第64話 江戸の華
不夜城吉原での妖しの夜を越えて、その後、しばらくは何事もなく。しかし、どこか不安な日々を過ごして来たもの。
それはそれとして、今のことです。夏の盛りを過ぎ、日暮らしの鳴く頃合いとなって参りました。久し振りの赤煉瓦倉庫で御座います。斜陽の差し込む食堂では、東昇と千代が喧嘩の真っ最中。大きなテーブルを挟んで、互いにそっぽを向いて顔をしかめています。
風間正三と舩坂和馬少佐も、その喧嘩に巻き込まれておりました。
そこへ、折り良くか折り悪くか、稲田十五郎が女学校帰りの神尾琴葉をつれてきたのです。おかしな雰囲気を見てとって、
「なんだ、喧嘩してるのか」
と口に出しますと、どことなく嬉しそうな声で、正三が応じて曰く。
「ええ、千代さんと東昇さんと大喧嘩をしまして。昼からずっとですよ」
「喧嘩の原因は何なんだ?」
「さあ? よくわかりません」
首を傾げる正三の後を引き取って、舩坂少佐が十五郎らを座らせます。
「正三、茶を頼む。十五郎とお嬢さんの分もな。まったく機嫌が悪くてかなわん。千代の奴が何を怒っているのかわからんが、どうも東京は危険だから大陸へ行こうと誘われたらしい。それが気に喰わないとか。気紛れな娘だからな。さっぱりわからん」
少佐が困惑げに苦笑しておりますと、黙りこくっていた千代が体ごと少佐の方を向いて、
「乙女心のわからん奴らめ」
と吐き捨てました。乙女心? と疑わしげな少佐に向かって続けます。
「あたしが居なくなったら、ここがどうなると思ってんだ」
「それは、困る」
「それだけか」
問われて首を傾げる少佐に向かって、テーブルの花瓶が飛びました。それを、すとんと片手で受け止めて苦笑いです。
「これだ。琴葉さんなら乙女心もわかろう。どういうことか教えてくれるかね」
「ふふ、同じ女ですからわかりますけど、それを言うのは野暮というもの。殿方がちゃんとしていただかないと。
しかし、さすがは大陸の道士様といったところでしょうか。ここ東京が危ないとのその話。今日はまさにそのことで出向いて参ったのです。このところ異常に火事が多く、吉原神社も焼け落ちたとのこと。
維新期の混乱と戦火に続く廃仏毀釈での打ち壊し、その後の地震や大火で多くの寺社仏閣が失われましたが、残った守護地も燃えて消えつつある。何者かが燃やしてしまったようなのです。残るは……」
そこまで口にしたところで、東昇が立ち上がり、がたんと椅子を倒しました。マオ? との呟きは猫のことでしょうか。何かに呼ばれるように、誰かを助けようとするかのように部屋を飛び出して行ったのです。
追いかけようとする間もなく、入れ替わりに飛び込んで来たのが三郎でした。全身、膾斬りにされたように血塗れで、開口一番、
「助けてください。燃える、燃えてしまう」
と悲痛な叫びをあげました。
驚く面々ですが、少佐殿ひとりは冷静に、三郎の傷が深いものではないこと、自分が反魂香の件で受けた傷に同じことを見てとりました。
「どうした、三郎。貴様ほどの者がらしくもない。落ち着いて話せ」
「……失礼を。詳しくは道々話しますから、心水教の屋敷へ来てください。辺り一帯が赤黒い炎に呑まれたのです。水で消えぬ炎、あれは此の世のものではない」
「わかった。とにかく行こう」
頷くと、正三に向かって、倉橋のばばぁに知らせておけと伝えます。それを聞いた正三は、
「ばばぁとは何ですか。みき様に失礼ですよ」
と、すっかり倉橋みきを尊敬している様子。ばばぁに誑かされたかと呆れながらも、重ねて、倉橋の御隠居に知らせておけと伝えて三郎とともに赤煉瓦倉庫を出るのでした。
続いて、十五郎と琴葉も心水教の屋敷へ向かおうとします。振り返った少佐が、
「あまり良い予感がせんな。貴様は御令嬢と留守居しておれ」
と命じますが、十五郎は首を振って、
「いえ、俺も行きます。それに、此の世の理の外の出来事であれば、琴葉と葛葉こそが助けとなるはずです」
と応じて譲りませぬ。傍らでは琴葉あるいは葛葉も、くすりと笑っていいます。
「御令嬢などと言われるほどのものでは御座いません。十五郎様を終の伴侶と定めたからには、何処までもついてまいります。ええ、それはもう地獄の底までも」
それを聞いた少佐は、十五郎の肩を抱き、しっかり護れと念を押しまして御座います。
さて、一行が辿り着いた心水教の屋敷ですが、不忍池の西側、少し離れた通りに位置し、元は武家屋敷だったのでしょうか。瓦屋根のついた朱塗りの板塀がぐるりを囲んでおります。
塀から門扉、植木まで、和の香りが馥郁と漂い、侘しくも美しい秋の色合いに映えています。と言えば、舩坂少佐も昔を思い出したことでしょう。しかし、いまは心水教の敷地ぐるりを赤黒い炎が囲っておりました。
三郎が此の世のものではないと言ったに相応しく、燃え盛る炎は朱塗りの塀を燃やすようで燃やさず、どろどろと煙を吐き出し、空を覆うように噴き上げているのです。
唯一、赤門だけが炎に巻かれず。
燃え上がる炎に囲まれた敷地と外界とを隔てる門はこれまた朱塗りで、その在りようは神社の鳥居を思わせます。内と外、此の世と彼の世、人の世と神の世を隔てるのに門や鳥居ほど相応しく、また美しい物もないわけですな。
朱塗りの門扉は吉原の大門のよう。赤黒く燃え盛る炎の中、それは救いの門、あるいは死出の門であるか。しかし、
「炎だと? 私には見えぬ」
と恐れげもなく近付く少佐でした。千代殿にも見えぬらしい。ただ、物の焼け焦げる匂いに甘くとろりとした香が混じり始め、濃密さを増し、やがて腐った溝川のような匂いが漂ってきておりました。
人もないのに、観音開きの門扉が、ぐぐいと押し開かれていきます。誘うような門扉の奥から、ちりんと鈴の音が聞こえ、んにゃ〜と猫の鳴き声が響いてきました。
「行くぞ」
振り向きもせず、短く声をかけると、舩坂少佐が門扉の奥へ足を踏み入れました。