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第25話 語られぬ物語〈熊〉


 何者かの命とともに朝露あさつゆの如く消えていく物語のなんと多いことか。記されず、語られず、残されぬ言葉のなんと多いことか。


 野良のらに消えた話、囲炉裏いろりに消えた言葉、口中に埋もれた言葉、捨てられた神々、まつろわぬ神々、まつられぬものたち、おかくらさま……。


 語れ、語れ、語れ、と何かが言う。


 さあ幕間だ。河津も、沙希も、鳥目も、白里様でさえ知らぬ物語、すでに消えた物語を語ろう。我らが熊の命とともに消えた話だ。


 熊は、気付いたら山にいた。


 いや、いつからそこでそうしていたのか覚えがない。だから、気付いたというには当たらない。振り返ることもない。動物だった。言葉を知らなかった。

 山で自分を食いに来るオオカミを食い、クマを食い。ただ生きていた。不幸ではなかった。幸福でもなかった。動物だった。言葉を知らなかった。


 鉄砲で撃たれたこともある。火を噴くような恐ろしい痛みだった。それ以後は黒い棒を持った人間には近付かなくなった。


 ある時、山で子供を拾った。そばでは父親らしき男が死んでいた。数匹のオオカミを黒い棒で殺して。しかし、自分も殺されていた。

 子供はずっと泣いていた。食べたら美味しいかもしれない。だが、なんとなく食べ物ではないような気がしていた。


 それは生肉は食わなかった。木の実をやると喜んで食べた。なんだか嬉しかった。春の日溜まりに眠るような気持ちだった。


 子供と過ごすうちに、熊は少しだけ言葉を覚えた。めし、ねむい、さむい、あったかい。それと名前と。


 幾らかの時が流れた。


 熊のあずかり知らぬことだが、付近の山里に人食いグマが出た。クマ狩りがなされ、多くのクマが巻き添えで狩られた。

 やがて、熊自身も狩られる羽目になった。

 ただ山中に生きてきただけでなく、恐らくは生まれ落ちた時から、本物のクマにしか見えぬ姿だったのだ。


 猟師に撃たれ、留めを刺されそうになったとき、その子が身をていして熊を守った。子供がたおれた時、熊は激しい怒りが脳髄のうずいを突き抜けるのを感じた。

 何を撃ったかに気付いた猟師が、慌てて駆け寄ってきた。そいつを殺そうとしたが、その子は、熊の毛皮の端を掴んでだめだという。無闇むやみと血が流れ出ていた。さむい、そう言って子供は目をつぶった。唯一してやれたことは、抱きしめて温めてやることだけだった。あったかい、それが最後の言葉だった。


 名前を呼んでも、もう返事はなかった。


 その子の返事がないのなら、言葉に何の意味があるだろう。熊は言葉を仕舞い込み、物言わぬ熊男として見世物小屋に売られた。

 小屋では酷い扱いを受け、何かあるたびに殺して逃げようと思ったが、心の中で、だめだという。その子はだめだという。どうすれば良いか、わからなかった。


 そんな折に自分に近付いて来た人間がいた。同じ見世物にされながらも、上手く立ち回って自由な身、むしろ金持ちの軽薄な男。稀代きたい蛙面かえるめんだ。金を稼いで遊んで騒いで、しかし、常に寂しく孤独な子供を身中に潜ませている。

 蛙は熊を引き取るという。調教して従わせると。熊を虐めるのだという。だが、黙って見ていると、本当は他の奴らに虐めさせないためだとわかる。言葉に頼らず、黙って見ていると、そうわかるのだ。蛙は自分が守ってやろう。そう思った。


 散財して破産した蛙が心水教に入り、当然の如く熊も一緒に入った。そして五年ほど前、河津の背中で死にかけている沙希を見たとき、仕舞い込んでいた言葉を思い出した。


 死なせてはならないと思った。少し、何かがわかった気がした。そうだ、この子を泣かせてはならない。弱き者、儚き者、哀しき者たちを泣かせてはならない。


 背中から心の臓に至るまでが無性むしょうに熱い。


 白里様のひざで笑っている蛙、泣いている沙希の顔がぼんやりと見えていた。蛙は笑っている。沙希は? 泣いているじゃないか。何を泣いている。どうすれば笑ってくれる。ああ、そうだ。あの子の顔を真似して、自分は笑顔を覚えたのだった。まずは自分が笑うのだ。人に笑っていてほしければ、まずは自分だ。そうだ、そうだった。


 熊は不器用な笑顔を浮かべて目を閉じた。世界を閉じる瞬間、つられて泣き笑いになった沙希の顔が見えた。それが最後の光となり、蛍のようにまたたいて消えていった。


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