平民階級の出身である私には理解しかねるところでした。
なにせ文字通り生きている世界が違うものですから、どこかの誰かが伯爵家の子息で、某男爵の令嬢とは身分が違うなどと聞きましても、『はあそういうものなんだ』ぐらいの感想しか浮かびません。
これは知識で補える思考ではなく、生まれた時点で持ち合わせている感性なのでしょう。
「ホルンちゃん、陰湿メガネ来た」
「げえ。じゃあまた後でねー」
心優しい友人の警告に従い、自分の席に戻ります。
自分よりもはるかに年上の男性を、陰ながら愛称で呼ぶことに若干の躊躇いを感じないわけでもありませんが、なにせ学級の共通用語ですから仕方ありません。
感性は共有できずとも、言葉は共有できます。貴族と平民、他人と自分の間に生じている距離を埋め合わせるために、私たちは今日も先生を陰湿メガネと呼ぶのです。
「静かになったか。お前らが一語発するごとに私の人生が無為になっていくのを忘れるな。では、授業を始める」
先生、つまり陰湿メガネの授業はいつも嫌味から始まります。
学生の相手など時間の無駄だとか、無知に付ける薬はないとか、私たちを手軽に非難してから、教科書を開くのです。一分一秒ですら無駄に出来ないとは、いったいどれだけ意義のある人生を送っているのでしょう。私には理解できません。
でもきっと、これもまた感性なのだと思います。
私のように日々をなんとなく生きている人間がいる一方で、陰湿メガネのようになんだかとても踏ん張っている人がいるのです。あのメガネは陰湿なりに、嫌味という形で私たちとの距離を埋めようとしているのかもしれません。
態度はともかく、今日の先生は一味違いました。肉付きの良いお腹を揺らしながら、小さな硝子瓶を弄んでいます。彼が授業と関係のない私物を持ち込むのは珍しいことです。もしかしたら、つまらない紙面とのにらめっこを演じなくて済むかもしれない。そんな期待が生徒たちの間で沸き上がりました。
膨れ上がった好奇心に追い打ちをかけるように、彼は言います。
「嘆かわしくも無学の徒であるお前らに尋ねるが────悪魔を見たことはあるか?」
悪魔。
なんとも仰々しい言葉でございます。魔という文字が付いていますから、神秘的な出来事を指しているのかもしれません。
「グノラー。どんな存在か答えてみろ」
「えっ、えーっと……悪人とか犯罪者のこと、です」
「それは俗称、比喩としての悪魔だ。不愉快極まりない認識だな」
前の席に座っていたグノラー君は気まずそうに縮こまってしまいましたが、メガネは一瞥もくれずに教室を見回します。
彼の目がぎょろりと動くのが見えました。
「イゾルデ、また挙手はお前だけか。私の授業はいつから一対一で行うようになった」
先生が立ち上がるように手で促すと、後ろから椅子の引き摺る音が聞こえました。
オホン、と注目を集めるような咳払いをして、その生徒は朗々と語り始めます。
「魔術効果の逆流と、それに付随して術者に発生する肉体変化現象の総称です」
「模範的な回答だ。教科書通り過ぎてつまらんな」
教室でどよめきが起こります。なにせメガネが人を褒めるのは稀ですから、同級生たちは不思議と勝ったような気分になっているのです。
よどみなく回答を述べたイゾルデという女生徒は、肩のあたりまで伸ばした金髪を自慢げに弄りながら、こちらに視線を寄こしました。どうして良いか分からず、学級のお嬢様たちに倣ってニコリと微笑むと、彼女の目付きは厳しいものに豹変し、終いには顔を背けられてしまいました。
人との関わりとは、かくも難儀なものでございます。
「そもそも魔術とは、特定の文字列によって魔力に指向性を与える行為だ。正しい術文と正しい魔力量があって初めて成立する高等技術なのさ」
メガネは教壇から硝子の小瓶を取り出すと、腰ベルトから引き抜いた杖の先端を向けました。
「イグニス」という短い術文で、小瓶の中にほのかな火が灯ります。狭い空間からはみ出さない緻密な魔力操作から魔術師としての力量が感じられ、やはり陰湿メガネも教師なのだなあと妙な感心を覚えました。
「だが、こいつに魔力を込め過ぎると……」
先生が小さな杖を二度振ると、硝子の瓶は弾けてしまいました。飛び散る破片にかすかな悲鳴が上がりましたが、先生が「サブルム」と唱えるとあっと言う間に砂へ転じて、教壇とその周囲に砂煙が舞い上がります。
グノラー君が迷惑そうに咳をしましたが、メガネはやはり意に介しません。
「それ自体がエネルギーとなり、膨張する。耐え切れなくなった器は破壊されるのだ」
「さてさて、ようやく教科書を開く時間だ」とメガネが頁を指定すると、紙をめくる音が一斉に聞こえてきます。
はじめに視界へ飛び込んできたのは、禍々しい怪物の絵図でした。
隆起した骨なのでしょうか。鹿のようにたくましい角を額から生やし、こちらを睨むそれは、全身に植物の蔦が巻かれており、ところどころに葉っぱをくっ付けています。体型は筋肉質な成人男性にも見えますが、これを人と呼ぶ勇気はありませんでした。
「さきほどのように、人間は魔力を体外へ継続的に放出することができる。しかしこれは極めて危険な使い方だ。魔力とはいわば生命力。失い続ければ身体に悪影響をもたらす」
先生は教科書を掲げ、指先でとんとんと絵図を叩きます。
「失われた分を取り戻すため、身体が無意識のうちに放出中の魔力を逆流させるのだ。息をとにかく吐き出せば、めいっぱい吸いたくなるだろう。だが体外へ放出された時点で不可逆の変化を遂げているエネルギーを身体は受け付けられない。運が良ければ体調不良で済むが、魔術の発動中に逆流が発生した場合──────」
恐ろしいお話です。
術文によって形を与えられた魔力は魔術となります。先生の言う通りこれは不可逆の変質です。身体が魔力を求めて逆流現象を引き起こしても、戻ってくるのは魔術なのです。
私は改めて怪物の絵図を凝視しました。下には『カウリスの悪魔』という注釈が添付されています。
「──────人は、悪魔になる」
同級生たちの息をのむ音が聞こえたような気がしました。あるいは、私自身の音だったのかもしれません。
一度に魔力を使い果たしたり、こまめな休憩を挟んでいればこの現象は発生しないとメガネは言います。これをやらかすのは相当な愚か者であるとも付け加えました。
人に悪影響をもたらす魔、ゆえに悪魔。
魔力、魔術、魔人、魔獣。世界の理に関わるとされている概念は、ひとくくりに『魔』と表現されます。中でも生命の在り方を歪めてしまう悪魔は、とりわけ恐ろしい現象であるように思えました。
────
「ホルン、私の部屋に来い」
授業が終わり、同級生と一緒に帰り支度をしていると、陰湿メガネに呼び出されました。
友人たちは鼻息の荒い中年肥満オヤジに連行される私を悲劇の登場人物のような眼差しで見送り、私も「よよよ……」という泣き仕草で応えます。
教室の近くにある先生の仕事部屋は、見かけに反して小綺麗に整頓されており、壁際に並べられた資料の全てがしっかりと書籍の体裁で保管されていました。葉巻の煙たい臭いが気がかりでしたが、口呼吸をしていれば問題ない程度なので、特段指摘もしません。
「なんでしょうかー」
先生が小さな杖を振ると、近くにあった椅子がぐねぐねと歩き出して、私の足元で止まりました。彼はぶっきらぼうに「まあ座れ」と言い、仕事机に置いてあった一枚の紙を手に取りました。
よく見えませんでしたが、生徒の座席表だったように思えます。
「最近、学級の様子はどうだ」
「うーん、落ち着いてますよー。まとめ役のイゾルデさんが公平なので、変な軋轢とかもないですしー」
「ふん。貴族の公平ってのはな、飼っている動物を家に入れてやるというのと同じなんだよ。いくら品行方正を繕ったところで、連中が心から平民と机を並べることを望んでいると思うか」
授業中に睨まれたのを思い出し、内心苦笑いです。
身分がどうこう、というのは分かりませんが、彼女が私を嫌っているのは紛れもない事実なのでした。つまるところ、イゾルデさんに向けられた公平という評価は私に対してのみ無効になるのですが、このような特例をああだ、こうだと喋っても仕方ないので、苦笑いを胸の内に留めておきます。
「まあまあ、うちの学級は他と比べても仲良しだって評判なんですよー?」
今まで関わりの無かった十六歳の少年少女が集まれば、何かしらの不和は生まれます。これが一年、二年、三年と経過していけば適切な距離感を見出していくのですが、やはり初年度はそう上手にいきません。
中でも貴族と平民の階級違いは争いの種で、同学年の他学級からはいくらか不穏なお話も流れてくるのですが、イゾルデさんが社会的地位に伴う義務云々を率先して体現してくれるおかげで、うちには一定の敬意と健全な競争心が育まれています。
「……私はお前の、そういう傍観者気取りなところが好かん。好かんのだが、ゆえに当てになる。これからも学級のことをしっかりと報告するんだぞ」
目の前に、湯気の漂う陶器の器が差し出されました。
苦みのあるかおりが鼻孔をくすぐります。陰湿メガネは学級の様子を聞くたびに、報酬として珈琲を一杯ご馳走してくれるのです。砂糖や乳白料は入っていません。独特な渋い味わいは美味とは言い難いのですが、舌の奥をぴりりと刺激してくれてクセになります。
私は、この時間が嫌いではなかったのです。
最近の出来事から当たり障りのない話題を抽出していくつか話すと、メガネはすぐに私を解放しました。なにせ一杯のみですから、ちびちび珈琲を飲んでいると終わり際にはすっかり冷めてしまうのが悩みでございます。ほどよく飲み物を温めてくれる便利な魔術があったら良いのですが。
「失礼しましたー」
廊下に学生の姿は見えず、友人たちは帰路についてしまったようでした。
彼女たちの中では、私が断らないのを良いことに、陰湿メガネが夜まで仕事の手伝いをさせているという想像がまかり通っているようで、まあ当たらずとも遠からずなので否定もしないでいたのですが、やはり置き去りにされるとどこか寂しい心持ちになります。
さて、今日はどうしましょう。学校の近くに行きつけの喫茶店があるので、寄り道でもしてから帰りましょうか。
「待ってたわよ」
後ろから声が聞こえました。
はて、誰かと待ち合わせをしていたでしょうか。
メガネとの話は長く続く場合もあり、遅くまで待たせるのも忍びないので友人たちには帰ってもらっております。他の人と約束などしておりませんし、約束を忘れてしまうほど多忙な身の上でもありません。
振り返ってみると、そこには荷物を背負ったイゾルデさんと華やかな取り巻きの方々がいました。
「こんにちはイゾルデさーん。私に何か用ですかー?」
「はしたないわね。その間延びした喋り方は男受けを狙ってのこと?」
地方から上都してきた母の訛りが影響していたのですが、彼女たちが求めているのは喋り方に関する懇切丁寧な説明ではなさそうです。
上品に笑う取り巻きの方々は「あら、かわいそうじゃない」とか「およしになって」とか、上流らしい言葉遣いで先頭に立つ同級生を形ばかり諫めております。
「それも、よりにもよってブルーノ先生なんて……よほどお相手が見つからなかったのね」
堪えきれなかったのか、後ろから高らかな笑いがあがりました。
「あはは、大変恐縮でーす……」
何も恐縮する要素はないのですが、損はないのでやっておきます。
瞬間、イゾルデさんの笑顔にヒビが入りました。ぴしりという軋みまで聞こえた気がします。するりと感情が抜け落ちて、残されたのは眉一つ動かない鉄の仮面みたいな表情でした。
推し測るに、怒らせてしまったようです。
「…………さて、要件なのだけど」
イゾルデさんは、背負っていた荷物に手をかけてゆっくりと引き抜きます。
窓から差し込む光を受けて輝くそれは鉄製の長杖です。おそらく高級店の受注生産品。平民が扱う安価な木製の代物とは比較になりません。
杖の先端が私の目と鼻の先に突きつけられ、思わず身じろぎしてしまいました。
「ホルン、あなたに決闘を申し込むわ」