3、湖畔の咆哮
二人の朝は早い。
まだ日が上る前に起き出し、ピリカは水を汲みにいく。水道はもちろん電気はない。木で作られた桶は、水分を含み、それだけで重い。
「プラスチックのありがたみを痛感するわ」
それを手に持ち5分ほど行くと、湖に注ぐ清流がある。その水を汲み、戻る。道はもちろん舗装などされているわけもなく、石や木の根、ぬかるみもあり、でこぼこだ。重い桶を手に、詩子はフラフラとよろけて、桶から水がこぼれてしまう。そして、やっとの思いで小屋の中の土間におかれた甕に水を移す。しかし、桶になみなみを入っていた水は半分ほどになり、何度も往復しないと、甕はいっぱいにならない。額を流れる汗を袖でぬぐった。
穏やかな湖面は、日差しを受けて、キラキラと光っている。
「目の前に湖があるのに、どうしてこの水じゃだめなの?」
ピリカは、詩子の言うことが理解できたようで、何かを言ったけれど、詩子にはわからなかった。
ピリカは困ったように笑っていた。
二人の住む小さな小屋は、吹けば飛んでしまいそうに頼りない。
他に小屋はなく、二人の他に人が住んでいる気配は、この辺りにはない。
アミヒは湖に蟹を採りにいき、その蟹を持って、出掛けていく。日が沈むころに、少しの米と野菜を持って帰ってくる。
きっと、どこかで交換してくるのだろう。
だから、何処かには他に人が住んでいるのだろう。
アミヒは、蟹を採り、売りに行く。
ピリカは、水を汲み、掃除や洗濯、食事の支度をする。森へ行って食料を探すこともあった。
そして、小屋の裏手の竹林の竹を採って、割って、編み、籠や笊を作った。
それを蟹と一緒にアミヒが売りに行く。
食事は、薄い粥。たいてい里芋やさつまいものような芋類と一緒に炊く。
詩子は、油でギトギトの焼き肉が恋しかった。しかし、居候の身で食事に文句は言えない。そもそも、ここに焼き肉があるかどうかもわからない。
二人の暮らしは、深い森と湖に囲まれ、静かで温かい。毎日が淡々と、穏やかに過ぎていく。
詩子は、60回目の朝を数えてから、もう、数えることをやめた。
日差しは日増しにきつくなり、初夏を過ぎ、何もしていなくても汗ばむような季節になっていた。
ある日、
蟹を売って帰ってきたアミヒは、服を持って帰ってきた。
詩子の前に差し出す。
それをみたピリカは、明るい声をあげたけれど、広げた服を見て、表情を曇らせる。
ピリカの着ている服と、アミヒの着ている服は違う。
ピリカの服は、前合わせの上衣を二枚重ね、下はロングの巻きスカートをはいている。
アミヒは、上衣は同じようなもので、下は膝丈のゆったりとしたズボン。
そして、アミヒの持ち帰った服は、どうやら男もののようだ。
詩子の着ていた服は、汚れてしまっていたし、こちらの暮らしには、異質過ぎた。
そのため、ピリカの服を借りていた。
ピリカが着ると上衣は手首まで、下衣も踝まである服は、ピリカよりも背の高い詩子が着ると、上衣は七分丈、下衣は膝下。
詩子の背は、16歳の女の子の平均より少し高いくらいだが、ピリカとはずいぶん違う。
アミヒと比べても、少し詩子のほうが大きい。二人の隣にいると、大女になった気がしていた。
アミヒがわざわざ、買ってきてくれた服で二人が険悪になるのはつらかった。
詩子には、男性用でも、女性用でも、見慣れない、着なれないことに変わりはない。
「ありがとう。アミヒ。ずっとピリカの服を借りたままだったから、嬉しい」通じないとわかっていたけれど、感謝の気持ちを言葉にする。ゆっくり頭を下げる。
アミヒははにかむように、笑った。
そんなアミヒを見て、ピリカも笑った。
ガラス窓のない室内は、昼間でも驚くほど暗い。
夕闇が迫ると、あっという間に暗くなる。
朝の早い暮らしは、薪の節約にもなることを知った。
詩子は、二人が寝静まったころ、小屋を抜け出す。
街灯のない夜は暗い。真っ暗な森と湖は、風が渡る音がするくらいで、とても静かだ。昼間の熱はどこかに消え去り、夜は少し肌寒く感じることもあったが、今夜はまとわりつくような、熱気が詩子を包んでいた。
空を見上げると月はなく、一面の星が広がる。プラネタリウム以外で天の川を見たことはなかった詩子は初めて見たときは、息をすることも忘れて、見入ってしまった。
光り輝く星の名前は、一つもわからない。
――ここはいったい、どこなんだろう?
答えはまだ見つからない。
「フライドチキンが食べたいわ〜。カリカリの衣にじゅわじゅわの柔らかいお肉!」
満天の星の下で、詩子のお腹が盛大に鳴った。
朝、静かな森に鳥のさえずりが聞こえ始め、東の空から、太陽が昇る。
隙間だらけの板の壁から光が漏れて、狭い小屋を照らす。
その光を受ける前にピリカは起き出し、身支度を整え始める。
その気配で、いつも詩子は起きて、アミヒも起きる。
しかし、ここのところピリカは朝寝坊をする。
太陽がすっかり登り、小屋の隙間から、朝日が差し込んでも、ピリカは布団から出てこない。
ここでの暮らしは、何となく理解できているので、詩子はいつもピリカがしていたように、水を汲み、食事の支度をする。
いつまでたっても、なかなか火をおこせない詩子に、アミヒは困ったように手伝ってくれる。
「チュプ……」
ピリカが詩子を呼ぶ。
寝ている布団に寄り、そっとおでこに触れる。
白湯を手渡すと、ピリカは弱々しく微笑み、器を口に運ぶ。
熱は無いようだけれど、触れた手足はとても冷たい。気温は低くはなく、詩子は汗ばんでいるけれど、ピリカはとても寒がった。
「何にもできないよ……、どうしちゃったの?ピリカ、しんどいの?どっか痛い?」
ピリカの顔は青ざめていて、吐き気があるのか、口元を押さえている。
冷たい手足を温めたくて、服を探したけれど、ピリカは厚手の服を持っていなかった。
詩子は自分の着てきたブレザーがあることを思いだし、角に丸めておいたままになっていた自分の荷物から、取り出して、ピリカの肩にそっとかけた。
ピリカの服とは違う、柔らかい肌触りにピリカはうっとりと目を閉じる。
「チュプ」
詩子の名を口にして、微笑みを浮かべた頬は、ほんのすこし、赤みが戻ったようだった。
ピリカのしていたように、水を汲み、掃除や洗濯をして、粥を炊く。
昼になって、調子がいいと、ピリカは布団から出てくる。
どんどんやつれていくピリカ、明るい日差しの下に出てくるとよくわかる。
何も食べず、水分すら吐いてしまうようになってしまった。
詩子は、何も出来ない。
「ねえ、お医者さんとか、病院とかないの?寝てても良くならないよ。」
ピリカは困ったように、弱々しく笑う。
アミヒは、今にも泣きだしそうになっていたけれど、ピリカの前では、穏やかに微笑んでいた。
床に臥せっていることが多くなり、ピリカはほとんど起きてこなくなった。
アミヒはそんなピリカの傍らに座って、髪を梳くように撫で、頬に手を滑らせていた。
気持ちよさそうにピリカは瞳を閉じ、アミヒはピリカにそっと声をかける。
「ピリカ……」
ピリカの瞳から涙が流れていた。
食事や水、篭、笊、いくつかの単語はわかるようになり、何となく話していることはわかるようになった詩子だったが、二人の交わす言葉を聞き取ることはあまりできなかった。しっかりと聞いていれば、わかったかもしれなかったが、詩子はしなかった。
その甘い響きは、二人だけのものであってほしかった。
とうとう、ピリカは起き上がることができなくなった。
それでも、詩子は何もできない。
青白い顔、落ちくぼんだ瞳の輝きは失われて、かさついた唇からはかすれた声しか出ない。ピリカの傍らで、冷たい手を握り、骨ばかりの肩をさすることしか詩子にはできない。
「ピリカ」
その名を呼んでも、瞳を開けてくれないこともあった。
細かな雨が煙るように降る夜、熱気はとうに去ってしまい、夜に雨が落ちてくると、冷えるようになっていた。
囲炉裏の火をピリカのために灯し、詩子はピリカに寄り添っていた。
薪の爆ぜる音と、アミヒの竹を割く音が、詩子の耳に心地よく響いていた。
「チュプ……」
かすれていつもはあまり聞き取れないピリカの声がはっきりと聞こえた。
「何?ピリカ、どうしたの?」
詩子はピリカをそっと覗き込む。
そして、ピリカは柔らかく微笑んで詩子に言葉を贈る。
「パロルアロトルナーレ」
詩子には意味をくみ取ることはできなかったけれど、同じように傍らにいたアミヒは驚いたように、詩子を見つめ、ピリカを見つめ、そして、ピリカをそっと抱きしめ、頬を寄せる。
そして、風のない、とても静かな夜に、ピリカの薄茶の瞳を見せてくれることが永遠になくなった。
アミヒの嗚咽は小屋の外まで響く。
丸い月が明るく照らす。その月はまるで片割れをなくしたアミヒのように、一つだった。
詩子はただ、その月を見上げて、泣くことしかできなかった。
東の空が少しずつ、白み始めたころ。
詩子はそっと、森へ入り、花を摘んだ。
ピリカと歩いた森の道、木の実を取ったり、野草をつんだことを思い出しながら泣いた。
アミヒが蟹を採っていた小舟に、そっとピリカを横たわらせる。
詩子は花を小舟に一緒に乗せ、パサついた髪を撫でつけ、そっと胸元に流す。頭の高い位置でまとめて結わえていたピリカは、詩子の短い髪を不思議そうにしていた。
アミヒでさえ、髪は長く、うなじの辺りでまとめていた。
ここに来てから、詩子の髪も伸び、何とかうなじの辺りで一つにまとめることができるようになっていた。
詩子のむすんだ髪を小鳥の羽根のようだとピリカは笑った。
アミヒはピリカを乗せた小舟をそっと、湖面に浮かばせ、そのヘリを押した。湖面をすべるように小舟は岸から離れていく。
朝日が昇り、辺りは明るくなってきていた。
湖面を覆っている霧は、あっという間に、小舟を隠してしまった。
詩子は、小舟が見えなくなっても、湖面から目を離すことができなかった。
どれくらいそうしていたのだろうか。
隣に立っていた、アミヒが詩子のそばに寄ってきて、肩をたたく。
その瞳は悲しみをにじませていた。
「いいよ。私は大丈夫。アミヒ、行って、いいよ。チュプ、大丈夫」
アミヒはピリカと過ごしたこの小屋にはいられないのだろう。
涙を隠すことなく、アミヒは頬を濡らしていた。
詩子は一人になることが怖かったけれど、悲しむアミヒを引き留めることはできなかった。
アミヒに詩子は小さくうなずいた。
アミヒの体は一瞬、膨らむようにぼやけた。
そして、次の瞬間には薄茶の獣、狼が目の前にいた。
詩子は驚いたけれど、心のどこかに「やっぱり」と思う自分もいた。
蟹を持って出かけていくアミヒ、でも、詩子の知る範囲にはどこにも人の住む気配はない。周りは深い森に囲まれ、人が一日で行って帰ってこれそうなところに人はいない。それより遠くに、アミヒは出かけている。
そして、出会った時の犬の気配。心のどこかで、アミヒがその時の獣だと、わかっていた。
深く考えなかっただけだ。
「アミヒは狼なんだね。……ほんとにここは私の知る世界じゃないんだね」
わかってはいたが、改めて感じた。
アミヒは手を振る詩子から、少し離れ、大きく咆哮した。
悲しい、とても悲しい声だった。