第26話 飯と煙草と酒と
草庵での惨劇を経て、舞台は吉原界隈の飯屋たちばなに戻って参りました。何処で何をしていようと腹は減る。だからこそ、飯はずっしりとした安心を与えてくれるのでしょう。
寡黙な立花孝蔵が煮炊きする音だけが響き、他には誰もいない。そう思えるほどの静けさでしたが、狭い飯屋の奥には、床几に腰掛けた舩坂少尉、光雄、河津の三人です。
さほど大柄の男もおりませんが、鍛え上げた身体に挟まれて窮屈そうな光雄でした。
蛙と熊が死んで、その後の煩わしい雑事も落ち着いた頃、河津が沙希を連れて訪ねてきたのです。その沙希は表で美由紀と遊んでおり、店には華のない男ばかりというわけで。
訪ねてきたわりには用件を切り出そうとしない河津が懐から小天狗を取り出して火を点けます。吐いた煙が宙にとぐろを巻きました。
「吸いやすか?」
差し出された煙草には誰の手も伸びず。仕方なくそのまま懐に仕舞い込むと、かりかりと頭を掻いたものでした。
そんな手持ち無沙汰な時間を楽しむように、光雄がゆっくりと口を開きます。
「今日は飯を食いにきたわけじゃないんだろう? 存外、口下手と見える」
「へぇ、飯は飯で食っていくつもりですがね。ここへ来ると、どうも調子が狂う」
「聞きたいことがあるんじゃないのかい」
「さいですな。腹の探り合いは向いてねぇんだ。あっしの腹の傷にかけて、正直なところを話しやしょうか」
ぐいっと御猪口を傾けて、一息に呑み干しました。黙って見ているばかりだった舩坂少尉が酒を注ぎます。
「まだ傷も塞がっておらんだろう。酒は程々にしておけよ」
「御忠告どうも。でもね、呑まずにはいられないのさ。腹の穴ぐれぇ、どうってこたぁない。生傷の絶えねぇ生き方をしてきたんだ。
良きように良きように、そう思って生きていても、なかなか意のままにはならねぇや。あっしは、ただ白里様に御恩返しがしたいだけなんですがね」
ぼうっとした表情で、今度はちびちびと酒を舐めるようにする河津です。身を乗り出していた舩坂少尉が体を引っ込め、代わりに光雄が河津の横顔を眺めるのでした。
「御恩返しというのは、静かな最期を迎えさせてやりたいと。そういう話だったかな」
「ええ、まあ。そうなんですがね。蛙は死ぬわ、熊は死ぬわ。寿命を縮めるどころの騒ぎじゃなかったさな。
思うようには行きやせん。心の何処かで、さっさと死んでくれりゃあなんて声が聞こえてきたり。それを打ち消す声が嘘か誠か。一等わからんのは己の心なんでしょうな。
ここへ来たのも何故なのか。自分でもよくわかりやせん。ただ、あっしは悪党で御座いやすが、白里様と沙希を裏切ることだけはしねぇ。それだけを言いたくて来ちまったような、そんな気もしやす。
お前さん方は、ほんに気の良い奴らだよ。あっしらみたいな逸れ者を相手にね。だからこその警告でさ。夜嵐の原田は危ねぇ。白里様からの頼みごとがあるみてぇだが、もう来ないでくだせぇ。これ以上、巻き込むわけには行きやせん。白里様は、あっしが護りやす。誰の手も借りるつもりはねぇです。原田が次に来ることがあれば、この身と引き替えにしてでも……」
思い詰めた表情の河津とは対照的に、軽薄な物言いの光雄です。
「まあ肩の力を抜くんだね。心配いらんよ。さすがに僕らも怖くなってきたところだ。そろそろ退いた方が良いような気がしている」
その言葉に、ほっと気を緩ませる河津と、逆に不満顔の舩坂少尉でした。ところが、光雄の言葉には続きがありまして。
「ただ、このままでは退くに退けぬ。人を動かす最も厄介なものは何だと思う? そいつは好奇心さ。知らぬが仏、それでも知りたい人の業。きみの生い立ちと沙希との出会いを語ってはくれまいか。それさえ聞けば、もう白里様の元へ行くのは止めよう」
「……好奇心ね。あっしと沙希のことなんぞを知って何の得があるんで?」
「得とか損とかじゃない。ただ知りたいのさ。虎狼狸の夜のことは聞いたよ。悪意のある語りながら、概ね、事実に沿うていたらしいね。それだけの思いを生んだものが何だったのか、手切れ金代わりに聞かせてくれ」
「それで退いてくれるんですかい?」
「ああ、約束しよう。白里様を訪ねていくことはない。その代わり、言えぬことは別として、嘘は無しで願いたい」
「わかりやした。ですが、沙希が戻ってきたら、途中でも話は終わり。それで宜しいか」
「ああ、構わんよ」
では、と懐からの小天狗。火を点けて、深く一服の後、河津が重い口を開きました。どこから話しやしょうかね、と考え込むように。
むろん、すべてを語るわけではありますまい。必ず切り捨てられる物があり言葉がある。嘘でなくとも出来事そのものではないのです。小天狗の煙に巻かれての語りは一先ず置きまして、河津の生い立ちから沙希に出会うまでのことを、みなさまには余さず語りましょう。
……ええ、余さず、などと大嘘で御座いますがね。少なくとも、河津の語りたがらぬことも語って見せますゆえ。聞く者も語る者も、覚悟をば。




