第44話 神田の狐屋敷
さて、日も変わり、舞台も回りまして。ここは練塀町にある大きな屋敷で御座います。それなりに手入れはされておりますが、古い建物特有の香りが周囲に漂っていました。
延々と続く墨塗りの土塀が敷地と外界を隔て、庭木の向こうにはスレート葺きの屋根も見えれば、瓦屋根も見えています。要となる場所には獣じみた形相の鬼瓦が鎮座し、屋敷を守護しているのでした。
元々あった邸宅に、和洋様々の増改築を繰り返してきたもの。御一新でなだれ込んで来た洋と、連面と受け継がれてきた和の折衷が、時を経て馴染んできたのでしょうか。見る者に安堵を与える屋敷です。
御存知の方は御存知の神田の狐屋敷で御座います。華族の名門神尾家の屋敷であり、かつては、訪ねて不帰、禍福をもたらすなどと迷い家じみた噂まで立ったと言いますが、いまは、住む人、訪ねる人の寄せるあたたかな想いによるのか、狐屋敷と揶揄されることも少なくなってきたようです。
広い敷地の一隅に、こじんまりとした六角の庵がありまして。新緑に溢れる庭園が陽光を受けて輝いておりました。
縁側のガラス戸を開け放し、優しい風の通る室内では、荒く削り出された一枚板のテーブルに着いて、年の頃、十六、七の見目麗しき御令嬢が無心に手を動かしています。
部屋の外から呼ばう声も聞こえないのか、襖が開いて人の気配を感じるまで顔を上げもしませんでした。ふと気付いて上げた顔の先には、舩坂少佐の部下にして御令嬢の許嫁、稲田十五郎がにこやかな表情で立っていたのです。
大きなテーブルに手土産をごとりと置きまして、御令嬢に声をかけました。
「しばらくぶりだね。あたたかく良い陽気だ。無心で折り紙など、愛らしいことをしているじゃないか。今日は琴葉かね」
「十五郎様、いらしていたのですね。応えも待たずに女性の部屋に入るなど、お婆さまが生きておられたら叩き出されていますよ」
「はは、違いない」
笑いながら隣に座る十五郎です。その顔をじっと覗き込むようにして、琴葉と呼ばれた御令嬢が、ちろりと唇を舐めました。
「もっとも、お互いに結婚を約した身ですから遠慮会釈も要りませんが」
ふわりと身を預けるようにしなだれかかり、妖しい笑みを浮かべるのでした。辛抱たまらず、十五郎は……。と続けたいところでもありますが、そこへ割って入ってきたのが琴葉の兄、神尾瑞樹でありました。じろりと二人を睨みながら、茶菓子と湯呑みを乱暴に置きます。
「ほら、お茶だ! まったくもって嘆かわしい。神尾家の子女が、そんな風に媚びるようなことをするんじゃないよ」
「あら、お兄様。いつからいらしたので」
「さっきから居たの! 名門神尾家の当主自ら御茶を出してやってるんだ。心して飲めよ」
「ふふ、素直に使用人を雇う余裕がないと認めたらどうです?」
「いいんだよ。使用人は、あの子で最後さ」
「相変わらずロマンチックですこと」
笑みを浮かべる琴葉から目をそらして、十五郎に向かって真面目な顔で物申します。
「十五郎君、きみのことは信頼しているが、結婚するまでは許さんからな」
返事も聞かずに後ろを向くと部屋を出て行きます。その背中に向かって、
「お兄様、何を許さないのです?」
「やかましい! とにかく僕は許さん」
どかどかと去っていく足音を見送って、くすくすと笑う琴葉でありました。それを見た十五郎が遠慮がちに問いかけます。
「もしかして、もしかしなくても、今日は葛葉だったかな」
「ふふ、やっと気付かれましたか。私だって良家の子女らしく愛らしいことのひとつやふたつすることもありますよ。それを琴葉だろうなんて、いけずな人ですね」
拗ねたように言う葛葉に平謝りの十五郎です。とはいえ、葛葉の方も本気で怒っているわけではありません。ただ、遊びで揶揄っているだけなのです。
御存知ではない方のために秘密を明かしますと、葛葉も琴葉も同じ人物であります。神尾家では、時折、こうした娘が出るそうで。昔であれば狐憑き、あるいは気の病、西洋風に言えば二重人格といったところでしょうか。病といった風な印象もありませんが。
やわらかな日差しの満ちる庭の様子を眺めながら御茶を一杯。神尾家の当主自ら淹れたからかどうか、優しくあたたかな味わいでした。
舞い落ちる桜の花びらを黙って見つめる二人です。言葉がなくとも、気まずいようなことはなく。やがて日が陰り始め、夢から覚めたようにぽつり。
「……琴葉にお会いになりますか?」
これまでの悪戯っぽい調子はなく、少し寂しそうな声音でありました。
「いや、葛葉に会うのも久しぶりだ。今日はこのままでいよう。それに最近は、互いの境目がはっきりしないのだろう?」
「そうですね。いつぞや、明石と小夜さんを魂鎮めの歌で送ってからは特に。
元々、私は琴葉であり、琴葉も私であり。お互いがお互いのことを覚えているようになって、区別も曖昧糢糊としたものになってきました。病とするならば快気したと、憑き物とするならそれが落ちたとでも言えば良いのでしょうか。ただ、間違いないのは、葛葉も琴葉も、十五郎様を心からお慕いしております」
衒いもなく口に出され、思わず息を呑んで言葉の出ない十五郎なのでした。暫しあってようやく、うん、と短く応じられたとか。照れ隠しでもありましょう。風呂敷から手土産を取り出して葛葉に渡しました。
「これは心水教の霊水だそうだ。そこで名代をしている河津という御仁からもらってね。なんでも、万病に効く霊験あらたかな水だとさ。ありがたや、ありがたやってな」
「ふふ、あまり信じておられないようですね。綺麗な水ではありませんか」
葛葉が持ち上げた小瓶の中で透き通るような水が揺れ、落日に煌めいていました。
「俺は心水教の信徒じゃないからな。先日会った倉橋のばばぁ、じゃなくて、倉橋の御隠居も、救われるのは信じる者のみだと言っていたよ。件やら反魂香やら、眉唾物の博覧会さ」
しばらく互いの近況を話し、葛葉は十五郎が語る眉唾物の話を静かに聞いていたものでした。たちばなのこと、心水教のこと、倉橋のこと、件のこと、反魂香のこと。
「反魂香で死んだ人間に会えるなぞ、嘘に決まっている。人の想いに付け込んで卑劣なものだ。取っ捕まえて白洲に据えてやるよ」
葛葉に語るうちに気持ちも整理されたか、決意あらた、意欲あらたに、元気な様子で帰って行くのでした。
庵の外で十五郎の背中を見送っているところへ、ぴょこぴょこと歩いてきたものがありまして。葛葉が無心に折っていた和紙製の姉様人形です。戸の隙間から外へ勝手に出てきたらしい。葛葉が嬉しそうに呟きます。
「ようやく目覚めましたね。それでは名を与えます。貴女の名は……」
言いかけて体をふらつかせました。外見には貧血のような、しかし、そうではなく。世界が二重に見え、幻のような何かが見えたのです。
「あら、なにか懐かしい顔が見えたような気がしましたね。どうも最近、足下がふわふわとして仕方ありません」
首を傾げて足下に目を落としたところ、桜の花弁が舞い、所在なげに立つ姉様人形の上にふわりと落ちました。それを見て、
「そうそう、貴女の名でしたね」
と言いながら、再び首を傾げました。
「なんでしょう。どこからか浮かんできて……。佳乃、貴女の名は佳乃ですよ」
名前を与えられた姉様人形が嬉しそうにぴょこんと跳び上がりました。葛葉が目を細めて言います。
「この東京におかしなことが起きています。なにが起きているのか、調べて」
華やかな色彩の姉様人形が、ぺこりと頭を下げるように揺れまして。風に吹かれたか、風を吹かせたか、桜吹雪を捲いて浮き上がりました。宙を舞っていく先には遠く十五郎の背中が見えており、それについて行くような按配です。葛葉が、唇にそろりと手を当てました。
「あらあら、やはり十五郎様ですか。お可哀想に。人が良いばっかりに、また巻き込まれてしまうのでしょうね」
うふふ、と妖しい笑みで見送る葛葉でありました。春の終わりを告げる風が、薄れゆく西陽の底を静かに吹き過ぎ、どこかへ消えて行きます。




