第17話 独白と密談
さて、夜嵐に攫われて後に帰り来た白糸嬢で御座いますが、身の回りの世話は、一回り年下の沙希が一人でしております。
耳が聞こえず口がきけずとはいえ、並みの者よりは余程気の利くたちなのか、不自由もない様子です。むしろ、誰にも言えぬが誰かに言いたいことを沙希の前で話してしまう。そんな雰囲気を持った娘なのでした。
今日は、白糸嬢が何やら語りかけておるようです。むろん、沙希には聞こえず、相槌も返事もないわけですが。何を話しているのか、少し耳をそばだててみては如何でしょう。
沙希はいいなぁ。気にかけてくれる人がいて。河津はいい奴だ。
でも、いい奴ほど早くあの世に呼ばれる。特にあいつは死にたがりに見えるよ。沙希が引き留めてなきゃ、すぐにも逝きそうだ。
……かあさまは悪い人だったのになぁ。
傀儡子の人形繰りを見たことある? 猫や犬や人や、みんな生きてるみたいに動くの。お祭りは楽しみだった。沙希はいいねぇ。しゃべらなくていいし、なにも聞かなくていいもの。人形だって寂しいし、口も耳もある。しゃべりたくなっちゃうもの。
玉藻様とのおしゃべりも楽しかった。姉さんたちも、いい人ほど早く死んで、やな奴ほど生き延びて遣り手になってたっけ。身請けされて華族の奥方になられて、いつか呼んでくれるとのおっしゃり。でも、やっぱり早くに死んじゃった。白無垢も死に装束も、おんなじなんだね。
どのみち呼ばれるまで妓楼には居なかったけどさ。にいさまに攫われなきゃ、無理だったろうねぇ。吉原の大門は、生きては帰れぬ死出の門。身請けなんて、とてもとても。だから、一応の感謝はしているんだ。二束三文で買われた体、いまさら惜しくもない。かあさまが悪人だったことを聞いてからはなおさらだい。
あーあ、いずれ呼ぶと言ってくれていたのになぁ。天下の玉藻大夫のおっしゃり、嘘もなかったろうに。かーごめかごめ、かごの中の鳥は、いついつ出やる。後ろの正面だーれ? 明烏夢泡雪ってね。
死んじゃったら約束も守れない。嘘つき!
さあさあ、演じてみせましょう。由らしむべし知らしむべからず。理解なんてしなくていい。黙って事を為しましょう。慣れず、添わず、親しまず。
誰も彼も、酔って踊って踊らされ、されるがまま言われるがまま。儘ならぬ此の世を生き抜く知恵だ。演じなければ生きられない。
花柳界に残っていれば、どうなっていたのだろう。人気の花魁になれたのかしらん。結局、水揚げ前に連れ出され、水揚げの妙も知らずに陸に上げられちゃった。
どんなかな。どんな風なのかな。怖くない、怖くない、いいもんだよって。みんな嘘つきだ。ねぇ、沙希、水揚げってどんなことか知ってる? それはねぇ……
と水揚げの妙を聞き齧りで艶っぽく語ってみせる白糸嬢です。ところが、それまで何を話しても無表情だった沙希が、震えてお手玉を落としたのでした。ひねくれた表情を捨て、素直な心配を顔に出して問いかけたものです。
「ひどい汗。いったいどうしたの? 大丈夫?」
それに対して沙希の方は、顔を伏せ、無言のままで白糸嬢の手を掴むと、手のひらに指の腹で大丈夫と書いてみせました。
以上のやりとりは母屋でのことですが、こちらは擬似洋風の離れにおいてで御座います。西洋かぶれの信徒頭、鈴木久吾が住む和洋折衷の建物で、外観は洋風ながら二階ベランダ奥には障子が引かれ、和室となっております。その和室に向かい合って座っているのが、当の鈴木久吾と、もう一人。
二十歳前後の美貌の青年です。
当時としては珍しい揃いの背広姿で、背筋を伸ばして座っております。その様を見ながら、久吾が、ずずずと茶を啜りました。
「その服、神戸元町の仕立てですか」
「ええ、所用あって立ち寄った折りに。やはり背広は柴田洋服店に限ります」
「そうですか。私も頼んでみるかな。
しかし、そうしていると、育ちの良いどこぞの御令息のようですね」
言われて、にやりと顔を歪ませました。
「へへっ、そう見えるかい?」
「ええ、つい今し方まではね。その下卑た顔と口調では御令息には見えませんよ」
「いいんだよ。あんたの前では、夜嵐の原田さ。悪事をしようと思うなら、顔は使い分けなきゃならねぇ」
「時と場合に応じて、また口調もですか」
「そうさ。服を変えるように人を変えていけば捕まるはずもないでしょう」
「では、君の本当の顔は?」
「それは秘密です。ええもう、白里様の霊水にかけて。口が裂けても申せませんな」
「まあ好きにするがいい。いずれ、すべては我らの手に落ちます。熟した柿が落ちるのを待つように、ただ静かに待つとしましょう」
「はっ! 阿呆みたく、柿の木の下で口をぽかんと開けて待つのかよ。嫌だね。そんなに待ってはおられません。僕は気が短いからね。
やってやろうじゃないですか。萎びたばばぁの一人や二人、俺様に任せておけ。この私が、直々に縊り殺して差し上げましょう」
「そう上手く行くかどうか。河津はじめ、白里様を崇拝する連中がそばに侍っていますよ」
「ふん、河津なんざ糞食らえだ。蛙に熊に鳥目に赤黒、どいつもこいつも白里様、白里様と下らないですな。あっしが黄泉送りにしてやるぜ。河津、河津か、あの野郎、調べりゃ埃が出るわ出るわ。女衒風情が偉そうにしやがって」
「何を言うのも自由ですが、天狐は使わせられませんよ」
「いりませんよぅ、あんな狐ども。へへっ、ご存知ですかな、ご存知であろうか、ご存知でありましょうな。明治の御世の大悪党、夜嵐は博徒崩れの集まりと思われていやすがね。本当は、ほんの二人なのさ。大勢いるように見えてそうじゃない。たった二人で悪事を尽くす。夜討ち強盗、殺人に、人攫いから盗みまでなんでも来いだ。詐欺だって何だって、出来ないことは何もない。此の世に悪を咲かせましょう。さてお立ち会い、花咲かじじいで御座い。とざいとーざい、これよりお目にかけますは、小汚いばばぁの骸で御座い!」
原田が両手で顔を撫で回すと、現れ出たのは白里様の顔でした。にたりと笑って藪睨み。さらにもうひと撫で、また別の顔が生じます。
「さあ、お待ちなんせ、お待ちなんせ。これよりお座敷でありんす」
立ち上がった原田は、た、た、た、たん、とタタラを踏んで、芝居じみた格好で障子に倒れ込みました。派手な音を立ててひっくり返り、飛び散った障子の組子に和紙、その中に埋もれたはずの原田が一瞬の内に消えています。
ベランダの向こうから晩秋の風が入り込み、湯飲みに浮かぶ茶柱を揺らしました。寒風吹きっ晒しの中、久吾がずずずと茶を啜ります。
「気狂い野朗め。勝手なことばかりしますな。いっそのこと、あいつから消してやりましょうか。とはいえ、もし叶うなら河津と白里様を殺してもらってからでも良いでしょう」
その顔が冷たく見えるのは、寒風のせいばかりでもなさそうです。ほくそ笑む悪い顔は、どこか原田に似ていなくもありません。