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9、何者かと問う者

 日が昇るころに起きて、働き始めることに詩子はすっかり慣れていた。

 あちらにいるときから、さほど朝が弱いほうではなかったが、目覚まし時計を使用することなく、すんなりとおきられることに、詩子は自分自身に感心していた。

 水を汲み、火を起こす。水道も電気もない暮らしに違和感がないわけではなく、不便だと思うが、慣れてしまった。こちらでの生活が体になじんでいることをしみじみ感じる。日本語でない言葉を話し、口にする物に見慣れない物も少なくなっていた。

 鏡の前で、跳ねる前髪やゆがんだリボンを気にしていたことが、今となってはおかしい。

 詩子の一日は、マーナンや老師、シンセントと過ごすことで、瞬く間に過ぎていく。


 こちらは、建物が少ないせいか、あっても低いせいか、空が大きい。澄んだ空気に広く、高く、抜けるような青い空に見とれたこともある。また、闇夜の満天の星は初めてみたときは息をするのも忘れたほどに美しかった。

 しかし、詩子が一番気に入っているのは夕焼けだ。沈んでいく夕日は特に美しかった。遠くに見える山の峰に少しずつ、落ちていく夕日を眺めたことは一度や二度ではない。一面を赤く染め、木々も草も燃えるように染まる。空に広がる雲が赤から紫、紺と複雑な色で鮮やかに染められていく、そして、その色は少しずつ、でも劇的に変化していく。紺から藍へ、そして、闇に包まれる。その一連の変化は、何かの演目のように完璧で、詩子を引き付けるのだった。あまりの美しさになぜか涙がこぼれたこともあった。今でも、涙はこぼれなくても、胸の奥が締め付けられるように痛むのだった。




 夕餉の後の片づけが終わり、床に就くまでのわずかな間に、老師は詩子を語らう。それは詩子がこの世界のことと蒼語を学ぶためでもあったし、老師が好奇心から、詩子の居た世界のことを知りたがったためでもある。

 月が早くから昇り、太陽が落ちるや否、煌々と輝き始めていた。

 窓からは、月の明りが差し込んでいた。

「老師、月が今日は二つ。とてもまぶしい」

「そうじゃな、大きいほうの月を優月、小さいほうの月を香月という。月はウタの世界には一つであったな」

「そう、月は一つ、月の明りより、違う灯りが明るい、昼間と同じ、夜は明るい」

「違う灯りとな?」

「そう、……力。便利な力で物が動く。部屋を明るくする。それから、洗濯する、何でも動く」

「はて、部屋を明るくし、洗濯をする力と」

「説明、とても難しい」

「ウタの世界は、こことはかなり異なることは、よくわかっておる。不自由な言葉で、その世界を説明することは難しいのであろう。焦ることなどない」


 老師は詩子のあちらでの生活について、細かに聞いていく。詩子は老師に言葉を訂正されながら、食事のこと、衣服のこと、学校のことを答えていく。しかし、社会の仕組みについて、詩子は答えられないことが多く、もっと、しっかりと勉強しておけばよかったと、何度も思った。

 そうして、老師との時間は穏やかに過ぎていく。


 老師は穏やかに微笑み、詩子の淹れた茶をすする。この世界のお茶は香りのある葉や花を乾燥させたハーブティばかりだ。小さな花のこのお茶が詩子は気に入っていた。

 老師は頬を緩ませて茶を口に運ぶ詩子をじっと見つめている。

 詩子は老師の何か言いたげな様子に気付き、老師に微笑み言葉を待つ。


「ウタよ、何故なのだ?そなたはここではない世界から突然、やってきたにもかかわらず、当然、持つべき感情が足りない。なぜ、『帰りたい』と思わないのじゃ?なぜ、帰れる方法はないかと聞かぬ?」


 詩子は、指摘されて初めて気づく。

「帰りたい…。帰りたい思う人、帰る場所がある人」


 老師は詩子の言葉を聞いても、うなずくばかりだ。言葉を発しないのは、意味をつかみかねているからなのだろうか。


「私は帰る場所ない。待っている人いない」


 言葉にすると何とも言えない気持ちが広がる。

 詩子はそのような自分であるから、ここにいるのかもしれないと思った。

 それ以外に、理由は思いつかない。


 詩子は口を開く。詩子の関わる人たちはみな、詩子の事情を知っていた。改めて話すことが、初めてであることに気づいた。そして、小さな世界に生きていたことを思う。


 物心がついたときから、祖父母と三人暮らしであった。十四才のときに祖父を亡くし、今年、祖母も亡くなった。詩子はまだ、十六才の高校生だ。一人で住むつもりだった。葬儀も祖母の妹が助けてくれたが、それだけで十分だった。母は十八才で詩子を産んで、祖母に預けたまま、一度も会っていない。理由はわからない。

 しかし、突然、現れた、泣いて謝る母親。

 詩子を引き取り暮らすという。住み慣れた家も街も離れて、初めて会う母親とその夫、そして、妹と弟と。

 嫌だった、本当に嫌だった。けれども、みな、喜んだのだ。だから、拒否することができなかった。

「詩子ちゃん、よかったね」


 ――よかったの??


 一緒に住むための準備のため、何度か会うたびに募る違和感。


「あの子を引き取れば、まとまったお金が入るし、高校を卒業したら、一人で住まわせればいいでしょ?安いものよ」


 ――なるほど


 腑に落ちるとは、まさにこのこと。


 ――私にはお金がついてくるんだ。


 祖父母に感謝していいのか、恨めばいのか、わからなかった。

 正直なところ、お金を私が貰って、あの家で一人で住みたかった。

 でも、それを誰に言えばよかったのか、わからない。




 ――詩子ちゃんは捨てらた

 ――詩子ちゃんのお母さんは一度も会いに来ない

 ――詩子ちゃんはいらない子だから


 意味のつかめない頃から、耳に馴染んだ言葉は悪意のあるなしにかかわらず、詩子を蝕んだ。

 詩子が何をしても、何をしなくても、生まれたその時から、蔑まれた。

 もちろん、そうでない人たちもいた。

 しかし、その人たちの好意に素直に甘んじることが、詩子にはできなかった。

 それほどまでに、詩子は蝕まれた。

 祖母を失った詩子に頼る人はいない。


 ――私には誰もいない




 蒼語は詩子の思いを乗せるには不十分であったが、老師には十分に伝わったようだ。

 老師の薄い灰色の瞳が月の明りを受けて揺らめく。


「ウタよ、そなたの世界は満たされており、行き届いておる。だからこそ、そなたが異質なのであろう。人は弱い、満たされぬもの、至らぬもの、異なるものを弾き、忌む。それはどの世界においても変わらぬのであるな。この世界において、ウタのように、親を持たぬ者はたくさんおる。親に望まれず、捨てられる子も多い。何年も前に捨て子を禁ずる法ができたが、それでもまだ、親は子を捨てねば生きては生けぬこともあるのだよ。……ウタよ、この世界も同じじゃ、至らぬものを弾く。同じじゃな」


 老師が何かを言いかけてやめたことに詩子は気づいたが、老師に聞き返すことはしなかった。聞き返すことがはばかれるほどに、老師は憂いを含んでいた。



 辺りが闇に包まれる頃には、老師の前を辞する。

 この館は学徒が住まう家屋、教員が住まう家屋、その他、さまざまな建屋が並び、それらをぐるりと板張りの塀が囲んでいる。

 詩子に与えられた部屋は、東の端にある。通いの女たちが使っている小さな部屋ではあったが、すぐ外に出ることができ、井戸も近く、とても便利であった。


 戸をそっと開けて、外に出る。辺りは暗く、冷たい空気に詩子は身を縮める。

 吐く息は白く、詩子の顔の前にとどまり消える。


「うは、寒い」


 しんと静まり返っていて詩子の声はひどく大きく聞こえた。テレビもパソコンもない。音の出るもののないこの世界はいつも静寂に包まれている、また、上弦の月と三日月が並ぶ夜空、明るい星は瞬き、いつ見上げても、この世界の空は美しい。

 月明かりは優しく庭に植えられた草木を照らしており、室内よりも明るい。


「あぁ、綺麗なお月さまだ」


「ほんとだね」


 返事があるとは思いもよらない詩子は文字通り、飛び上がる。


「うきゃっ!」


 声の方を振りかぶると、屋根の上に人影。月の光をうけているのは、アミヒだった。


「あっ!アミヒ!」


「チュプ、良かった。元気そうで」


 アミヒは別れたあの時の悲しみを含んだ目をしているけれども、表情は明るく、詩子を見て安堵しているように、微笑んだ。


「アミヒ、アミヒも元気だ」

 アミヒは屋根の上に座り込み、詩子を見下ろして話かける。


「うん、あの時は悪かった。ピリカがいなくなって、どうしたらいいかわからなかった。あそこにはいられなかったんだ。あの後、チュプはどうしてるんだろうって思ったら、チュプはいなかったから、とても心配していたんだ。一度、衛士につかまっただろう?それで、見つけられた。本当についていたよ。まさか、呪術師と一緒とは思いもしなかった。知ってる人じゃないんだろ?」


 詩子は月を背にしたアミヒを見上げ、紫紺の髪をした呪術師を思う。


「うん。あそこで知り合って、ここまで連れてきてもらった」

 アミヒと別れてからの日々をアミヒに話す。シンセントに拾われたこと、カナンラのもとに滞在したこと。何者かに襲われて、ここにやってきたこと。それは、言葉にするととても困難な道のりのようであるが、実際に歩いてきた詩子は、そうは感じていなかった。いつだって、広い背中に守られていたから。


「みんな、助けてくれた」


「そっか、大変だったんだね。俺といるよりも良かったのかもしれない。……チュプ、蒼語が分かるようになったね。とても上手だ」

「蒼語は老師に教えてもらってる」

「チュプはウタって、呼ばれているんだね。その名が本当の名?」

「そう、名前はウタ。私は詩子っていう」


 アミヒは何かを思い出しているのだろう、青い三日月と、白い上弦の月をじっと見つめながらも、その瞳は何か別のものを捕らえているようだ。


「……二つの月がともに満月の夜だったよ、君と初めて会ったのは。言葉が通じず、身なりも不思議な君を森で見つけた。黒い髪と白い頬が月の光を受けて、輝いていたよ。俺はあの時、夜の精霊がいるのかと思った。目が離せなくて、でも触れてはいけないような気がして。一瞬見せた、瞳が闇夜のように、闇夜の星のように光るのがとてもきれいだった。ピリカに見せてあげたくなったんだ。知っているかい?ピリカの国の言葉で月という意味なんだよ、チュプって」

「月?」

「そう、とても月がきれいな夜だったから。ピリカも、もしかして、月の精なんじゃないかって俺と同じことを言ったんだ。まさか、あんなに不器用で、食いしん坊だとは思いもしないじゃないか」

「アミヒ!ひどい」

「それに今も、その名が相応しいと思うよ。夜を恐れないところとか」

 アミヒの表情が曇り、意味の分からない詩子に困ったように微笑む。


「?」

 詩子はアミヒの微笑の意味が分からない。


「ふつうはね、特に女の人と子供は夜を嫌う。夜に外に出ることを嫌う。闇は周りが見えなくて、怖いんだと思うけど、夜はね、獣の時間、って思われているからね」


「獣の時間?」

「君は、恐れなかった。夜も、俺自身も」


「?」

 アミヒはどこか悲しそうに、微笑を浮かべるが、詩子にはまた、言葉の意味がわからない。


「俺はね、獣人だ。狼の姿を持つ」


「そう、だね」

 詩子は困ったように笑うアミヒをじっと見つめる。薄茶の瞳は、月の光を受けて、さらに明るく、みえた。その瞳を一度閉じて、ゆっくりと開いた。


「何も知らないんだね。本当に。君は一体、何者なんだろう?」


 詩子はアミヒの問いに答えることができない。それは詩子が知りたいことだから。詩子は詩子以外の何者であったことはない。何も知らないのはこの世界で暮らしていないからだ、それだけだ。詩子はここの世界のことを、自分の知らないことを知りたかった。そうすれば、自分が何者かわかるような気がした。


「アミヒ、教えて?」


「そうだね、きっと、教えてくれるよ。さっきから、あそこで様子を窺ってる、あの男がね」

 そういうと、アミヒはひらりと、姿を消してしまう。

「あ、アミヒ!」

「ウタ」

 シンセントの鋭い声に詩子はビクっと肩をあげる。その声はいまだかつて、聞いたことがないほどに低く、冷たい。アミヒが消えたほうに向けていた視線をその声のほうに向ける。

 そこには太刀に手をかけたシンセントが、呪術の香りをまとってたたずんでいた。


「シンセントさん?どうした?」

 月の光の届かないところに立つシンセントの表情は詩子にはわからない。シンセントに近づこうと、足に力をいれた瞬間に、シンセントの声が詩子を止める。

「動くな。誰だ?」


「え、あぁ、あの人、アミヒ。あ、えと、シンセントさんと初めて会った。湖、一緒にいた。とてもいい人」

 詩子はいまだかつてない、シンセントの様子に戸惑いを隠せない。


「いい人?」

 シンセントの声は、やはり低く、冷たい。


「うん」


「……ウタ、お前は何者だ?」


「え?」

 どうして、誰もが詩子に問うのだろうか、

 何者かと、それほどまでに詩子はこの世界で異質なのだろうか、それとも詩子は詩子の知らない間に何者かになったのであろうか。詩子にはわからなかった。


「なぜ、アリアロレスに狙われている?」


「え?何?私狙われる?アリアロレスは何?」


「……青龍の宮に、蒼国に刃を向ける者」


 シンセントの表情は硬く、あたりの冷たい空気に呪力の香りが漂っている。


「え、わからない」

 詩子は呆然と立ち尽くす。


 シンセントに何者かと問われることが、つらかった。太刀に手をかけたままのシンセントがふっと笑ってほしかった。いつものように、大丈夫だと、大きな手で頭を撫でてほしかった。

 シンセントに疑われていることが、つらかった。


 詩子の頬を涙が伝う。


 突然に襟首を引き寄せられ、詩子は息が詰まる。次に瞬間には、ふわりと体が浮き上がった。

 詩子は突然の出来事に、状況が理解できない。


 先ほどまで、見上げていた建物の屋根にいることが分かったのは、シンセントを見下ろしていたからだ。


「やっぱり、連れていく」

 そう言ったのはアミヒだった。詩子はアミヒの背に乗せられて、屋根の上にいた。


「……」

 言葉を発することなく、何かを堪えるような表情のまま、太刀を払うことなく、シンセントは立ち尽くし、詩子を引き留めることはなかった。


 シンセントが何も言わないことが、詩子はつらかった。

 それでもわかってはいた。シンセントとはいつまでもいられないこと、シンセントが老師に詩子を預けようとしていたことを詩子は気が付いていた。

 シンセントには何かの目的があっての旅であることはわかっていたし、善意から詩子を伴ったことも、生活する場所を探してくれていたことも、わかっていた。

 ここ、清定館が、シンセントにとって信頼できる、詩子を任せられる、場所であることも、シンセントの様子から十分に察していた。だからこそ、その期待に応えたかったために、蒼語の習得も日々の作業も努力した。

 まだ、一緒にいられると思っていた。シンセントとの別れは、まだまだ先だと思っていた。


 シンセントを見ていられなくて、詩子はアミヒの肩に顔を押し付けた。

 アミヒが屋根を軽々と飛び越えていく。


 三日月の優月の光が、瓦に落ちている。

 シンセントよりずいぶん小さな背は、心もとなく、ひどく揺れた。





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