第16話 沈まば沈め、影三本
行方知れずであった白糸嬢が戻り、土御門光雄もお役御免かと思えば然に非ず。多くの信徒を抱える心水教の教祖に頭を下げられました。千里眼の持主と名高い白里様も足元は見えぬとか。そろそろ身を引くか死ぬか、自分はそんな頃合いなのだと言われます。
その亡き後、信徒を惑わすことのないように、なにやら不穏なものの漂う中のことを探ってほしいと頼まれたのです。下げた白髪頭を上げてきたところへ、光雄が声をかけまして。
「白里様、さように頭を下げていただくこともありません。嘘をつくのは人の業。欺かれるのも人の常。下地にあるのは人の思いでもありましょう。もつれて絡んで解けぬ嘘を解いてやるのも楽しきかな。
しかし、先ほど言われたように、私どもは外の人間です。ここらをうろうろしていてはそれこそ不穏でありましょう」
「気にすることはない。わしと倉橋のばばぁとの腐れ縁、古参の者は知っておるし、通じて、あんたに諸事を頼むのもおかしくない。
強いて尋ねてくる者があれば、夜嵐の警戒と、わしの世間話の相手を頼まれたと言うておけ。実際、懐かしい俗世の話も聞きたいわい」
ひひ、と笑って、その後は吉原界隈の在りようを色々と尋ねられたのでした。明治維新が叶っても、大きく変わることのない色街の。
あれやこれや話し込んで、高い日も傾きかけてきた頃、草庵を辞して帰路につきました。
にじり口に立って微動だにしない熊と、その肩で、挨拶しても返さずに鼻を鳴らすだけの蛙に見送られ、竹林を抜けます。さらに母屋の脇を抜けようという時のことでした。
赤黒い夕日を浴びて、三本の影。
山へ帰る烏の影なき声だけが漂う寒空の下、ぴりぴりと張り詰めたものが感じられます。案内の信徒が深々と頭を下げた先には、白糸嬢と御付きの沙希、そして河津であります。
相変わらず険のある目の下の隈と相まって、人を値踏みするような目付きです。横目で白糸嬢を睨んでいるかのような河津ですが、当の白糸嬢は素知らぬ風で夕日に手毬を当てております。河津は信徒の労をねぎらって退がらせ、次に光雄に向き合いました。
「後は、あっしが送りやしょう」
「そうかい。そいつは有り難い。わざわざ待っていてくれたのかい?」
「へえ、本当は出迎えもするべきところ、色々と雑務がありやして。二代目として為すべきことをすぐに放り出しやすんで」
「あは、いいじゃないの」
愛らしくも物寂しい声で、白糸嬢が口を挟みました。「だって、いなくても回ってたんでしょ。ここにいてもいなくても、何をしようとしまいと、きっと変わりはないもの」
にこりと嗤った顔は、夕日に焼けて赤黒く影となり、空っぽのようでした。続けて、ぷいと顔を背けての手毬唄。きらきらと輝いては影に落ち、飛んで跳ねては地に落ちる。一番はじめは一の宮、二また日光中禅寺……。
客人そっちのけで遊び始めた白糸嬢を嗜めるのも諦めてか、何気ない風に、しかし真面目な調子を秘めて河津が聞くには。
「白里様は、何か言われてやしたか。ちっと頼み事もあるようなことでやしたが」
「ああ、頼み事ね」
白糸嬢の手毬唄に気を取られ、上の空で光雄が応じます。
「何を言われやしたか。もし、あっしに出来ることなら……」
「何をってほどのことじゃない。倉橋との諸々のやりとりや世間話の相手をしてほしいとさ。たちばなのことも御存知だったよ」
「へえ、たちばなを?」
「縁がおありの様子だったね。それとこいつが本命で、夜嵐の警戒をしてくれと」
「夜嵐の……」
との声が聞こえたか、白糸嬢が毬を突き損ね、ぽてんぽてんと転がっていってしまいました。拾い上げた沙希から無言で受け取りますが、その表情は影となって見えませぬ。夜嵐に攫われていた間のことを思い出したのでしょうか。如何なる目に遭わされたか、わかったものではありません。
厳しい表情の河津が腕を組み、ぎりぎりと歯を鳴らして吐き捨てたものでした。
「夜嵐か。誰か言いやがったな」
「普通に話されておったよ。千里眼の白里様、それぐらいは御見通しなのでないかね」
「わからねぇ。夜嵐を警戒しているぐらいのことは構いやせんが、白糸嬢が攫われていたことはそこらの信徒には内密に願いやすよ。あっしが、二度と手は出させねぇ」
「そう願いたいねぇ。とはいえ、一応は頼まれたことだ。こちらはこちらで好きにやらせてもらうよ。母屋でも竹林でも、どこでも自由に出入りしてくれとさ。困ったことがあれば河津に頼めとのことだった。よろしく頼むぜ」
「へぇ、それが白里様の意向であれば」
つるりと頰を撫でる河津です。その目には焦りと憤りが燠火のように燃えておりました。それと知ってか知らずか、光雄らを案内していく河津の後ろを、ころりころり、白糸嬢と沙希とが二人して追って参ります。
朱塗りの木塀に囲まれた心水教の敷地と外界とを隔てる門は、これまた朱塗りで、その在りようは神社の鳥居を思わせます。心水教は神道のひとつですから、故意に模してあるのかもしれません。
内と外、此の世と彼の世、人の世と神の世を隔てるのに門や鳥居ほど相応しく、また美しい物もないでしょう。ただの木組み、ただの敷居であるのに、それを隔てて世の理が変わるような気がするのは何故なのか。
先に立った河津が観音扉を内向きに開くと、すっと割れた合わせ目に夕暮れ空が浮かび、落ちかけた赤い光が差し込んできました。少し離れて立つ白糸嬢と沙希とは門扉の投げかける暗い影の底に沈んだままです。
光雄らが敷居を跨ぎ終えると、門を閉めながら河津が頭を下げました。
「では、あっしらはこれで。ぼちぼちと暗くなってきやす。昼と夜の混ざり合う時分には化け物と出会うことも多いとか。釈迦に説法で御座いやしょうが、逢う魔が時でさ。ここらにゃ、夜嵐も狐も出るらしい。せいぜい気をつけなすって」
河津の細めた目が、それこそ狐のよう。笑っているのか泣いているのか怒っているのか、一本筋の目は、人であることを打ち捨てた異形の者とも見えます。ぎりぎりと門が閉まり、光が断ち切られると、狐面の如き河津の顔が夜に沈みました。
なんとなく不吉さを感じながら家路につく光雄らです。一方、夜に沈んだ彼方の世界では、振り返った河津が、暗い朱塗りの門を背に、番人然として無言で立ち尽くしております。
細めた目を開いて、黒々とした影の中で、その両の目だけが白く浮かび上がり、視線の先で白糸嬢の足元から天辺まで睨め付けました。そばに立つ沙希が顔を青ざめさせて身震いしたほどの激しい視線です。貫ぬくような無言の問いかけでした。おめぇは、それでいいのかと。その問いかけが通じたのか否か、白糸嬢は手毬を高く掲げ、夕日に映じて、その輝きに心を奪われている様子でした。
「あは、綺麗。どうしたの、怖い顔をして」
「なんでもねぇよ」
ちっ、と舌打ちしてすたすたと門から離れ、赤い日に照らされた庭園の方へと歩いていきます。それを追って沙希も歩き出しました。白糸嬢も向きだけはくるりとさせましたが、その場から動こうとせず、目だけで二人の背中を追うのでした。
今度は白糸嬢の両の目だけが夕日を背にして浮かび上がります。口元に浮かんだのは、明るい快活な笑みとは申せません。
しかし、なかなか来ない白糸嬢を気にして沙希が振り返った時には、愛らしくもどこか乾いた笑みを浮かべて小走りに駆けてくるところでした。




