第39話 赤煉瓦倉庫に響く呻き声
【第二部開幕】
これより第二部となります。シリーズものの流れとしては、一部と二部の間に、「化して生くる者の戻らざるや如何に」の本編及び短編群が挟まってくる感じです。
未読でも支障ないように書くつもりですが、よければ、そちらもご覧ください。
川岸の桜を横目に、つるしんぼうと呼ばれる古着屋が広がる一角を過ぎますと、ぽつんと赤煉瓦倉庫が建っております。
明るい色合いの建物は、春の日差しを浴びて微睡んでいるようでした。ところが、そんな雰囲気にも似ず、倉庫の奥から苦しげな呻き声が聞こえてくるのです。
表には「帝国陸軍被服本廠神田倉庫」と銘板があり、陸軍関連の施設なのでしょうか。別段、拷問やら人体実験などと関係はなさそうですが、いったい何者の呻き声であるのか。
ちょうど、まだ年若い将校が出仕してきたところのようです。二十歳過ぎのこの男、名前を稲田十五郎と申しますが、呻き声に気付き、何事かと慌ただしく倉庫内へ入りました。
倉庫とは言い条、事務室から居住区、食堂まで備えられており、外観からは窺い知れぬほどの施設となっております。
呻き声が聞こえるのは食堂からで、十五郎が奥につながる引き戸を開けますと、そこでは舩坂和馬少佐が頭を抱えてテーブルに突っ伏していたのでした。
十五郎の姿を認めて、水をくれと一言。
受け取った水をごくごくと飲み干して人心地ついたのか、まだ頭を押さえながらも身を起こした少佐でした。ふぅ、と一息つきまして。
「情けないところを見せたな」
「大丈夫ですか。間違いなく飲み過ぎですよ。日本酒ばかり水みたいに飲んで。そりゃ潰れるでしょう」
「もう若くないな。際限なく飲まされて潰された。千代は本当にうわばみだ。なんとなく覚えているが、昨夜、私は何の話をしていた?」
問われて、戸惑うように十五郎が応じます。
「少佐の古い友人の話をされておりました。土御門家の縁者で、光雄という方が亡くなった時のお話を」
「ああ、やはりそうか。光雄の話をしたのだったな。千代のせいもあるが、あの話をした日はどうしても飲み過ぎてしまう。あいつが死んで、もう何年だ。十年近く経ったか。私も年をとるはずだよ」
言ってもう一杯水を所望します。今度はゆっくり一口二口と味わうように飲みました。
「時に十五郎、神田の狐屋敷へは顔を出しているのだろうな」
「狐屋敷なんて言ったら琴葉はともかく瑞樹さんが怒りますよ。なんだかんだ言って、神尾家の現当主様なんですから」
「結婚はいつだ?」
ぽんと聞かれて口籠もり、照れ隠しか、鼻を触りながら応じる十五郎で御座います。
「それはまあ、琴葉の卒業を待って……」
「女学校の卒業後か。では、来年まで待つのだな? 良縁、大事にするのだぞ」
はい、と素直にうなずく十五郎の様子に目を細めながら、自らを振り返って少しの後悔を感じているのでした。
「人との縁は大切にせねばならん。光雄のことでは、私もまだ若く、しがらみとともに多くの縁を断ち切ってしまったよ」
「縁を、ですか?」
「ああ、飯屋の娘しかり。悲しみを思い起こさせる人々との縁を刀で斬るように断ち切った。さぞかし冷たい男と思われておるだろうな」
「……そうでしょうか。生意気なことを言うようですが、人との縁は、薄れることはあっても切れることはないのではありませんか。飯屋の娘さんにしても、その縁は、まだ繋がっているのでは。お互いが生きている限り、いえ、たとえ死んでしまったとしても」
「そうだな。十五郎、その通りだ。負うた子に教えられて浅瀬を渡るか。人との縁は異なもの味なもの。貴様と神尾のお嬢さんとの縁も不思議のものであったな」
「ええ、本当に。ひとつひとつの出来事が無数に積み重なって出会いを生むのだと思います。ですから、少佐の言われる縁も、きっと何処かで繋がっています」
「たとえ死んでしまったとしてもか。儚い縁を切望する心に付け込む輩も絶えないがな。
世情混沌とするなか、怪しげな物を売り歩く詐欺師どもは水を得た魚のようだ。以前に人胆や霊天蓋、脳味噌の黒焼きなど、死体を薬にして売る輩を捕まえたことがあったろう。墓を暴き、刑死者の死体を買い入れ、まさに鬼畜の所業であったな。
少し掘り下げて調べているのだが、この件と絡んで、いわゆる反魂香で一儲けしようという輩がおるらしい。まったく悪党というのは油虫のようだ。潰しても潰しても湧いて出てくる」
「目星は付いているのですか?」
「いや、まだだ。書類の山を漁って買い手の方を拾い出していくしかない。そこから当たっていくつもりだ。十五郎、貴様も手伝え」
というわけで、舩坂和馬少佐に稲田十五郎の二人は、それぞれ書類の山と睨めっこです。なかなか時間もかかりそうですし、その間に反魂香について触れておくと致しましょう。
さて、この反魂香というのは遠く中国は前漢の頃、武帝の故事に因むものと言われております。亡くなったお妃様を偲んで再び会いたいという帝に命じられ、宮仕えの道士が秘術を尽くして作り上げたとか。
とは言え、反魂香の煙の中に愛妃の姿が見えたというもので、言葉を交わし、またあい抱きしめることができたのかどうか、それはわかりませぬ。ただの幻ならば、強く求める者には有り得ることやもしれません。ここ明治東京において喧伝されている反魂香は、そのような緩いものではないようですが。……おや、十五郎が反魂香の買い手を拾い出したようです。
「少佐、見つかりました」
「そうか。こちらも一人拾えた。こっちは男だが、そっちはどうだ?」
「女性ですね。住んでいるのは吉原界隈で、立花美由紀とあります。遊女でしょうか」
「……違うな」
「御存知で?」
「いや、だが、そこはやめておけ」
「なぜですか」
「なぜもへちまもない。いいから、やめておけ。他を探すんだな。私は、こっちの男の方に当たってくるとしよう」
「はぁ、わかりました。では、自分はもう少し資料を漁ってみます」
不承不承の返事に頷いて、舩坂少佐は逃げるように赤煉瓦倉庫を出ていくのでした。口中で独りつぶやきます。
やれやれ、まさに縁とは不思議のことだ。それにしても、反魂香とはな。あの猫娘、まだ光雄のことを想っているのではなかろうな。




