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第1話 明治東京の異界


 時は明治、場所は江戸、いやさ東京。慶応四年に江戸が東京と変わりまして、まだ日も浅いころのお話です。


 いやはや、都市の名前が変わっても、日々の暮らしに変わりは御座いません。お上の為すこととは関わりなく、民草は弱々しく、またしたたかに暮らしを続けておるもの。


 西洋の新たな知識や宗教、物の考え方、有象無象うぞうむぞう玉石混合ぎょくせきこんごう雪崩なだれ込み、怒涛どとうとなって押し寄せてくるなか、文明開化の足音が、暗い迷信、世の迷い言を追い立て、追い散らし、その息の根を止めたのです。しかし、


 ほんたうのところはどうでしょうか。


 暗い湿った土の中を住処すみかとし、あるいは、濁った深い水底みなそこむ生き物のように、人もまた、明るい日の光だけでは生きられない。


 くらいものなしには、いきられない。そんなところがありはしないか。



 この物語もまた、お天道様てんとさまの下では生きられない、そんな輩の世迷言で御座いましょう。ここは東京の異界、吉原であります。


 華やかな色街ではありますが、表裏ある維新の如く、華の裏には、しいたげられる者どもの恨みぶしが透けて見えまする。


 異界の外れに位置する裏通り。ごみごみとして雑多で、色街から弾かれたものが捨て置かれているようで。


 宵明けの空みたく、寂しい通りですな。


 しかし、いまは夕焼け空の下を、呑んだくれやら汚物やら、ひょいひょいとまたぎながら、ひょろりとした和装の男が歩いて参ります。


 表情が読みにくい、とらえどころのない男で、ぬらりひょんのようでもある。どことなく軽薄な感じと、ゆらゆら陽炎かげろうのように影の薄い感じと。目の奥を覗き込めば、身震いするような冷たさが。


 とある飯屋の前で歩を止めまして。


 古い、こう言ってはなんですが、小汚い町の飯屋で、たちばなと屋号が出ております。するりと暖簾のれんをわけて、三十路みそじそこそこのその男が店へ入りました。


「あら、光雄さん。いらっしゃい」


 小汚い店には似合わない、若やいだ明るい声が迎えてくれました。たちばなの一人娘にして看板娘。立花美由紀たちばな みゆきという優しい娘です。

 父一人、子一人の寂しい家庭ながら、この娘の底抜けの明るさに救われてきたようです。明るい分、人の良いような、少しばかり間の抜けたようなところもあるようですが。地味な着物も、若い娘の可憐かれんさを覆うことはできませぬ。


「やあ、美由紀ちゃん。今日も可愛いね」


 軽薄な感じで、さらりと言います。男の名前は土御門光雄つちみかど みつお。土御門家の端くれのようですが、その話はいずれ。


「もう、光雄さんは調子のいいことばかり言って! 女の子と見れば、誰彼かまわず言ってるんでしょ。だまされませんからね」


「いやいや、美由紀ちゃんだけさ」


「あーあ、黙っていれば格好良いのに。やっぱり、和馬さんみたいに寡黙な人の方が好きだなぁ。すっごく強いし」


「美由紀ちゃん、美由紀ちゃん、それこそ騙されちゃいけないよ。あれはね、寡黙じゃないの。助平すけべなんだよ」


「誰が助平すけべだって?」


 胆力のありそうな低い声音こわねが響き、光雄の肩に、ぐっと太い指が食い込みます。ちょうど和馬と呼ばれた男も店へ来たようで。

 まだ若く、もしかすると光雄よりも若いかもしれません。維新のどさくさに紛れて江戸へ出てきて、いまは新政府の雇われ者。軍人のような、密偵のようなことをしている様子。登録では舩坂和馬ふなさか かずま少尉とされておりますが、はたして本名かどうか。


 指の太さとは裏腹に、強靭きょうじんな肉体を研ぎ澄ませて抜き身の刀のような男。同じように痩せていても、のらりくらり、ひょろひょろの光雄とは真逆の印象で御座いますな。寄らば斬る、そのような。


 さて、斯様かように雰囲気の異なる二人ですが、妙に気が合うらしく、良い飲み連れとなっております。

 今日も、酒を飲み、飯を食いながらの四方山話よもやまばなし。といっても、ほとんど一方的に光雄が話し、和馬の方は聞いているのかいないのか。店の手が空くと、時折、美由紀が口を挟む。不格好ながら、それなりの会話が成り立っているようでした。


「いやあ、参ったね」

 空の徳利とっくりを、光雄がぶらぶらと振ってみせます。「ここのところ、商売あがったりだ。陰陽寮おんみょうりょうは無くなり、天社禁止令からこっち、何一つ公に動けなくなっちまった」


「もう土御門家の免状も発行できないのだから商売もくそもないだろう。陰陽師などやめて、真面目に働くがいい」


「はあ、やだやだ。御一新の裏側を歩いてきた根無し草に説教されるなんて、嫌な世の中になったもんだなぁ。こうなったら、一丁、新たな神道でも立ち上げてみるかね。なんと言ったかな。霊水で有名な新神道があったっけ」


「心水教でしょう?」


 煮魚を出しながら口も出したのは、立花美由紀です。客も少なく手が空いている様子。


「そうそう、心水教だ。よく知ってるね」


「そりゃあ知ってるわよ。業病ごうびょう、疫病、熱病に、歯痛はいた火傷やけど、打ち身、切り傷、なんでもござれ。心水教の霊水は、万病に効くって触れ込みで大人気。

 漢方やおふだは人気がなくなって、さりとて西洋の薬なんてものは高くて買えやしない。仕方がないから、ただのお水と思っても、効くと思って飲むしかない。そうでしょう?」


「いやぁ、参った。その通り。近頃は、霊験あらたかなお札より、胡散臭うさんくさいお水の方がよく売れる。僕も、水売りに転向するかな」


「ふん、馬鹿馬鹿しい」

 鼻を鳴らして、ドンとさかずきを置くのは、偉丈夫いじょうふの舩坂和馬少尉です。「水は水、ふだふだだ。それ以上でも以下でもない。そんなものに惑わされる奴らの気がしれんな」


「おやおや、それを和馬が言うかね。例の狐穴の件、忘れたとは言わさんぞ」


「あれは、本当に花魁おいらんがいたんだ。札や水とはわけが違う」


「狐穴って、あれでしょう。吉原で一番人気の花魁が、花柳界かりゅうかいの外を見たくて開けたのぞき穴。逆に外から覗き込んだ男どもが骨抜きにされたって。和馬さん、そんなのに興味があるの? まさか本当に助平すけべなの?」


「はっ! 助平でない男なぞおらんさ。だが、あれは、あの花魁の美しさは、そういうものではなかったよ」


「はっはっは、ほらみろ助平だ。和馬ですら惑わされるくらいなのだから、そりゃあちまたで男を惑わす狐穴なんて言われるはずさ」


「馬鹿馬鹿しい。ただの木塀の破れ目さ」


「そうさ、そうそう、その通り。だが、水でも札でも塀の穴でも、それだけでない意味を持つ時、それは、ただの水、ただの札、ただの穴じゃあないんだ。

 周りの人々が、それを浮き上がらせるんだ。抜き絵のように。そこに無くても人の振る舞いを変えさせるなら、それはそこに有るんだよ」


「相変わらず、意味のわからん話だな。この文明開化の御代みよに陰陽師なぞいらんと言っていたのはおまえだろう」


「はっはっは、そうそう、そうだね。ついつい喋りたてちまった」


「あら、あたしは光雄さんの馬鹿話は嫌いじゃないわ。意味はなくても楽しいもの」


「意味がないとは、こらまた辛辣しんらつだ。だがまあ、その通り。世の詐欺師、弁士、まじない師の類いは、意味のない言葉こそを大切にするんだ。空っぽだからこそ、聞き手が勝手に意味を入れてくれるのさ」


 光雄の言葉に、ふふ、と笑って応じると、美由紀は呼ばれて別の客の元へ。後は、光雄と和馬と、ほどよく飲んで店を出ました。


 軒先のきさきに、猫が一匹。


 仔猫と言ってもいいぐらいに小さく痩せっぽち。白い毛並みが薄汚れ、野良猫でしょうか。そのわりに人懐っこく、愛らしい顔を無邪気に二人に向けると、その首に小さな鈴をぶらさげて、ちりんと鳴らしたものでした。



 たちばなの親父さんから、美由紀を助けてやってくれと頼まれたのは五日ほど後の話です。


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