ひとりでに歩く人形・第8話
旅館で禊をすませた霧斗は夜、人形を連れて橘家を訪れた。昼間とは違って笑顔で迎えられた霧斗はリビングに行くとベビーベッドの周り四隅に塩をおいた。
「結衣ちゃんはそろそろ寝る時間ですか?」
「ええ。夜中も数時間おきにミルクをあげますけど、今ミルクをあげたら寝る時間です」
春枝が結衣にミルクをあげながら答える。霧斗はうなずくと人形を取り出した。
「よかったな。やっとお前の願いがかなうぞ」
優しく人形に語りかける霧斗に春枝と一彦は複雑な表情を浮かべた。
ミルクを飲み終えて眠った結衣を春枝がベビーベッドに寝かせる。そしてリビングの灯りを落とした。薄暗くなったリビングには春枝と一彦の布団が敷いてある。霧斗は人形をベビーベッドで眠る結衣の隣においてやった。
「…動かない?」
昼間は勝手に動いた人形が今は大人しく横たわっている。春枝が不思議そうに呟くと霧斗は苦笑した。
「この人形にとって動くということはとても疲れることなんです。昼間は短時間だから動いたんだろうけど、今夜はずっと一緒にいられますからね。結衣ちゃんも寝てるし大人しくしてるんでしょう」
そう言って霧斗がソファに座る。霧斗は春枝と一彦にいつものように休むよう言ったが、ふたりはとても眠れなさそうだと言って苦笑した。
それから数時間おきに春枝は結衣にミルクを与えた。その間、人形が動くことはなく、霧斗も特に何をするでもなく人形の様子を見守っていた。
異変があったのは丑三つ時だった。さすがに春枝も疲れが出て眠り込む。一彦もすでに夢の中だった。そんな中、結衣が目を覚まして泣き始めた。
「ふえー、ふえーん…」
もぞもぞと体を動かして泣く結衣。春枝はまだ気づかずに寝ている。すると、今まで動かなかった人形が動き出した。
人形はよたよたと起き上がると短い前足を一生懸命動かして結衣の頬を撫でた。それでも結衣が泣き止まないと、小さな声が聞こえてきた。
『ねーんねーんころりーよ、おこーろーりーよー…』
静かに聞こえてきたのは子守唄を歌う女性の声だった。その声に結衣が泣き止んで目を真ん丸にする。だが、結衣が見ているのは人形ではなく、人形の少し上だった。
「人形が歌ってる…」
いつの間にか起きた春枝と一彦が不安そうにベビーベッドを見つめる。霧斗はそんなふたりに「大丈夫ですよ」と言った。
「結衣ちゃんは今、お母さんと会ってます」
「え?」
「まさか、娘が?」
驚いた顔をするふたりに霧斗はうなずいた。結衣が見ている場所。そこには確かに若い女性が、亡くなった結衣の母親がいた。
「結衣ちゃんが心配だったんでしょうね。人形が結衣ちゃんのそばに戻ったんで、最後に様子を見にきたようです」
「最後…」
春枝の呟きに霧斗はうなずいた。死者の魂は長くこの世に留まってはいけない。結衣の母の魂はこれから黄泉へと行くのだ。
母親を見るのは初めてのはずなのに、結衣は母親を見て嬉しそうに手をのばしていた。その様子に春枝が涙を流す。結衣の母親は嬉しそうに微笑みながら結衣の小さな手を握っていた。
「これから祝詞をあげます。結衣ちゃんのお母さんが迷わず逝けるように」
霧斗はそう言うと柏手を打って静かに祝詞を読み上げた。その声に反応するように結衣の母親の姿が揺らぐ。それに結衣が泣き出すと、人形は結衣を慰めるようにぎゅっとだきついていた。
祝詞が終わるといつの間にか人形も動かなくなっていた。霧斗に声をかけられて春枝が慌てて結衣のミルクを作り始める。霧斗はそっと結衣を抱き上げると優しく優しく抱き締めた。
「きみはお母さんに愛されていた。それを忘れないで。この人形が必ずきみを守ってくれるから」
幼すぎる結衣が理解できるはずはない。それでも結衣は曇りのない真ん丸の目で霧斗をじっと見つめていた。
春枝からミルクをもらった結衣は何事もなかったかのように眠ってしまった。
「これでもう人形が動くことはないはずです。結衣ちゃんのそばにおいておいて問題ありません」
「わかりました。ありがとうございます」
一彦がそう言って深く頭を下げる。霧斗は首を振ると眠る結衣に目を向けた。
「結衣ちゃんを大切に育ててくださいね」
「もちろんです。あの人形も、大切にします」
霧斗はその言葉に微笑みながらうなずき、夜が明けると早々に橘家を後にした。
橘家を後にした霧斗はその足で寺に向かった。住職なら朝が早いためもう起きてお勤めをしているだろうと予想してのことだった。
予想通り、寺に行くと本堂から読経が聞こえてくる。霧斗は邪魔にならないようにそっと本堂に入ると読経が終わるまで扉の前に座っていた。
やがて、読経が終わると住職が霧斗を振り返って微笑んだ。
「おはようございます」
「おはようございます。お勤めの最中に申し訳ありません」
霧斗が頭を下げると、住職は「いえいえ」と笑って首を振った。
「橘さんのところはどうでしたか?」
「無事に人形の思いも浄化されました。もう動くことはないでしょう。人形は橘さんが大切にしてくれるそうです」
霧斗の報告を聞いた住職はとても安心したような顔をしてうなずいた。
「そうですか。よかった。これも霧斗さんのおかげです。ありがとうございました」
「いえ、俺は今回ほとんど何もしてませんから」
苦笑した霧斗に住職は静かに首を振った。
「私がいくら説得しても橘さんは人形を引き取ってはくれなかったでしょう。あなたが誠心誠意説明してくれたから、橘さんたちは納得してくれたのだと思います」
「そうだといいのですが。ひとまず依頼は完了したので俺はこれで失礼します。もし何かあったら連絡をください。それと、渡しておいた札はもう必要ないので燃やしてください」
「わかりました。ありがとうございました」
頭を下げる住職に霧斗も頭を下げる。霧斗は人形が穢れないよう守ってくれていたご本尊にも一礼して寺をあとにした。