2−1
『憎悪や殺意に飲み込まれた死霊、生霊が鬼となる――』
築二十五年、鉄骨構造のアパートの一室。司馬と礼奈は“授業”の真っ最中だった。
窓の外はすでに暗く、ガラスには黙々とノートを取る礼奈と、向かい側、ぼんやりと遠くを見つめる司馬の姿が写り込んでいる。
「悪霊……姿を消したり現したりできる霊体といえども、こちらに干渉してしまえば普通の生き物とは変わらないということでしょうか」
とんとん、と、文字を書くのをやめた礼奈がペンでノートを小突きながら首を傾げると、司馬はそれでいいという返事とともに欠伸をひとつ。
面倒くさい、と司馬はそう思っていた。
「ちゃんと教えてくれないと困ります」
「小難しいこたあいいんだよ」
身を乗り出して抗議する礼奈の額、真ん中を司馬は人差し指で軽くひと突き。それから彼は深く考えるなと礼奈に告げた。
「向こうが殴ってきたってことはこっちも殴り返すことができる。鬼だって殴り続けると死ぬ。それでいいじゃねえか」
「でも……」
答えた司馬にやる気は感じられず、もうひとつ欠伸をした彼が横目で見るのは床に置かれた盆に酒瓶とアイスペール。それから焼酎の入ったグラスだった。中身の氷はほとんど溶け、グラスはびっしょりと汗をかいている。
“授業”を始めてからどれほど時間が経ったのだろう。
最初こそ格好つけて先生を気取っていたはいいが、そろそろ司馬も限界だった。酒を飲もうとグラスへ手を伸ばそうものなら礼奈に叱られてしまうのだからまったくやっていられない。
仕事を終えたあとに小煩い母親のような少女の子守をさせられるとは思ってもみなかったのだ。
「鬼にも生命を維持する器官があるのでしょうか。わかりません」
「少なくとも、世間一般で悪霊と呼ばれてる鬼にはそんなもんはないな」
「じゃあどうして――」
腑に落ちないと眉根を寄せる少女を見て司馬はため息。彼女の質問にいくつ答えただろうか、と考える。
思えば、司馬が礼奈に魔術を教え始めてからずっと、ずっとである。礼奈は一切、魔術の使い方については触れてこなかった。
彼女が聞きたがるのは魔術や魔法、妖かしの歴史などの理論、学識的な話ばかりで、実践的なものについては触れようともしない。
なぜ、どうしてを繰り返し尋ねる彼女の様はまるで幼子のようであり、答えてやってもすぐに質問で返ってくるのだから司馬もいい加減に疲れてくるというものだ。
彼女は納得するまで質問を繰り返し、納得するまで考え込む。生真面目、無邪気、好奇心が強いと言ってしまえば聞こえは良いが、この礼奈という少女、端的に言ってひどく面倒くさい小娘だった。
「……ううん、わかりません」
礼奈は口を尖らせくるりくるくる、ペンを回す。拗ねた礼奈はなおのこと面倒くさく、司馬は一段と大きなため息をつき、諦めろと頭を振った。
「仕方ねえんだよ。鬼や妖かしなんてモンは人間の信仰から生まれた存在だといわれてる。もちろん国や宗教が違えば名称も実態も変わってくる。どいつもこいつもその概念すら曖昧な癖して歴史ばかり積み重ねていやがるから考えたところで無駄なんだ」
もう我慢ならんと司馬が手を伸ばした先は盆の上のグラス、そのまま礼奈の制止も無視してそれを一気に飲み干した。混ざりきっていない水と酒、半端なぬるさに司馬は眉を顰め、次の一杯を注いで一息。
「いいか、曖昧模糊ならそれでいいんだよ。全部理解しようなんて思ってたら何もわからなくなるぞ」
そんな司馬の言葉にも、相も変わらず、礼奈は解せないと眉間に皺を寄せていた。きっと彼女はすべての事象には意味があり、すべての現象は理論的に説明がつくものだと思っているのだろう。魔術や鬼といった非現実的な力、存在を目の当たりにしてもなお、そのように思っているのならなんと頑固なことか。
礼奈の細い指ではゆらり、ゆらり、とボールペンが揺れる。時折かちかちと鳴るのはノックの音。耳障りと司馬が礼奈へ顔を向ければ彼女は何か思いついたようにその手を止めた。
ああ、また質問が飛んでくるのか、と舌打ちしてやりたい気持ちを抑え、司馬はどうしたのかと礼奈に問う。
「はっきりしない存在というはどうしてこうももやもやするのでしょう」
「ああそうだな」
返したものは生返事。
ちょっとやそっとの理屈では彼女を納得させることなど不可能だということは司馬もわかっていた。
悪霊といえど元は人間、理性こそないがその身とその奥の奥、意識には人間だったころの痛みと恐怖が染み付いている。故に悪霊は思い込みで死ぬものである――
答えがないわけではないが、これが礼奈を納得させ、黙らせるだけの解答であるとは到底思えない。
司馬は額に手を当て、俺にもわからんと一言、呟いた。
先生という響きも生真面目な子どもも面倒くさかった。そもそもの話、司馬は人にものを教えるのも得意ではない。グラスの中、揺れる水面を見つめて司馬は考える。
司馬と礼奈が出会ったあの日、あの夜。彼女と別れたすぐ後のこと。司馬がサイに頼まれたのは礼奈に魔術師としての知識を与える教育係としての役目。
サイは魔術師としての能力、可能性を開花させた礼奈を導く仕事を任せたいと、にこやかに告げたのだ。
勿論、司馬もそれにふたつ返事で了承したわけではない。教育係の経験がないわけでもないし、教えることなどわけもないのだが、それでも相手は子ども、高校生である。
彼女が自分たちと関わることにより危険な目に遭うのではないか、心配だった。何より、一回り以上歳の離れた少女とどう接してよいか、司馬にはまったくわからなかったのである。
やはり慣れないことはするもんじゃないなと心の中で吐き、司馬は頭を掻き毟り、酒を呷る。
まさか礼奈がふたつ返事で了承するとは思ってなかった!
あの夜、返事を渋った司馬は、サイにひとつの提案をした。
どのようにするかは礼奈に任せてみてはどうだろうか、と。
それは彼女が力を悪用するとは考え難く、ゆるく様子を見る程度でいいのではないかと思っていたからだった。
それに、見たところ礼奈はどこにでもいそうな、それでいて真面目な少女。あれ程怖い目に遭ってもなお、こちらに協力しようとするとは思えなかったのだ。
そうして後日、借り物の服を返しに来た礼奈にこちらの事情を伝えたところ、彼女は司馬の思惑とは裏腹、精一杯頑張りますと答え、その手で書類に署名した。
それが司馬と礼奈の、師弟としての関係の始まりだったのだ――
しかし、である。司馬にとってはこの関係、まったく不満だらけであった。
そもそも、組織に所属している多くの魔術師の中で、なぜ、自分が礼奈の面倒をみなければならないのかが疑問だった。適任なら他にいくらでもいるではないかと、そう思っていたのだ。
かちかち、時計の針がただ、進む。まったくもって面倒くさい。今からでも断ってしまおうか、司馬がぼんやり宙をみていると、ゆさゆさと礼奈に肩を揺さぶられた。
「せんせ、せんせ――」
「ああ、もう、少し静かにしててくれないか」
彼女の言葉を遮り、司馬は声を荒らげた。
怒鳴るつもりなどなかったというのに、思いの外声が大きくなってしまった。
盆の上、少々乱暴に置いたグラスでは、からん、と氷が音を立てて崩れた。
「あっ……すみません」
聞こえてきたのは今にも消え入りそうな声だった。司馬が目線を礼奈に移すと彼女は怯えたようにひくりと肩を揺らす。
司馬の目の前の、ごめんなさいと今一度口を開いた彼女はまだ子ども、十代の少女だった。
「ああ、いや、そういうことじゃ……って言い訳しても仕方ねえか。悪い、少し考え事をしてた」
一体自分は何をやっているのか、浮かべた笑みは自嘲気味。何を苛立っているのだろう、と、司馬の頭は一瞬のうち、すっかり冷え切ってしまっていた。
考えてもわからないことだらけなら、もし礼奈が求めるような知識も先生らしさも与えられないのなら、やはり取り繕うだけ無駄なのだ。
司馬はグラスを持ったままに礼奈に向き合うと、まっすぐ彼女の目を見て告げる。
「やっぱ先生なんつーモンは俺には向いてねえ。驚かせて悪かったな。すまない」
しん、と静まる六畳間、司馬が頭を下げると、構いません、と礼奈の声。そして流れたのは沈黙で、それから少し間を置いてから礼奈はおずおずと司馬の頭へ手を伸ばした。
「私こそすみません。先生も大変なんですものね」
さらさら、髪を梳き、撫でる手は躊躇いがち。拙い手つきには礼奈の不器用さが表れている。そしてそれと同時、司馬が感じ取ったのは彼女の幼さだ。
年上の男に頭を下げられ、どのように言葉を返すべきか、礼奈が探った結果がこれなのだろう。彼女なりの慰めは実に子どもらしかった。
可愛らしい、と司馬は思う。しかしこみ上げてくるのは子どもらしさを可笑しく思う感情。
一笑してしまいたい。司馬が笑みを押し殺し肩を震わせていると、礼奈は心配そうに顔を覗き込む。
「あの、大丈夫ですか? どこか具合でも――」
少女の精一杯の気遣いと背伸び。笑ってはいけないことだと司馬もわかっていた。馬鹿にするつもりもなかった。ただただ彼女の気遣いが微笑ましかっただけなのだ。
どうしてこうも彼女は純粋なのだろう。背中を擦る手も、声音も、全てが優しく、そしてそのどれもがどこかぎこちなく、たどたどしい。
司馬は押し殺した笑みを逃がすように大きく息を吐く。それから平気だと頭を振って礼奈からペンを取り上げた。
「ああ……! ちょっと!」
「それじゃ、気を取り直して授業再開といくか」
ゆるくペンを振るってみせればノートがはらり、捲られる。白いページに浮かび上がるのは、“彼を知り己を知れば百戦殆うからず”とただ一言。
「お前の考え方は正しい。自分の脅威となる者を知ることはいいことだ。だがな……」
ノートに書かれた文字はさらさら、流れるように消えていく。新たな文字は、出てこない。
礼奈が首を傾げて司馬の顔を見やると、彼はにっこり笑って言葉を続ける。
「書物に書かれた文字や言葉だけじゃ足りないもんなんだ。これから教えるのは魔術の上手な、楽しい使い方、だ」
司馬の表情は晴れやか。先程まで煩わしいと眉間に寄せていた皺は消え、そこにあるのは穏やかな笑み。
「質問もわかる限りは答えてやる。でもまずは力に触れてみてくれないか?」
きっと楽しいはずなんだ――
部屋の明かりを消して振るうペンはまるでおとぎ話のマジックワンド。円を描けば、ぼんやりと光る五芒星が浮かび上がり、礼奈は感嘆の声をあげる。
「すごい!」
「だろ?」
ペン先で光る星と、目を輝かせる礼奈。薄明かりの中、司馬は目を細め、そして思う。
もしかしたら、小難しいことを考えていたのは自分の方だったのかもしれない――
礼奈の思考はシンプルだ。彼女はただ、知らないことを知りたいだけ。気になったことをどこまでも求めたいだけなのである。
では、司馬には何ができるのだろうか。
彼女が望む知識を与えられないのなら、代わりのものを与えてやればいいのだ。
そして司馬が見たものは、今日一番の礼奈の笑顔。
「すごい……すごいです!」
「何も難しいことはないさ」
先程まで解せない、納得がいかないと膨れ面をしていた礼奈は今や司馬が操る魔術に夢中。司馬が光で描くのは、星と花とうさぎに熊。司馬によって描かれているものとは思えないほどに可愛らしいそれらは二人の頭上、天井で、くるくる、ゆっくり回りだす。
興奮気味の礼奈の頬は暖かな光の下でりんごのように赤く染まり、爛々と輝く瞳は回る光を追いかけていた。
「やってみるか?」
はしゃぐ礼奈にペンを差し出し、司馬はにかりと歯を見せ笑う。礼奈なら喜んで受け取ってくれると、司馬は確信していたのだ。
司馬の手からペンが離れ、術から解かれた光はひらひら、二人のもとへと落ちては消える。
最後の光がゆっくりと落ちると、暗闇の中には再び沈黙が流れた。ごちゃごちゃとしたこの部屋の中、聞こえてくるのは外からの音のみ。窓の外、すぐ目の前、狭い通りを中型トラックが走ると、二人がいる部屋は微かに揺れた。
「せんせ……」
「うん?」
薄明かりの中、声がする。司馬が目を凝らして礼奈を見ると、彼女は何やら緊張した面持ちで深呼吸。
聞くと、礼奈は極度の不器用だそうで料理、裁縫、描画に工作、兎角手先を使う作業は何ひとつまともにできないのだと恥ずかしそうに俯いた。
「だから、爆発したりはしませんか……?」
顔を上げて不安げに問うた礼奈は大真面目。その様子がまた可笑しくて司馬が笑うと、礼奈はひどいと口を尖らせた。
「爆発なんて簡単に起こせるもんか」
ひよっこには無理だ、と司馬は礼奈の鼻先、数センチの距離で人差し指を立てる。それから優しげに微笑んだ司馬は礼奈の手を包み込むように軽く、握る。
「俺は魔術は学問だなんてそんな高尚なモンだとは思わねえ。いいか、大切なのはイメージだ」
司馬がこれから礼奈に教えるのはインクを触媒として使った簡単な魔術。扱いやすく、日常的に使うペンが媒介となるため、杖を持ち歩くよりも都合が良いというのが司馬の考えであり、何よりそれが礼奈に一番合った方法だと思っていた。
「じゃあ、やってみます」
「好きにしてみろ」
恐る恐るとペンを取り、宙を見つめて深呼吸。大事なのは集中力、大切なのはイメージと、礼奈は小さく呟いて、その手をゆっくり持ち上げた。
「これが、魔術……」
「そうだ。思ったより簡単だろう?」
ぼんやり、ペン先に小さな光が灯る。儚げなその光は、言葉を発すれば揺らぎ、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい。礼奈が息を呑み、ゆっくり腕を動かすと、宙には線が描かれた。
ゆらゆら、震える手で礼奈は描く。縒れた線に歪んだ輪郭、目鼻と耳を付け足し描き上げたのは一体なんの動物か。司馬の方へと振り返った彼女は、私にもできましたとはにかんだ。
「かっこいいクワガタじゃないか」
「いえ、うさぎです」
「あ……すまん」
ぴしゃり、礼奈が訂正すると、描かれたクワガタ……のようなうさぎが溶けるように消えていく。光の奥に司馬が見たのは真っ赤に染まった礼奈の顔。彼女は司馬を無視するようにそっぽを向いてペンを振るう。
「だから私、不器用なんですよ」
それから礼奈は目を閉じ集中力を高めるようにゆっくり呼吸をする。吸って、吐いて、目を開き、再び灯された光はペンを離れて上へ、上へと登っていく。
最初に浮かべた橙色の光は優しげでいて暖かかった。手を伸ばせば熱さすら感じるほどのその光は暗い部屋に煌々と輝いている。
礼奈は次々に光を描き、宙に浮かせる。青や白、色も大きさもさまざまなそれらはどれもがきらきらと、小さな光を放っていた。
「こりゃすごい……」
「てきとうですけど、でもうまくできているでしょう?」
眼前に広がる光景に司馬は言葉を失い、光を背にした礼奈は得意げに、歯を見せて笑う。
描かれたのは天球図。形はいびつではあるが、そこには確かに空があった。
天井で輝く小さな星星はちかちかと光を放ち、ゆらゆらと線をなぞるように動き出す。
「星座は……なんだかわかりづらいですね」
難しいです、と苦笑する礼奈をよそに、司馬はぽかんと口を開けたまま。返事のひとつも返さずに、浮かぶ星を眺めていた。
それは喫驚、感嘆、感服――彼は礼奈の集中力と飲み込みの速さにただただ、驚いていたのだ。
「せんせ?」
司馬が目の前の銀河に見惚れていると、不意に肩を叩かれる。どうでしょうかと問う彼女が浮かべる笑みは小さな子どものそれであり、まるで司馬に褒められるのを待っているかのよう。よくできているぞ、と一言司馬が笑いかけると、礼奈はありがとうございますと頬を染めて破顔した。
彼女はどこまでも、純粋なのだろうと司馬は思った。
「少しは楽しめそうか?」
夕飯までに礼奈を安全に自宅まで送り届けることも司馬の仕事のひとつである。部屋を出る直前、司馬は、玄関で靴を履く礼奈を見下ろし声をかけた。司馬の問いかけに礼奈は顔を上げ、にんまり笑って頷く。
「ええ、とっても!」
先程、部屋が汚いと不満を漏らしていた彼女は既に魔術の虜。明日もよろしくお願いしますと差し出した礼奈の手は温かく、頬は高潮し、輝くその目は嬉しげに細められている。司馬は任せとけとにっかり笑って、礼奈の腕を引き上げた。
「面白いモン、沢山見せてやるからな」
礼奈を送る道すがら、司馬はぼんやり考える。
彼女を一人前の魔術師へと育てる。それは意外と楽しいことなのかもしれない、と。