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7、清定館の詩子

 やわらかな光の差し込む、その部屋は使いこまれた椅子とテーブルが置かれている。

 老師はゆったりと腰かけ、顔をこわばらせた詩子に微笑む。


「ウタ、大丈夫だ。痛くもなければ苦しくもない。ただ、お前の記憶を見ることは、お前は嫌かもしれぬ。それでも、私はお前の記憶を見る。拒否はできないのだ」


「老師、大丈夫。ウタは見ていい。でも、老師は驚く」


「ウタよ、私はたくさんの記憶をのぞいてきたのだ。少々のことでは、驚かぬ」


「……」


 詩子がここで暮らし始めて、しばらく経つ。サナ湖での暮らし、その後のシンセントとの旅、その暮らしが当たり前であるならば、詩子の記憶は到底受け入れられるものではない。詩子の記憶をみることで、老師が受ける衝撃は計り知れない。受け入れられるのだろうか、信じることができるのであろうか。本当の詩子の記憶を見ることができるのだろうか、詩子の胸が不安でいっぱいになる。うまく息をすることができない。


「では、始めよう」


 老師はテーブルの上に置かれた詩子の手に自らの手を重ねる。

 骨と筋ばかりのかさついた手は、ふんわりと温かい。

 あたりには、甘く優しい香りが広がる。その香りをゆっくりと吸い込むと息が楽にできるような気がした。詩子はうっとりと目を閉じる。その甘さは深く心に染みるようでありながらも、さっぱりとしてした。それは上品で静謐で詩子の不安は軽くなり、警戒心が緩むような感覚に陥る。



 詩子には見慣れた景色が広がる。音は耳に入ってこない。

 ただ、映像だけが、目の前に映り、足早に流れていく。大きなスクリーンに映し出される無声映画のようだ。それは、早送りのようでもあり、スローモーションのようでもあり、切れ切れで、次々に場面が変わっていく。


 アスファルトで舗装された道、行き交う自動車やトラック、バイクに自転車。

 立ち並ぶコンクリートのビル、マンション、大型のショッピングモール。

 たくさんの人、長い足を見せる若い女の子、ベビーカーを押す若い夫婦、スマホを片手に持つスーツ姿の男の人。

 濃紺のブレザー、臙脂のスカートを身につけ、自転車に乗るのは、詩子だ。肩で切り揃えた髪がサラサラと流れている。

 高校から祖母の待つ自宅に帰る途中であることが、まわりの様子からわかった。

 古い一戸建ての家、右手には納屋、裏手の畑。

 軋む玄関戸を開けて、三和土で靴を脱ぐ、右手の部屋にテレビと炬燵。左手の部屋には祖母。その奥は台所と食堂。奥の右手は風呂とトイレ。奥の左手には詩子の部屋、擦り切れた畳、少し丈の足りない緑のカーテン。こぼれ落ちる土壁。


 目の前を過ぎていく、当たり前だった日常。

 詩子は失った日常をながめていた。



 深いプールから浮かび上がるような感覚がして、詩子はぼんやりとしていたことに気づく。

 甘く優しい香りがふわっと鼻をかすめて、消えた。

 目の前の老師は、垂れ下がった瞼の奥の瞳を丸くして、詩子を見つめていた。


「……」

「……やっぱり、老師は驚く」

「……ウタ、お前は何者なのだ?」

 薄灰の瞳は見開かれ、詩子をじっとみつめる。

 詩子は老師の瞳を見つめ返す。


「……私、ここじゃない、違うところ、来た。たぶん」


「こんなことがあるのか?あのような暮らしがあるのか?……信じられぬ。いや、しかし偽りであるはずはない。偽りではないことは、私が一番わかっている」


 老師は頭を抱え、ブツブツと独り言をつぶやく。

 詩子は老師をぼんやりと見ていた。


「……ウタ、お前の世界とここは違う世界なのか?違うなら、どうやってここに来た?……ウタに記憶がないということは、ウタにもわからないということか。なぜだ?こことは違う世界があると?」

 老師の答えを求めている訳ではない様子ではあったが、何より詩子はかける言葉をみつけられない。


「……ウタ、今一度、記憶を見る。よいな」


 老師の言葉に詩子はうなずく。隅々までみて、そして、詩子に教えてほしかった。


 ――なぜ、私はここにいるのか




 先ほどと同じように、老師は手を重ね、甘く優しい香りが漂ってくる。詩子は瞳を閉じる。


 コマ送りで目の前を過ぎていくのは、当たり前だった日常。

 音のない映像はその時の感覚をよみがえらせた。


 祖母との暮らし、祖母の好きだった白い髭のおじいさんのフライドチキン。それは特別な日だけの楽しみ、一緒になって頬張った。カラリと揚がった衣にかじりついた時のしたたる肉汁。

 そんな祖母は風邪を引いたみたい、そう言って早めに寝室に入ったまま、二度と起きなかった。肩をたたけば、ふと目をあけて起き上がりそうだった白い顔。触れると驚くほどに冷たかった。

 小雪の舞う暗い空のもとで、執り行われた葬儀はどこか夢うつつで、かじかんだ手が痛んだ。

 久しぶりに顔を合わせた母親とは、やっぱりうまく話せない。

 共に暮らすことになったことを喜んでくれた叔母たち。拒否することは、親戚の手前もあり、できなかった。

 祖母の従兄弟のおじさんに乗せてもらった軽トラック。

 硬いシート、大きなエンジン音、反対車線をすり抜けていくヘッドライト。

 ひときわ、眩しいライトに目を細めたとき、おじさんの短い叫び声が聞こえた。


 そして暗転。


 ぼんやりとする景色が少しずつはっきりしていく。

 二つの月に照らされた森。きらめく湖。


 穏やかな微笑みを浮かべる男の人はアミヒ、優しく笑う女の人はピリカ。

 湖での、静かな暮らし。

 戸惑う詩子とそっと包み込むように暮らしてくれた二人。

 薄い粥、重い桶、なかなか熾せない火、細い竹ひご。

 煌めく月、瞬く星、風に揺れる湖面。

 食料を集めた森、編めるようになった篭、桶の水をこぼさないで歩けるようになった小道。

 弱っていくピリカ、悲しみ苦しむアミヒ、何もできない詩子。

 小さな舟に花をそえて横たえたピリカ。

 湖面を滑り霧の中に消えていく舟。

 去っていく一匹の薄茶の狼。 

 森に響く悲しい咆哮。

 小屋の中に突然、入ってきた男はシンセント。

 詩子の腕を引いて表に出て、あごを掴み、顔を除きこむ濃紺の瞳。

 生い茂る草木を分けて登る山道。目の前を行くシンセントの背中。


 突然、消える。


 浮かび上がる意識、大きく息を吐いた詩子は、目の前の老師が真っ青な顔で、息を切らしていることに気付く。

「老師!老師!!」

 立ち上がり、向かいに座る老師に駆け寄る。

 老師は肩で大きく息をして、手は冷たく、しわのよった額にはびっしりと汗をかいている。

「老師!」

 詩子の声を聞きつけ、マーナンが慌てた様子で入ってくる。

 マーナンはいつもであれば穏やかな顔を部屋の老師の姿をみてこわばらせた。

「あぁ、どうしたのです?老師、老師、わかりますか?マーナンです」

 老師をじっと眺め、首元にそっと手を触れている。

「あ、……あぁ、」

 老師はわずかに瞳を開けて、マーナンの姿をみて安堵したようにまた、瞳を閉じた。その様子にマーナンはふうと息を吐く。


「ウタ、老師は呪術を使っていたのね?あなたの記憶を見ていた?違う?」


「そう、老師は記憶をみた」


「わかったわ。呪力切れね。大丈夫心配することはないのよ。しっかり休めばよくなるわ。でも、ほんとに珍しいこと、老師が呪力切れなんて。あなたの記憶は老師の興味を強く引いたようね」

 マーナンは少し微笑んで、人を呼び、老師を寝台に運んでいく。

 詩子はそれについていき、ベッドに横たわる老師をじっとみていた。

 老師の部屋から見える空は、あの時とは異なり、薄い雲が広がっている。

 ひんやりとした風が入り込み、詩子は老師が寒くないように、掛け物を肩まで上げる。

 薄灰の瞳は固く閉じられている。規則正しく上下する老師の胸元に安堵しても、その場を離れることができないでいた。

「ウタ、いつまでもそうしていたって、仕方がないわ。心配なのはわかるけれどこっちへ来て、ちょっと手伝ってちょうだい」


 マーナンはこの清定館で様々な雑務をこなしている。通いの女たちと掃除や洗濯をし、調理場の者たちの手伝いもする。老師やほかの教師の雑務を手伝い、学徒の悩みを聞き、時には厳しくしかることもある。この清定館の母親のような女性であった。実際には、子供はおろか、婚姻の機会にも恵まれなったと聞いて詩子はとても驚いた。詩子のイメージする母親とは、まさにマーナンのような女性で会ったからだ。少し丸い背中、こげ茶のやわらかな眼差し、ささくれて荒れた手は働き者で、ただ、深い緑の結い上げた髪だけがイメージと異なった。


 マーナンに言われ、詩子は調理場で芋の皮をむいた。丸い芋はジャガイモのようであったが、中が黄色く、少し粘りがある。柔らかくゆでて食べることが多いその芋が詩子は好きだった。からりと揚げて、塩を振って食べたらきっともっとおいしいと思っていた。


 ――フライドポテト食べたい






 清定館の仕事は多い。その日は、朝早くからマーナンとともに、川で衣を洗う。洗うというより、水に濡らしこすってすすぐ。正直なところ、詩子には物足りない。しかし、洗剤などないようだった。しかし、水だけでもきれいになっている。しぼって伸ばして、干しておく。それはとても重労働で、時間がかかる。たくさんの仕事を持つ、マーナンの分も引き受けて、詩子はせっせと洗濯をする。日が高くなる前に干してしまわないと、衣は乾かない。

 川岸の木々は冷たい風に吹かれて、色を変え、その葉を落としていく。

 風が吹くたびに、詩子の手はかじかんでいった。

 詩子はぼんやりと思う。


 ――洗濯機は便利だなぁ


 あちらでは、当たり前のように毎日、使っていた。もう、遠い昔のことのように感じる。ここにも不思議な力があるから、便利な道具や不思議な力で簡単に洗濯ができるのではないだろうか。

 ピリカやアミヒが不思議な力を使っていた様子はなかった。シンセントや老師の力は特別なのだろうか。詩子にも不思議な力があるのだろうか。詩子にも何かの力があって、ありがちな物語のように誰かに必要とされて、こちらに呼ばれたのだろうか。

 それとも、あの時死んでしまったのだろうか。今は夢の中なのだろうか。

 わからないことばかりだ。

 死んでしまったのではないなら、あちらでは、突然いなくなってしまったことになっているのだろうか。わかっているのは、母親は胸を撫で下ろしていることだけ。

 そう思うことに、自嘲の笑みがこぼれる。

 また、戻ることがあるのだろうか。突然こちらに来たように、突然あちらに戻るのだろうか。

 同じように時が流れているのか、それとも浦島太郎のように、長い月日が流れているのだろうか。


 ――私はどうなるんだろう


 とめどなく流れ出す疑問に答えを見つけることなどできはしない。

 考えることをやめて、詩子は黙々と手を動かす。


 川面を滑るように風が吹き、いくつかできているあかぎれが痛まないくらいに手の感覚はなくなっていた。最後の一枚をぎゅっと絞り、籠に入れる。そして、同じ姿勢を続けて、強張った体をうんと伸ばした。あとは干すだけだ。

 薄く曇った空は、青い空も、太陽も雲に隠れてみえず、うすぼんやりとしていた。ゆったりと羽ばたく鳥が東に行く、雲の切れ間に白い月が見えていた。

 川の流れに乗って、ゆっくりと流れてくる、小さな赤いを見つけた詩子は、そっと手を伸ばす。

 その実は詩子の手のひらにすっぽりと収まるサイズで、赤く色付き、少し柔らかかった。それは赤い柿のように詩子には見えた。しかし、その香りは詩子の知る柿の香りとは異なった。けれども、とても美味しそうだった。

 詩子は思い付き、洗濯物を抱えて、走っていく。



 シンセントの休む部屋に飛び込むと、寝台に横になっているはずだが、その姿はなく、部屋の隅で体を動かしていた。それはシンセントが毎朝、欠かさずにしている鍛錬のようだった。さすがに太刀は手にしていないが、額から頬にかけて、汗が流れている。


「シンセントさん!起きてる!だめ、寝る」


「ウタ、大丈夫だ。ずいぶんと鍛錬を休んでいたから、簡単な型で息が上がる。戻すのにしばらくかかりそうだ」

 部屋に飛び込んできた詩子に少し微笑んで、肩が痛むのか、シンセントは顔をしかめて左の肩をさする。


「大丈夫?もう、痛くない?」


 詩子はシンセントをじっと見つめる。その濃紺の瞳は少し細められ、詩子の頭を大きな手で撫でられる。うなじでくくられた髪はぼさぼさになり、詩子は顔をしかめる。けれども、その手はいつものように心地よく、シンセントの順調な回復に安堵していた。


「大丈夫だ」

「これ、食べる?食べられる?」


「お前は食べられるかどうかわからない物を、食べる前に人に聞けるようになったんだな」


 詩子が山道で木の実を見つけたときに、こっそり食べていたことをシンセントは気づいていた。苦くて食べられない実を口に含み、顔を歪めて吐き出していた姿を思い出し、シンセントは笑う。不思議なことに詩子は毒になるような実を口にすることはなく、カンのいい奴だと、シンセントはいつも感心していた。

「……いつも聞く」


 前を歩くシンセントが気づいていたとは思わない詩子は、バレているとわかって嘘をつく。

「お前、食い意地を張り過ぎだ」


「違う」


「食い意地が張っている割には、独り占めはしないんだよな」


 詩子は必ず、食べ物を分ける。そのことにシンセントは意外に思った。一人では食べないのだ、カナンラのもとに留まったときも、眠る詩子のそばにラナをよそって置いておいたが、詩子は食べなかった。あれは気づかなかったのではなく、一人で食べなかったのだと、今はわかる。


 サナ湖での暮らしを見れば、生活に困窮していたことは見て取れる。そのような者は食べ物をその時にいない者、ましてやよく知らない者に置いておくことは、不自然に感じた。


「その割には、俺の分もほしがる」


 食べているとき、物ほしそうに見つめられたことは、一度や二度ではない。真黒な瞳をじっと向けられると、おかしくなって、あげてしまうのだった。その姿はまるで、餌をほしがる子犬のようであった。

 詩子が持ってきたのは、秋が深まるこのころによく採れるカッザだ。たいていは甘く熟したときに、鳥が食べてしまうのだけれど、その実は鳥の食べた後もなく、きれいでよく熟していた。

 シンセントは半分に分けて、詩子に渡す。


「おいしそう」


 詩子は笑って、受け取るとすぐに口に運ぶ。くるりと大きな瞳を輝かせ、パクパクと食べている。きっと、シンセントの分もほしがるだろうと、手元の実を、半分に分けてから、口に運んだ。幼いころに食べて以来、久しぶりに食べるカッザは、懐かしく、その時よりも甘く感じた。

 すぐに食べ終えた詩子は、シンセントの手元のカッザをじっと見つめる。


「いるか?」


 予想通りに詩子はシンセントの手元のカッザを物ほしそうに見ている。シンセントは思わず、頬が緩む。


「いい、シンセントさん、食べる」


 手を顔の前で振る詩子は、ほしいときはほしいということを知っているので、ほしくはないのだろう。シンセントは残りを口に入れた。詩子は手をすり合わせ、顔をしかめる。


「どうした?手に怪我でもしたのか?」


「手、小さい、傷あるだけ」


 詩子の小さな手にはあかぎれができていた。冷たい水で手が荒れてしまったのだろう。

 シンセントは、詩子の手をそっと取り、小さく呪文を口にする。

 あたりには甘く清涼感のある香りが広がる。治癒の得意でないシンセントの呪術ではあるが、小さな傷が痛まない程度に治すことはさほど難しくはないはずであった。しかし、予想以上に呪力を消耗したようで、体がひどくだるくなった。

 手の傷が痛まなくなった詩子はパァと顔をあげて、シンセントを見つめる。


「ありがとう、痛くない」


 そして、不思議そうに手をすり合わせて眺めている。

 どこからか、マーナンが詩子を呼ぶ声が聞こえてくる。

 洗濯物を干していないことを、マーナンに叱られた詩子は、飛び上がるようにして部屋から出ていった。

 鳥の尾のように短い髪が、ぴょんと跳ねる背中をシンセントは見ていた。





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