第41話 水底の祭
心水教の名代にして元女衒、体術を極め、天狐の総元締めもしていた男です。その河津も、いまや良き夫たらんとしておるようですが、鍛え上げた身体は相変わらず。
一本芯を通したような頭の下げ方で、見ていて心地が良いもの。飯屋の娘、立花美由紀に頼みごとがあるとか。
実は、と切り出した河津の話を聞くのは美由紀だけでなく、居合わせた稲田十五郎と冬柴千代も耳を澄ませておりました。
実は、倉橋の縁者を探してやしてね。
光雄さんが亡くなって、続けて白里様も御隠れになり、その後、俗事にかまけて訪ね行くこともなく疎遠になっちまいました。
用事がなければ顔を出さないというのも理ながら冷たい話でさな。然るに、久々に用事があって屋敷へ出向いたところ、すでに越した後とのことで倉橋とは縁もゆかりもない方が住んでおられました。
越した先もわからず、こいつは参ったと後悔した次第。ここ最近、心水教に持ち込まれる相談に妖しげな話が増えてやしてね。光雄さんが生きておればあの人に、しかし、亡くなっちまったもんは仕方ねぇから、白里様がよく言われていた倉橋のばばぁを頼ってみるかと。
へぇ、美由紀さんも越し先はわかりやせんか。そうなると後は……。うん? 倉橋に何の用事か? それがねぇ、あっしにもうまく説明できんのでさ。
そうですな、汚ない溝を思ってくだせぇ。水ってぇのは大したもので、濁った泥水でも上澄みを為し、穢れを水底に落としてくれやすね。吉原の御歯黒溝でさえ、風もなく流れもなくとくれば表は透明なもの。
ところが、ここに石でも投げ込もうものなら、たちまちにして泥に染まりやす。江戸から変わって東京となり、異人やら陸蒸気、瓦斯に電気と来た日には、次々に投げ込まれる礫に、溝の底もお祭り騒ぎでござんしょう。
一昔前なら、祟りを恐れて外へ出ることもなかった鬼の腕やら秘仏やら、あるいは異形の者も哀れな見世物扱い。
迷信なんぞに縛られない自由な世になって、かえって泥が湧くように表に出てくるなんざ皮肉なもんですな。
心水教においても、湧いて出た泥に関わる相談事が増えておるんでさ。あっしには何も見えず聞こえず触れもしやせんが、沙希には聞こえ、白糸には見えるものもあるらしい。
寄る辺を失い、祀られぬものが表に出てきているような嫌な心地がいたしやす。
例えばの話、江戸の頃には家や村の名誉のために座敷牢やら床下に閉じ込められていた者たちが見世物に売られるようにもなりやした。そのうちの一つが件でさ。
獣面異相の少女で、生まれてすぐから床下で飼われていたとか。生きた虫や蛇を食って生き延びていた娘っ子でね。不吉な予言を為して死ぬ妖怪、件として晒されながら、もしや本物ではないかと言われたりね。
心水教でも霊水を売って活計としていやすからあまり言えた義理じゃねぇが、胡散臭い絵札やら薬やら、果ては反魂香などと称する物を売る輩まで……。
と、語り続ける河津を遮って、
それだ!
と声を上げた者がおりまして。大人しく耳を澄ませていた十五郎で御座います。
少々酔いが回って、何をしにここへ来たのだったかと思い始めていた矢先、反魂香との言葉を聞いて、思わず口に出してしまいました。
周囲の驚きと好奇の目に、ふと我に返って酔いの醒めるような心地の十五郎です。
「あ、あの、その、怪しい者ではありません。えと、その反魂香のことでちょっと……」
しどろもどろ、怪しさしかない様子をさておいて、白い軍服姿の十五郎を睨め付けるようにしたものでした。
「あんさんのその格好、舩坂和馬少尉、いまは少佐だったか。もしかして上官なり知り合いに、そんな奴はいねぇか?」
「あ、自分の上官です」
ぺらぺらと話してしまう十五郎でした。その姿を見て溜息をつく千代殿ですが、今回に限っては悪くなかったようで、人と人との縁を繋ぐには、無思慮無分別も大事なのでしょう。
たちばなの床机に腰掛けて互いの事情を話しました。河津の頼みは、舩坂少佐に倉橋のばばぁの居所を聞いてほしいとのこと。十五郎は、とにかくも少佐に話してみると応じました。
翻って、自分たちの用件です。反魂香について美由紀に尋ねたところ、少し恥ずかしそうに目を伏せながら、
「たしかに反魂香を買う約束はしました。ただ、なかなか高価な物ですから、すぐには買えず。後日の約束をしております」
「なるほど。しかし、反魂香というのは、あれは……」
「……いんちきなんでしょう? あたしだってそれくらいの分別はありますよ」
言いにくそうな十五郎の言葉を引き取って、寂しそうに微笑む美由紀です。
「でも、もしかして、もしかしたら、たとえ幻だとしても光雄さんに会えるかもしれない。そう思ったら、どうしても欲しくなって……」
「……光雄、土御門光雄さんですか?」
「ええ、そうですが」
訝しげな様子の美由紀です。おおよそ見当はついていましたが、確信を得た十五郎は、少佐から狐穴の話を聞いたことを伝えました。それを聞いた美由紀が少し目を赤くしながら言ったものです。
「そうですか、和馬さんがそんなことを。あの人もあたしと同じく、忘れられずにいるんですね。あの……」
と、思い切るように一息に。
「和馬さんに伝えてください。反魂香のこと、いくらでも協力します。その代わり、いえ、その代わりじゃない。なんてことでもなく、ただ、いつでも気軽にご飯を食べに来てほしい、顔を見せてほしい。お互いが生きている間に、元気なうちに会いに来てほしいと」




