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第3話 猫の呼び声


 明治東京の異界、吉原と境を接するあたりに下町の飯屋たちばながあります。普段は汚れた暖簾のれんがかかり、その繁盛具合はんじょうぐあいを示しておりますが、本日は暖簾はあがらず、しんとした様子。

 代わりに奥の住まいの方から、怨みがましいような、うら寂しいような猫の鳴き声が響いてくるのでした。


 夏も過ぎたとはいえ、まだ日も高いというのに、どことなく肌寒い。店と住まいの境となる引き戸を開けると、冷たい風が流れ出して参りました。

 閉め切った雨戸のせいで薄暗く、風に乗ってくる匂いは、甘いようなえたような。無骨ぶこつな四十男にも似ず、怯えた様子で孝蔵が声をかけますが返事はなく。

 その間にも部屋の中からは執拗しつように猫の鳴き声が聞こえ、障子しょうじに映る影は生き物のようにうごめいているのです。


 何度呼んでもいらえはなく、いいか、開けるぞと孝蔵が声をかけ、すっと障子を開けてみると、部屋の隅にうずくまった人影ひとつ。


 灯りもなく暗い部屋の片隅に、爛々と輝く両の眼があり、乱雑に体に巻きつけた着物の隙間から白い肌が浮かびあがっていました。

 化け猫が手拭いを巻きつけているかの如く、赤や青、金銀紫、稲妻色、華やかな色物を幾重いくえにも巻いて。しかし、まともにそでを通してもおらず、ところどころ露わになっております。

 平素、歳の割に幼さを感じさせる美由紀とは様相が違い、齢二十にも足らぬのに、円熟した遊女のような妖しい色気が漂っていました。

 おどろおどろしく施された化粧と気狂いじみた眼の光がかえって美しく、見る者を捉えて離さぬのです。


 その口元から、フーッ! と、警戒するような声が漏れます。


 孝蔵と和馬が息を飲んでいる間に、さらりと踏み込んだのが土御門光雄です。室内の異様な雰囲気も、飄々とした男の体を透けて通るのでしょうか。普段と変わらず、暖簾をくぐって御免よと来るかのような。

 細い目をさらに細めて、前を見ているようでみていないような。すいっと美由紀の前に身をかがめたものでした。


 この無遠慮な闖入者ちんにゅうしゃに、美由紀の方は赤く血走った両眼を爛々とさせながらも、ぺたりと背中を壁に押しつけて、家守やもりのようにへばりついております。その壊れた傀儡かいらいじみた格好のまま、光雄をにらみつけている。


 わずかな時の見つめ合い。


 すいっと静止を破って差し出された光雄の右手を恐れるように、びくりと身を震わせた美由紀が、ますます壁にへばりつく。噛み締めた歯の根の奥から漏れ出るように、フーッ、フーッ、と息を吐きますな。

 光雄の右手が美由紀の頰に触れようかという時、弾けるように開いた美由紀の口が、親指の付け根あたりに噛みついておりました。

 甘噛みというような生易なまやさしいものではなく、指ならば噛みちぎられていたのではないか。そう思わせる激しさでした。


 噛みつかれた光雄はと言いますと、顔をしかめながらも、右手を噛まれている間に、左手で美由紀の乱れた髪を優しく撫でてやるのです。

 長いことそうしているうちに、疲れたのか、飽きたのか、あるいは安心するところもあったのか、美由紀は光雄の手から口を離し、ひどく歯型がついて血の滲み出る傷口をぺろぺろと舐めて癒そうとしているかのようでした。


 胡座あぐらをかいた光雄のひざに頭を乗せて撫でられるに任せ、静かに眠りについたのです。

 声を発しようとした孝蔵に、光雄が静かにするよう身振りで伝え、四半刻もそうしていたでしょうか。美由紀が握りしめて離さない着物の帯を解いてそこに残し、そっと立ち上がると、部屋を出て障子を閉めました。

 最後に振り返って見た美由紀は泣きながら眠った赤子のようで、寂しく頼りなげに映りましたが、まとう空気は穏やかなもの。


 障子を閉め合わせて、ふうっと一息。


 美由紀の部屋の障子を背に、孝蔵と和馬を順に見ると、にかっと笑ってみせたのですが、その手からは血がしたたり、額には玉のような汗が浮かんでおります。

 二人を促して店の方へ移動すると、汗を拭きふき、傷の手当てをしながら、誰にともなく呟いて。


「いやはや、参った。こいつは思ったより悪い。今夜にもはらわねばならんなぁ」


 それを聞いて、苛立ちを露骨に交えた不満げな声で、舩坂少尉が問いかけます。


「祓うというのは、どういう意味だ? まさか本当に猫が憑いているとでもいうのか」


「さてねぇ。とにかく、僕は一度戻って準備をしてくるよ。その間に用意しておいてもらいたいものがある」


 光雄の言葉に応じたのは親父さんです。孝蔵は、先の光雄のやりように何やら感じるところもあってか、うやうやしい態度でした。


「わしに用意できるものなら何なりと」


「そうだねぇ。親父さんには、火鉢を四つ、蝋燭ろうそくを何本か、紙とすずりに筆を用意してもらいましょう。それだけで結構。あとは和馬に集めてもらおうかね」


「俺にか? まあ良いが、なにがいるのだ」


「まずは、鈴だ」


「鈴?」


「そう。猫の鈴さ。食われた猫の代わりに埋められて供養まで受けた形代かたしろだよ。霊験あらたかな水を注がれて、良い塩梅あんばいにできあがった」


「漬け物じゃあるまいし。鈴は鈴よ」


「へいへい、その通り。鈴に違いはあるまいさ。だが、ひとつ条件がある。親父さんに猫塚の場所へ案内してもらうのは良いが、掘り返すのは和馬だけでやってくれ」


「なぜだ?」


「さてね。ふふん、なぜでも良いじゃないか。所詮しょせん、鈴は鈴だろう?」


「わかった。どうせ説明する気もないのだろう。言うようにしてやるよ」


「うんうん、ありがたいね。持つべきものは友人だ。それともうひとつ。腰の刀は支給の軍刀ではなかったさな?」


「ああ、維新前から使っているものだ。こしらえだけは軍刀に模してあるが、粗悪な支給品など使う気になれん」


「たしか、室町の御代から伝わる刀だと言っていたな」


「銘が潰され、由来も不確かだが、作りと斬れに嘘はない。群千鳥むらちどり並の業物わざものだ」


「実地に試したわけだな?」


 問われて困惑しながらも、黙って肯首こうしゅする和馬であります。それを見て満足げに、


「よし、それなら良かろう。邪を断つには邪を。人の血をってきた刀こそ、化物退治には相応ふさわしい」


と何度も頷いて、さて、と言いつつ手を叩きました。柏手かしわでのごとく響く音がひとつの区切りとなりましょう。


「さあ急げ! 今夜のうちに祓っちまおう」


 にっかり笑って二人を見ると、颯爽さっそうと店の戸を開け、暖簾をくぐって行ってしまいました。呆気にとられて見送る孝蔵と和馬でしたが、出て行ったばかりの光雄が、ぬっと暖簾をくぐって戻りまして。


「親父さん、すまんが帯を貸してくれ。美由紀に取られちまってたのを忘れてた」


 頭を掻きかき言ったものでした。はてさて、なにやら頼りない男ですが、今宵の化け猫退治、どういう結末を迎えましょうか。

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