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煌々とした明かりが灯る街、交通量の多い大通り。オフィスビルを後にした礼奈はひとりの男と歩いていた。彼は先程雨華と一緒に居た男で、名を司馬弘長と名乗る冴えない壮年のサラリーマン魔術師だった。
「送ってくれてありがとうございます。すみません、こんな遅くに」
「いいよいいよ。謝んな。こんな遅くまで付き合わせちまったのは俺たちだ。ありがとな」
ひとつ、ふたつと礼奈が謝すると、司馬は気にするなと、切れ長の、垂れ下がった目を細めて笑う。そうやって礼奈に気を遣う司馬の態度は余裕のある大人そのものだったが、彼の顔色は悪く、頬は痩け、どことなく窶れているようにも見える。
礼奈は司馬の姿、その違和感には気がついていた。
横目で彼の頭からつま先まで、探るように見てみると、寝癖だらけの短髪に伸びた髭、縒れたシャツとくたびれたジャケットには疲労感がまざまざと表れている。あまつさえ、スラックスと革靴は跳ねた泥で汚れてしまっているのだから身なりに気を回す暇すらないほどに忙しいことは十二分にわかる。
礼奈がそんな司馬の容貌に抱いた感情は哀憫に近いものだった。
サイや雨華、そしてこの司馬という男、きっと、彼らはこうして日々人々を救いながら生きているのだろう。たとえそうでなくとも、毎日ではなくとも、彼らは名も知られぬ誰かの為に戦っているはずで、今日、自分を助けてくれたことは紛れもない事実――
そこに間違いはない、と礼奈は思った。それと同時に感じたのは遣る瀬無さか。彼女はただただ平和を享受してきた。この街の治安が良いものではないということは知っていたが、今日のような出来事はまったくの予想外。このようなことが平和な日常の影で起きているとは思わなかったのだ。
「いつもこんな時間まで働いているんですか」
人通りも多い道、年上の男とただ黙って並んでいるのも気まずいと感じた礼奈は、司馬の顔を見上げて声をかける。すると司馬は一瞬だけ、驚いたように目を見開き、それからひとつ唸って考え込むように黙ってしまった。
質問への答えは、なかなか帰ってこない。
信号待ちの交差点、手持ち無沙汰と彼女が探るのは持っているスクールバッグの中身で、もしこの話題が終わってしまったら何を話せばいいのだろうか、と彼女は落ち着かないように手を動かす。
沈黙が痛い。
「まあ、そうだな。最近はずっとこんな感じかもなあ……」
そしていつの間にか信号は青。司馬は一歩を踏み出すと同時に口を開いた。ため息混じりに、言葉を選ぶように――
「昼間は机仕事、夜は鬼退治。考えてみるとなかなかハードだな」
仕事が重なって忙殺されそうだと苦笑しながら話す彼は、以前は机仕事がメインで外に出ることは稀だったらしい。仕事が増えたのは一年ほど前からで、ここ数日は鬼退治も含め、夜通し働いていたのだと礼奈に語った。
「身体は大丈夫なんですか」
窶れた男、それも大の大人がろくに寝ていないなどと口にしているこの状況、一大事である。クラスメイトが口にする「最近寝てない」の一言とはわけが違うではないか。
そう思った礼奈が心配そうに司馬の顔を覗き込んで問いかける。彼女の頭に浮かんでいたのは“過労死”の三文字だった。
「ちゃんと休んだほうがいいです」
念を押すように一言、歩みを止めた礼奈は司馬の目を見て伝えた。目の前にいる疲れた人間を気遣うのは至極当然、当たり前のことで、礼奈はどうしても司馬のことを放ってはおけなかったのだ。
返事はやはり、なかなか帰ってこなかった。
大丈夫ですか、と礼奈の再度の問いから少し遅れて司馬は笑う。頭を振って平気だと言った彼の言葉は大人の見栄――
「心配してくれてありがとな。でも被害が出る前に奴らを仕留めるのが俺らの仕事だ。そう簡単には休めねえんだ」
なんとなく、なんとなくだ。礼奈は司馬の虚勢にも気が付いていた。
「私はひとりでも帰れます。だから司馬さんも帰って休んでください。それではいけません、か?」
そうして彼女が見せたのは拙い気遣いと子どもの意地――
本当はひとりで帰るのは心細かった。しかし司馬もまた、礼奈の痩せ我慢には気が付いていたのだ。彼は呆れたように、鼻で笑う。
「ああ、それではいけませんな」
思惑こそ違えど、両者は似た者同士だった。
大事な仕事だから仕方がない、と司馬は諦めに近い感情を抱いていたに違いない。だからこそ、礼奈の言葉に気付かされることがあったのだろう。
「礼奈ちゃん、だっけ? 家の近くまでは送らせてくれ。そしたら俺も帰ってちゃんと休む。それでいいな?」
「でも……」
「変に気を遣うんじゃねーよ。子どもはおとなしく甘えとけ」
気にするな、と礼奈に言った司馬の顔は嬉しげで、それは幾分か生気を取り戻したような、そんな顔。一方の礼奈はというと子ども扱いに納得がいかないといった様子のむくれ顔ではあったが、内心ではひとりで帰らなくても済むという心強さにほっとしていた――
自宅まではあと少し。大通りから一本入った細い道は人もまばらになってきて、気付けば礼奈と司馬のふたりだけになっていた。
不安ではあるが、心細くはない。震えてはいないが、恐怖心はある。礼奈が司馬の隣、身を寄せるように歩くと、聞こえてくるのは押し殺すような笑い声。
「笑わないでください」
「やっぱり、意地張ってたんじゃねーか」
からかわれるのは礼奈にとって不本意だった。手を繋いでやろうか、の一言に頬がかっと熱くなるのを感じる。それが気に入らなくて司馬から離れて歩くが、それでもまた笑われてしまうのだから面白くない。
「あの、送ってくれてありがとうございます。ここまで来たらもう大丈夫なので、私帰りますね」
「ああ、おい!」
ではさようならと礼奈が足を早めたのは、自分の、くだらない子どもの意地をすっかり見透かされていたのが恥ずかしかったからだった。
早く帰って休んでくださいという精一杯の気遣いまで笑われてしまったような気がして、どのように接して良いのかわからなかったのである。
顔を真っ赤にした礼奈が駆け出すと、まだ少し湿っている髪が彼女の背中で揺れる。
司馬はすぐには追いかけてはこなかった。どうせもうすぐ家につくのだからと、そう思っていたのだろう。そして礼奈もまた、同じことを思っていた。
しかしそれはあまりにも迂闊、ふたりは油断していたのである――
直後、夜の街角に響いたのは地を揺らす咆哮。歩いていた通りはまるで周囲から隔絶されたように色と、音を失った。
立ち並ぶマンション、店舗、その窓から人の営みは感じられず、辺りの空気は重苦しい。
周りから人が消えたような、そんな気味の悪い感覚に、ああ、鬼が来たのだと、礼奈は直感した。
また、咆哮が聞こえ、地が揺れる。
そうして礼奈の眼前に、浮かび上がるように現れたのは先程のものよりもやや大柄、欠けた角が特徴的な鬼だった。口元から覗いた牙はぎらりと光り、太く大きな腕の先には鋭い爪、礼奈は鬼の容貌に身を震わせたが視線はまっすぐ、鬼の真っ赤な瞳を見据えていた。
「どうして私を食べたいんですか」
助けてもらった命、みすみす投げ捨ててなるものかと思ったのだろう。礼奈は脅しつけるように睨み、じりじりと後退する。目を離したら最後、そのまま食べられてしまうような気がしたのだ。
「あの、逃げるなら今のうちだと思います」
足は震え、声は揺らぐ。すっかり怯えきった表情ではあったが、礼奈には意地があった。礼奈には気力があった。そしてもうひとつ、礼奈には味方がいた。
「よくできました」
礼奈の背後、現れたのは不敵な笑みを浮かべた司馬だった。彼は礼奈の頭を一度、くしゃりと撫でると、そのまま彼女を庇うように前に出る。
「ごめんな。無理にでも引き止めておくべきだった」
捲られた袖から見える腕、血管の浮かび上がる拳に握られていたのは鈍く光る拳鍔。
それから司馬は大きく一歩を踏み出すと、鬼の顔面に一撃、こめかみに一打。おまけと脇腹に蹴りを加えると、後ろへ飛び退き礼奈にひとつ指示を出す。
「怪我するから離れとけ」
目配せをする司馬の視線は優しく、口調は朗々。礼奈は言われるがままに数メートルほど後ろに下がり、何かを観察するように目を凝らした。
恐らくこの鬼もまた、怨霊と呼ばれるもの――
鬼が姿を見せたときに、礼奈はそう思った。それは半ば勘のようなものだったが、姿形、ひんやりとした独特の空気、生臭さ……礼奈が暗がりの中、五感を研ぎ澄ませて感じ取ったもののすべてが、先程の、路地裏で出会った鬼とよく似ていたのだ。
礼奈は他の鬼については知らない。故に根拠には乏しい。だからこそか、彼女は何かを掴もうと鬼の様子を注意深く探っていた。彼女に恐怖心がないわけではない。ただ、知らないことを知りたかったのだ。
顎に手を当てひとつ思案。礼奈がじっと見つめた先、鬼は巨体を揺らして司馬に迫る。どうやらこの鬼はそこまで素早く動けるわけではないらしい。力こそ強いものの、大きく腕を振り回す動きは緩慢でいて無駄も、隙も多かった。
躱すのは容易だろう。しかし、どのように倒すのか。礼奈が司馬の動きを目で追うと、彼が狙っていたのは頭部や腹部といった箇所にある人体の急所だった。それは鬼の身体のつくりがヒトに近いということを表しており、また、傷ついた身体と鈍くなった動きは殴打や刺突といった物理的な攻撃が有効であることを物語っていた。
それは確信――思えば雨華も刃物を使っての戦闘だった。異界からやってきた者とはいえ、姿を現してしまえば普通の生き物と大差はないのだろう――
考察に一区切り。礼奈は小さく息を吐くと改めて視線を司馬に移す。
彼の戦い方は実に泥臭いものだった。雨華のような軽やかさはなく、魔法や魔術といった力を使った派手な戦い方でもない。当てては躱し、間合いを詰めては殴打する、ただそれだけ。武器といえば拳にはめられているメリケンサックぐらいなもので、それは礼奈が想像していた魔法使い、魔術師像とは大きく違っていた。
「わりぃな礼奈ちゃん。すぐ終わらせる」
「大丈夫ですか……?」
「おう、よ」
それにしても、である。司馬は大丈夫だと歯を見せて笑ったものの、その雲行きはなかなかに怪しい。足には力が入っておらず、顔色は芳しくない。嫌な予感がする、と礼奈は唾を飲み、そして案の定その予感は的中する。
そうこうしているうちに司馬は徐々に追い詰められ、あっという間に壁際へ。背後には無機質なブロック塀と電柱があり、これでは次の一撃を躱したとしても破片で怪我をしてしまうではないか。礼奈の脳裏を過るのは雨華の足に深々と刺さった破片。人間の司馬では耐えられるはずがなかった。
では、どう動くべきか。
司馬の不調の原因が疲労にあるということぐらい礼奈はわかっていた。しかし武器も持たぬ非力な身でどのように手助けすればいいのかはわからない。
見えたのは大きく腕を振りかぶった鬼の背。鼓動が早くなり、礼奈は胸の痛みに顔を顰める。
速く、早く、はやく、なんとかしなければ――
「貴方が食べようとした私はここです!!」
深く考える前に体は動いていた。駆け出した礼奈が手にしていたのは一本のボールペン。狙うのは背部、腰の、ある部分のみだった。
鬼というヒトならざる者に人間の常識が通用するのなら、もし人間の身体とつくりが同じならば――
「おねがい!」
鬼の腰、腎臓の位置を一突きすれば咆哮が地を揺らす。礼奈が素早く後ろに下がると、ゆらり、鬼は司馬に背を向け礼奈へ向かって歩き出す。
「おい!」
なんてことをしてしまったのだろう、と礼奈は思っていた。司馬の姿は鬼に隠れ見えず、声はどこか遠くから聞こえているようだった。
迫り来る鬼の姿から感じるのは怨嗟と怒気と殺意。次はどのように動けば良いか、次の一撃を躱したのち、どこを狙うべきなのかを、礼奈は必死に考える。
礼奈の身長、身体能力では首や胸を突くことはできず、攻撃を仕掛けるなら腹部に限られる。それでは狙うは肝臓か。うまく突き刺さるかはわからない。緊張と恐怖で震える手で礼奈はもう一本、ボールペンを取り出し握ると、今にも泣き出しそうな顔で鬼を睨みつけた。
「怖くなんかありません!」
「おい、馬鹿か……!?」
目を瞑ったら負けと、礼奈はただ前を向く。
死の気配が近づき、太い腕が伸びて、迫る。容易に避けられると思っていたその一撃は、思いの外に速かった。
避けられるわけがない、と司馬は思っていただろう。無理矢理体を起こして駆けても礼奈の元へは間に合わない。
ぴしゃり、礼奈の首はゴムボールのように飛ぶ、はずだった。が、彼女の目の前を稲光が走る。飛んできたものは雷撃、鳴り響いたのは轟音。
「あ、あれ……」
間の抜けた声を上げた礼奈の前に立っていたのは、黒髪を靡かせたサイだった。彼の前には煙を上げながら消え行く鬼の亡骸があり、途端、景色に色が戻る。危機を脱したことを知った礼奈は道路の隅、歩道にへたりと座り込み、そんな礼奈の様子をみたサイは驚いたとひとつ声を漏らした。
「社長……すみません。ありがとうございます」
「謝らなければならないのはこっちだよ。本当にすまない。彼女を守ってくれてありがとう」
足を引き摺りやってきた司馬にサイは頭を下げると、礼奈に右手を差し出した。立てるかい、と問うた顔に笑みはなく、感じ取れるのはじっとりと礼奈を見つめる視線のみ。サイは何かを推量するように上から下まで礼奈を見やり、怪我はないみたいだね、と彼女の体を引き起こした。
「あの、ありがとうございます! 私、今度こそ死んじゃうかと思いました」
「いや、今のは――」
深々と頭を下げた礼奈はまだ震えている。心臓はどくどくと脈打ち、脳は興奮状態。表情は恐怖心と安堵感、すべてが入り混じり、引きつった口元は歪な笑みを浮かべていた。
一晩のうち、礼奈には色々なことがありすぎたのだ。数々の出来事はすでに礼奈の許容量を超えている、とサイは思ったのだろう。結局これ以上のことは言えず、彼は言葉の途中で黙ってしまうのだった。
「いいよ。こっちこそありがとな」
ふたりの様子を察したのか、司馬は礼奈を宥めるように声をかける。余計なことは何も言わず、帰って休めと彼女の背中を軽く叩くのみ。しかしただそれだけのことが、礼奈は嬉しかった。
「はい!」
頑張りが報われた気がした。司馬の言葉に、礼奈は笑って、涙を流す。
ああ、認めてもらいたかったんだ――
そのとき礼奈が思い出したのは、雨華の憂いを帯びた表情と応接室で見たサイの寂しげな笑みだった。
彼らは人知れず戦い、傷つき、そして人を助けて生きているのだ。誰に見返り求めるわけでもなく、誰に感謝されることもなく、ずっとそうして過ごしてきたのだろう。だからこそ、こうして縁があった者にだけでも、自分たちの存在を知ってもらいたかったのではないか。礼奈はそう思った。
「本当に、ありがとうございました」
外灯並ぶ街角の、残り僅かの帰り道。礼奈にはもう恐怖心はなかった。
◆
いい夢見ろよと礼奈と別れ、司馬とサイは繁華街を歩いている。賑やかな街の中、目に痛い照明の下、ふたりだけは静まり返っていた。
「社長が来てくれなかったらふたりとも死んでました」
「それは違うよ」
司馬がぽつりとこぼした言葉を、サイは頭を振って拾い上げる。
「俺が行かなくても結果は変わってなかった」
そう言ったサイは穏やかな笑み。司馬がその言葉の意味を理解するのにそう時間はかからない。目を見開き立ち止まり、そうだったのかと天を仰ぐ。
飲食店の看板、切れかけた電球がちかちかと点滅していた。
「ボールペン、配ってといてよかったよ」