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5、呪術師と少年

 詩子の体調も回復し、抜けるような空の朝にシンセントは詩子を伴って、旅立つ。

 カナンラのもとにいても、生活はできるだろうが、この老婆の生活では詩子を養うには、十分ではないとシンセントは言っていた。


 誰かの重荷ではいられない。


 歯のない顔をくしゃりとよせて、カナンラは手を振る。

 詩子はシンセントとともに、また歩き始めた。

 シンセントが一体何者なのか、どこに行くのか、自分はどうなるのか、わからないことばかりだったが、不思議と不安は強くなかった。


 うっそうと茂る山道をシンセントはスタスタと歩いていく。カナンラが衣とともに譲ってくれた履物は、質も良くはなく、サイズもあってはいない。使い古した物なので当然だ。しかし、ないよりは断然いい。詩子は小石を踏んでも、木の根を踏んでも、痛くないことがうれしく、スキップする勢いで、道を進んだ。


 しかし、はやり、歩き慣れない山道は詩子には、厳しかった。あっという間に足取りは重くなり、うかうかすると、すぐにシンセントの背中が遠ざかってしまう。

 歩き始めて、ずいぶんと時間が経ったように詩子は感じたが、シンセントは休む気配を見せない。


「シンセントさん、早いなぁ」


 額を流れる汗を手で拭い、立ち止まって、先を行くシンセントを見る。

 一休みしたいが、後どれくらい歩くのかわからず、休みたいと言葉をかけることは憚られた。どういう理由で詩子を伴ってくれているのか、わからないが、詩子はシンセントを頼るしかない。実際に、背に乗せて山道を歩いてもらい、一緒にカナンラの家に泊めてもらい、詩子が寝ている間、労力を提供していたのはシンセントだ。


「あぁ、お腹すいてきたぁ。峠の茶屋とかないのかなぁ?八兵衛とかしんべえとかみたいに、お団子食べてたみたいな」


 少し離れて黙々と歩くシンセントには聞こえないうえに、理解できない言葉で詩子は盛大にぼやき、立ち止まり差し込む木漏れ日を眺めていた。紅葉を迎えた山々は燃えるように赤く、詩子は大きく息を吐く。

 詩子が立ち止まったことに気付いたシンセントが声をかける。

「ウタ!早く!〇〇▼◆」

 ニヤリと笑う。名前を呼ばれたことはわかったが、その後はわからなかった。

「うん、今いくよ!」

 足元を見つめて、詩子は小走りにシンセントの元へ行く。

 わからないからこそ詩子は言葉にする。

「シンセントさん、お腹が空いたよ。何かたべないなぁ。はぁ、こんな山道に、何か食べるものがあるわけもないし、売ってても買えることもないし、シンセントさんに頼らざるを得ない現状、なんだか、申し訳ないわ」

「?」

 詩子のつぶやきにシンセントは、意味をつかもうとじっと見つめる。

「あっ!いいの、いいの。独り言」わからないと思ったからこそのつぶやきだ。詩子は笑って顔を振る。

 シンセントは詩子の素振りに、踵を返し、歩みを進める。


「うわー、無性にオムライスが食べたくなってきた」

 シンセントが背中に斜めにかけている荷物の形が、卵に包まれたオムライスに一瞬、詩子には見えた。


「卵がトロトロじゃなくて、薄くて、キレイなやつ。中はケチャップご飯。鶏は無くていい、ハムとか、ソーセージでいい。ケチャップを上からかける。そんなに多くなくていいんだって、ちょこっと飾り程度にね。……可愛いメイドさんが絵を描いてくれるとこがあるみたいだけど、あれって、ケチャップが多くなるよね?ちゃんと、味の調整してあるのかな。私は中のケチャップご飯が濃いめで、ケチャップは少なめが好きだなぁ、…うん、あぁ、食べたいなぁ」

 ぶつぶつと言いながら、歩く詩子をシンセントはチラリとみて、少し肩を揺らせて笑っていたことに詩子は気づかなかった。


 前を歩いていたシンセントが外套の下にある、太刀の柄に手をかけた。

「うた、動く、な」

 シンセントの纏う空気が一瞬にして、変わる。

 そのピリピリした雰囲気に詩子は自分の荷物を抱きしめ、頷いた。

 ガサッと草木の擦れる音に詩子が振り返ると、シンセントがかばうように目の前に立った。

 そして、シンセントは太刀を抜きながら、飛び出てきた何かを斬り払う。それは、両手で持てるくらいの大きさの鼠のような獣であった。鋭い前歯と爪を持ち、シンセントの太刀を躱し、次々に襲いかかってくる。しかし、シンセントは太刀を鳴らし、確実に仕留めていく。

 その動きに迷いは無く、なめらかで、呼吸を乱すこともない。

 詩子は怖さも忘れ、シンセントの剣技に茫然と見入っていた。

 程なくして、鼠のような獣はいなくなり、足元には血に濡れた獣が横たわっていた。

「うた。行く、ぞ」

「う、うん」

 血に染まった太刀を拭き、鞘にしまうと、なんでもないようにシンセントは歩き始めた。

 しかし、詩子は動くことができない。

 荷物を抱きしめたまま、地面から足が離れない。そんな詩子に、シンセントは笑って、頭をポンと撫でる。

「うた、◆〇〇▼◆〇〇▼◆〇〇」

 詩子の腕を掴むと、ぐっと引き、歩き始める。

「おぉ、転けるって」

 シンセントに引かれて、詩子はつんのめりながら歩く。


 峠の茶屋は、いつまでたっても、見当たらなかった。




 シンセントとの旅は、楽しかった。守られているという安心感は好奇心を持つ余裕さえも生み出すことを詩子は知る。

 進む道はたいてい山道で、勾配もきつく、ぬかるんでいたり、崩れかけていたりした。

 それでも、足元に落ちる木漏れ日は美しく、色とりどりの山は美しく、木々をすり抜ける風はさわやかだった。


 峠を越えて、開けた土地に点在する家々。土壁と板で作られた家は、詩子が湖畔で暮らしていた小屋とは比べものにならないくらい大きく、作りのしっかりしたものだった。

 家と田畑が広がり、土や泥に汚れ、働く人々がいる。人々の暮らしは確かにここにある。

 詩子は思いを巡らせて歩く。

 ここがどこかはわからないけれど、人が生きるための営みは変わりはないと。

「ウタ!」

 ぼんやりとしていたため、シンセントとの距離が開いてしまう。シンセントが振り返り、詩子を呼ぶ。

「わっ!ごめん。すぐ行くね」

 詩子が走ってくるのを、子犬が駆け寄ってくるようだとシンセントが感じていることを詩子は知らない。





 シンセントと旅をするようになって、十日ほどしたころにたどり着いたのは、大きな街だった。

 大きな通り挟んで立ち並ぶ家屋の屋根には、青い瓦がのっている。日差しを受けて青い瓦が光り、同じように通りを歩くたくさんの人も、光るように眩しかった。

 詩子はそんな街の様子が珍しく、きょろきょろとまわりを見回していた。

 シンセントに腕を引かれる。

「ウタ、来る」

 おそらく、シンセントは今日の泊まる宿を探しているのだろう。あたりを見回しながら、何かを探している様子だ。

 シンセントは背が高いため、周りを歩く人たちよりも頭が一つ分出ている。少し離れても、見つけることは容易だ。


 物を売る屋台には、たくさんの品物が並べられている。

 色とりどりの野菜や果物。香ばしい匂いの焼いた肉、細かな飾りのついた小物。所狭しと並べられた商品を横目に、詩子はシンセントの背を追う。

 少し離れてしまい、慌てて追いかけようとしたとき、詩子はスパイシーで食欲を誘う匂いを感じた。


 ――焼きそば!!ウスターソース!!


 詩子はその匂い追わずにはいられなかった。

 人をかき分け、その匂いをたどる。

 一軒の出店で、大きな鉄の板で、薄い生地を焼いて、その黒っぽいソースを塗り、丸めている。詩子を引き付けた匂いはまさにこの食べ物からだった。


「お好み焼きみたいなクレープって感じ。あぁ、おいしそう」


 詩子は思わず、呟いてしまう。じっと見つめ、味を想像する。思い切り吸い込んだその匂いはウスターソースそのものだった。

 たたずむ詩子の脇をすり抜けて、小さな男の子と女の子が手にお金を握りしめ、二つ買って行った。

 店の男は、ものほしそうにじっと見つめる詩子に気が付いた。にっこりと笑って買って行けというように手招きをする。しかし、詩子はそれを手にするための対価を持っていない。

 小さく首を振り、その場を離れるしかなかった。しかし、その香りから詩子は離れがたかった。少し後ずさり、じっと見つめてしまうのは詩子のお腹がすいていたからではなく、ただ、ウスターソースの香りが懐かしかったからだ。


 人の雑踏は、夜祭を思い起こさせた。


 釣り下がる提灯、打ちあがる花火、屋台の金魚、ベビーカステラ、お好み焼き、焼きそば。

 友人の華やかな浴衣姿に見とれた、下駄の鼻緒が痛いということさえ、うらやましかった。

 それでも、うらやましいということは誰にも言えずなかった。

 今では、足が痛いと本当に歩くことが大変であると、詩子は知っている。

 そんな自分に、少し笑って、今ならもっと親身になってあげられると思った。



 詩子の思考を断ち切るように、大きな悲鳴が響く。


「きゃー!!」

 人の流れが途絶え、人の波が引くように開ける。


 その中心では、何人かの男たちが入り乱れて、殴り合っている。舞い上がる土ぼこりと、響く怒声と周りを囲む人々の叫び声。


「わぁ、喧嘩してる」

 詩子は思わず、自分の荷をぎゅっと抱きしめる。


 今までに、誰かの殴り合いの喧嘩を見たことがなかったため、驚きながらも恐いものから、目が離せないように、じっと見つめていた。


「……シンセントさんじゃん」


 その中の一人が先ほどまで一緒にいた、紫紺の髪の男、シンセントであると気づいた。

 四人の男とシンセントは殴り合っている。正確にはシンセントが一方的に殴っている。殴りかかってくるその手を軽くいなし、軽く背や首を打つ。その動きは軽く見えるけれど打たれたときは詩子が耳にしたことのない、鈍い音が響き、男は地に崩れ落ちる。


 そのとき、高い笛の音が聞こえ、何人かの衛士があっという間に現れて、男とシンセントを捕らえる。

 シンセントは抵抗することなく、衛士に取り押さえられている。

 その様子を、どうしていいかわからないまま、人込みにまぎれて見つめていた詩子を、シンセントは見つける。


「ウタ!」

 詩子はどきりと肩をあげる。


 ここで知らないふりをしたところで、生きてはいけない。詩子はシンセントのもとへそっと歩み寄る。

「ウタ!☆◇●○▼□◇○!」

 衛士に抑えられながら、詩子をじっと見つめる紺の瞳が詩子は痛い。

「ごめん」


 おそらく、シンセントのもとを離れてしまった詩子を探していただろう。どぼどぼと足元をみたまま、シンセントと供に衛士に従う。

 シンセントを衛士は何か話をしていたが、詩子には意味がわからなかった。よくわからないままに歩いていく。シンセントは恐れているような様子はなく、何とかなるような、悪いことにはならないような、安心感がシンセントにはあった。


 前を歩く、シンセントが打ち据えた男たちは、大きな声で何かをわめいていた。身なりはあまりよくはなく、素行のよくない者たちのようであった。詩子はこの世界にも同じような人がいるんだと、思っていた。

 連れてこられたのは、大きな門扉のある建物であった。見上げるほどに大きい、この世界に来てから詩子の知るどんな建物よりも立派であった。思わず、先を進むシンセントを見上げると、大丈夫だというように小さくうなずいた。


 薄暗い廊下を進み、小さな部屋に連れてこられた。椅子に座るように言われ、シンセントの横に座る。

 何かのやり取りが衛士とシンセントの間でなされているけれども、シンセントは何も話してくれず、詩子はじっとおとなしくしていた。

 衛士の様子から、シンセントと詩子は咎められているわけではないようで、おおむね良好な関係にあるようだ。


 何人かの衛士とシンセントは話をして、あっけないほど簡単に帰された。

「シンセント、何?」

 目の前の紫紺の髪を持つ男は一体何者なのだろうか。濃紺の瞳を見つめても答えはわからない。

「ウタ、離れるな」

 大きな手が詩子の頭を掴み、ガシガシと撫でられる。その手は力強く、詩子の頭は大きく揺れた。それが詩子にはとても心地よかった。


 すでに太陽は大きく傾き、長い影が足もとから伸びていた。シンセントと並ぶ、二人の影を見て詩子は、ちいさく笑う。

 シンセントとの旅は、いつまでも続くような気がしていた。






 一番鳥の目覚める前に、シンセントは床を離れる。

 これは最早、習慣であり、せずにはいられない。

 水場で顔を拭い、身体を目覚めさせるように、軽く太刀を振っていく。

 最初は、ゆっくりと、大きく息を吐きながら、なめらかに、静かに。身体が温まってくれば、緩急をつけていく。

 シンセントの故郷では、ごく一般的な剣術、サナーラの基本的な形を丁寧にさらっていく。


 形は全てで三十を超えるが、シンセントは全てを覚えており、どの形を行うかは、その時の気分だ。


 霧のかかる静かな朝に、シンセントの太刀が、空を切る音が響く。

 朝日、刀身がきらめき、シンセントの身体から、湯気が昇る。

 額は汗が流れて、瞳はどんな心も映してはいない。口元はひとすじに結ばれ、時折発する、気合いのみ。

 ゆっくりと足を揃え、太刀を下す。


 その様子を詩子はよく見ていた。

 軽々と振る太刀を、一度、自分も振ってみたいと思っていた。

 ころあいを見図り、汗をぬぐい始めたシンセントに駆け寄って、話しかける。

「ねえ!私もする。すごくいい」

 シンセントは胡乱げに詩子を見つめ、無理だといわんばかりに首を振る。

「やる、教えて」

 詩子は嬉々として、シンセントの太刀を指差し、シンセントの握る柄に手を伸ばす。

「だめだ」


 朝日を浴びた真剣は、きらりと光る。

 シンセントが手入れを怠ることのない刃は、触れるだけでそのものを切り裂いてしまうことに詩子は気づかない。

 頑なに、シンセントの手から太刀を取ろうとする詩子に、シンセントは仕方がないと、言わんばかりに、太刀を鞘に戻してから、帯から太刀を外した。飾り気のない簡素で実用のための太刀は武器を必要としない世界で生活していた詩子にはひどく珍しい。

「おー!いいね!」

 シンセントは太刀を持つ手を伸ばし、詩子に差し出す。


 詩子は両手を伸ばしそっとその太刀を受け取る。

「えっ!!」


 太刀は恐ろしく重い。片手でなんてことないようにシンセントは詩子に渡したけれど、詩子はその太刀を両腕に抱え、ふらつく。

「ウタ、できない」

「重い!重いし!!」

 太刀を抱え、ふらつく詩子を見て、シンセントは笑う。助けを求める詩子の声を聴きながら、濡らした手巾で汗ばんだ身体を拭っている。

「ちょっと、こんなとこで身体を拭いてないで、この刀、なんとかしてぇ、重い!」


 朝日が、あたりをまぶしく照らしていた。






 峠を歩くことに、詩子はずいぶんと慣れてきた。木の根が這う道で草を分け入って歩くことに、戸惑うこともなくなっていた。

 鳥の声や、木々の様子を楽しめるようになり、おいしそうな木の実をつまんだり、きれいな花を見つめたりするようになっていた。シンセントの背を見て歩くことが当たり前で、その背がなくなることなど考えたことはなかった。



 突然、香ったのは辛味を帯びた強い清涼感と苦味。

 足元に落としていた視線をふと上げる、香りの元を確かめようとあたりを見まわそうとした、その瞬間。

 詩子を強い衝撃が襲う。

 シンセントに抱きしめられ、地面に叩きつけられたことに気づいたのは、シンセントが詩子を離し、かばうように背に隠されたときだった。


 片膝をついたまま、太刀を抜き払い、真っ直ぐに構えているのが、広い背中からでも見える。

 しかし、シンセントの前に何があるのかは、うかがい知ることはできない。


 張り詰めた空気に息をすることも忘れ、詩子はじっと、その背に隠れる。


 ガサリと何かが動く音に続いて、シンセントが太刀で受け止めた衝撃が詩子にも響く。

 詩子は目を閉じている。しかし、その間も絶え間なく続く、その衝撃に、何かから攻撃を受けていることに思い至る。


 シンセントが何かを小さく口にして、あたりにふわりと香る。先ほどとは異なる香りに、詩子は目を開ける。目の前のシンセントの背中が少し熱くなったような不思議な感じがした。

 また、先ほどまで耳に入っていた剣戟、地を蹴る音、木々のざわめきがぴたりと止む。


 驚いて顔を上げると、シンセントはすでに立ち上がり、濃紺の衣をまとった何者かと激しく立合っている。

 振り下ろされる太刀をギリギリのところでかわしたものの、追いかけるように太刀がシンセントを襲う。太刀でその攻撃を払い、その勢いのまま、相手に踏み込み、太刀を払う。相手は見越したように、素早くかわし、シンセントを斬りつける。

 かわしきれない、シンセントは左腕で太刀を受ける。


「あっ」


 詩子は思わず、声をあげるけれど、シンセントは何でもない様子で、左腕で太刀を払いのけた。

 相手も、そんなシンセントに一瞬、動きを止める。

 斬りつけたはずの左腕は、血しぶきがあがることも、斬り落とされることもない。


 相手の顔が、ニヤリと歪み、太刀を振りかぶる。

 シンセントの額には汗が浮かび、表情は険しい。汗で滑るのだろうか太刀を握り直した。肩で息をしており、相手の動きに合わせることが、難しくなってきているようだ。


 しかし、音は何も入ってこないため、どこか遠く感じ、映像を見ているかのように現実味に欠けた。詩子はじっとその様子を見ていた。


 木漏れ日を受けて、二人の太刀が光る。


 とうとう、何者かの度重なる猛攻にシンセントは崩れ落ちる。膝をつき、肩で息をするシンセントに、その者は、太刀を大きく振りかぶった。

 詩子は、「ああっ!」と声をあげると思わず、立ち上がり、シンセントに駆け寄る。

 重なる落ち葉に足を滑らせ、飛び出た木々の根につまづき、その者の間に転がるように飛び出て、シンセントをかばう。


「▽◆◯」

 濃紺の衣、赤茶の長い髪の男が何かを言うが、詩子には意味はわからない、そして、鋭い赤茶の瞳に刺し抜かれるように、詩子は動けなかった。


 太刀を頭上にかぶり、今にも振り下ろされそうなその様子に、今更ながら、恐怖を覚える。


「……◯、◆◯▽…」

 シンセントが何かを言うけれど、それもわからない。


 詩子は歯をくいしばる。そうしていないと、歯がカチカチと鳴ってしまいそうだった。

 目をそらすこともできず、詩子は赤茶の瞳を見つめる。


「……◆◯▽◆◯▽◆◯▽◆」


 何かを言うと、ゆっくりと太刀を下ろした。

 しかし、瞳は相変わらず、詩子を捕らえたままで、動くことはできない。


 その者は何かを小さく呟き、あたりには辛味を帯びた強い清涼感のある香りが広がる。

 すると突如、強い風が起こり、詩子は思わず、瞳をきつく閉じる。巻き上がるような風に髪が乱れ、小石や落ち葉が頬や額にはあたった。


 風が収まり、目をあけると、そこに男はいなかった。

 後ろを振り返ると、シンセントはぐったりと倒れたている。


「ちょっと、大丈夫?しっかりして」

 汗ばみ、青白い顔をしたシンセントは目を開けず、色を失った唇は呻き声をもらすだけだ。

「ねぇ!ちょっと!」

 ここに来てすぐ、何もできずに死を迎えた優しい人が瞼に浮かぶ。

「いやだ。いやだよ!」

 詩子の声は木立に消え、応えてくれる者などない。


「だ、誰か。助けて……」

 呻き声を漏らしていた唇は、ぽかりと開いたままだ。

 弱い呼吸さえも、今にも止まってしまいそうだ。


「誰か、助けて!!」

 詩子はこぼれ落ちる涙もそのままに、シンセントにしがみつく。

 何度かつないだことのある手はしっとりと汗ばみ、驚くほどに冷たい。


「いやぁー!!」

 詩子の悲鳴にも似た、声がこだまする。


 応えてくれる者などない。

 とめどなく涙は流れて、はばかることなく詩子は声をあげて、泣き続ける。


「どうして、どうしてみんな死んじゃうのよ!どうして、私を置いていくのよ!!」


 涙でシンセントの肩の衣はひどく汚れたが、詩子は手を握ったまま、肩に顔を押し付け、心の奥底に押し込んでいた思いを言葉にした。


「私が死ねばいいじゃん……」


 言葉にすると、心にすっきりと収まるように感じた。

 しかし、詩子はこうして、生きている。


「あぁ」


 涙は止まることなく、頬を伝う。




 ひどく、泣いていたからだろうか。

 詩子は、すぐそばで、一人の男がこちらを見ていることに気づかなかった。






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