第71話 かさね
わたりの声に異界へ引きずり込まれたその時へと戻ったのでしょう。燃え盛る赤黒い炎が逃げ場もなく全てを焼き尽くそうと、灰塵に帰そうとするのでした。
しかし、津波の如く襲いくる赤黒い炎を、新たに生じた青白い炎が押し返して行きます。葛葉の両の手から生じる浄化の炎で御座います。
そのまま赤黒い炎を呑み込むかと思えば然に非ず。忍が不快げに口元を歪めると、赤黒い炎は勢いを盛り返し、青白い炎と中途で押し合いとなるのでした。
炎と炎が喰らい合い、暴れ回るゆえに、誰も忍に近付くことができません。やがて膝を着いたのは葛葉であります。脂汗を垂らし、いまにも力尽きるかと思えた時、月を背に立ち上がったものがおりました。
外道丸で御座います。
それは、かっと口を開くと風を呼ぶようにして、赤黒い炎も青白い炎も、周囲の炎をすべて吸い込み、飲み込んだのでした。辺りが静けさに包まれます。
あたしを喚んだか。
酷薄な声が聞こえ、外道丸の断たれた腕が生え、大きな体はごきごきと収縮して小柄な女性の形を取ったのです。その姿を見た葛葉が、姉さん、と呟いて涙を零しました。
十五郎が喚んだ名は、かさね。
顕現した天下無双の鬼が忍に向かって足を踏み出します。恐怖ゆえか怒りゆえか、歯を剥き出しにして唸る忍の様子に頓着なく、無遠慮に近付いて行くのです。外道丸の発する気に、誰も彼も動けずにいる中、
「待っとくれ、忍に手ぇ出さんといてくれ」
と、五月が割って入りました。
「悪いのは全部うちや。悪いもんに憑かれとったらしい。殺すなら、うちを殺せ。頼む、弟を、忍を殺さんといてぇ」
その嘆願に、ふんと鼻を鳴らして、外道丸が五月を軽く払いのけました。さほど力を入れたとも見えぬのに、その体が宙を舞うのです。
地べたに転がった五月の逆さまの世界で、外道丸の腕が忍の胸を貫きました。声にならぬ叫びを上げますが、それを打ち消すように、
「殺すまでもない」
と言うと、外道丸の腕が水から抜けるようにして出てまいりました。
血が出ることも傷が残ることもなく、まさに殺すまでもなく。外道丸の手には、黒々とした瘴気の塊が巻きついており、無数の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えしております。
それを両の手で引き裂き引き裂きすると、果てには齧り付いて噛み砕き、咀嚼し、飲み込んでしまいました。べっ、と喰いかすを吐き出すと、それは怨嗟の呻き声を上げて散り散りになるのでした。
「不味い」
短く呟くと、口元を拭いまして、自然と腹を撫でるのです。葛葉を、続けて、佳乃を見ながら、八重歯を剥き出しにして笑いました。
「ふふ、もう腹には居ないかな。でも、わかるよ。あたしにはわかる。そこに居るんだろう。そう、貴女の名は……」
すべてを言い終えることなく、外道丸の体が風に崩れて散りました。季節外れの桜の花弁のように。
月に叢雲、花に風。
後には雲を纏った月だけが煌々と明るく、葛葉を、佳乃を、十五郎を、またそこに集う面々を静かに照らし出しておりました。
……これにて終幕。
今宵の物語は此処までで御座います。なんですか、まだ終わっていないだろうと? ええ、さいですな。
ですが、続きはまたいずれ。此処は東京の異界、吉原なり。廓の夜話は気紛れなもの。遊女の誓いと同じく、頼りにならぬものですよ。
さあ、もう夜も更けて参りました。
三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい? 熊野の御使を死なせ、地獄に落ちようと言うのですか。ふふ、嘘でも嬉しい女心。嘘から出た真とも言いますな。
さあ、お眠りよ。金を落としてお眠りよ。
遊女の涙に真が混じる。此の世の苦しみは此処へおいて逝くが良い。あなたもあなたもあなたもみんな、明烏夢泡雪。
一人でも二人でも、最後まで読んでもらえたなら幸いです。後日談を書くことも考えましたが、この話はここまでとなります。少し筆を休ませつつ、いずれ佳乃の物語を書きたいなぁ、と思っているところです。機会があれば、またお会いしましょう。
……と書いて準備してましたが、並行して書いてきた結果、あらかた書きあがっております。なので、今月は本作の手直し、来月には佳乃の物語を投稿していきたいと思います。




