25、王都の初春
一面の銀世界を詩子は見たことがなかった。
あちらでは詩子は比較的暖かい地方に住んでおり、何か月も雪に閉ざされる暮らしを知らない。当然知識としては知っていたが、わかってはいなかった。
常緑樹の葉も青い瓦も白い雪に覆われ、文字通り辺りは一面、白で覆われる。朝、夜中に降り積もった雪の光の眩しさに、一夜にして一変した景色の美しさに詩子は目を細め、そして、見とれた。
月の乙女として祭り上げられて、王都を訪れ、王城での惨劇。崩れゆく広間からシンセントとともに、逃げ出した詩子は、それ以降王都にあるシンセントの住居で生活をしていた。
こじんまりとはしているが、屋敷と呼んでも差し支えないだろう。母屋には四部屋あり、炊事場と、使用人が寝起きをするような部屋がある別棟が並んでいる。その敷地はぐるりと詩子の背丈ほどの柵で囲われており、そして、すぐわきに共同の水場があり、近所の下働きの女たちの社交場にもなっている。
この屋敷はシンセントの私物であるという。初めてここを訪れた時はまったく手入れがされておらず、家屋は痛み、敷地内は草が生え、荒れ放題であった。
肩を痛めていた詩子は役には立たず、何人かの人を雇い、手入れをして何とか住めるようにした。それからは、詩子がこの家のことを取りまわしていた。
王城に行ったまま、シンセントは何日も帰らないことが多く、帰宅しても、すぐに出て行ってしまう。
慌ただしく暮らしていくことに精一杯で、詩子はシンセントに何も言えなかった。
――助けに来てくれてありがとう
そんな言葉をかけようにも、シンセントは不在がちだ。
時間が経つにつれて、段々と詩子を助けるためだけに、王都に戻ってきたわけがないと思った。
本来、シンセントは王城の青龍の宮に配されている。そこに戻ってきただけのことであり、見知った者である詩子を助けたのも、善意であり、任務ではないだろうか。
ひとり舞い上がって、告白めいたことをしなくてよかったと、この頃感じている。
行くあてのない詩子をシンセントは善意で置いてくれているのだろう。使用人をほかに置いていないのも、詩子に仕事を与えてくれているのだろう。
そう思うと時折肩が痛むとはいえ、のんびりと座っていることは出来なかった。
わからないことは近所の使用人の女の人たちに助けてもらって、王都での生活のあれこれを学んだ。
お金の数え方もろくにわかっていなかったことに驚かれたが、みんな親切で、気風がよく、気のいい人たちだ。そして、買い物の仕方から、安くて新鮮な商品を扱う商店、簡単で美味しい調理の方法まで丁寧に教えてくれた。
シンセントは金銭を要求した詩子に一瞬、驚いたが、食事の支度をするという説明で、申し訳なさそうに眉を下げていた。ずいぶんと多く渡され、身の回りの物も必要だろうと言われた。
荷物を整理してから、見知った女の人たちの様子を窺い、それとなく聞き出した。はやり冬の支度には不十分で、いくつか買い足さなくては、この冬を越すことは難しそうだった。
服を買い求めるにあたり、詩子は、女物の服を着ることにひどく抵抗を感じた。
長い衣は足にまとわりつき、動作がいちいち面倒で、濡れた土にうっかり裾を擦ってしまうと、すぐに汚れてしまうのだ。
一枚買ってしまったが、どうにも慣れることができず、結局男物を着てしまった。
そして、髪は伸びてきたとはいえ、高く結い上げることはできず、後ろで一つにくくるしかない。
すると、元通りの少年のようないでたちになってしまった。
衣を重ねてきているから、ささやかな詩子の体の凹凸は全くわからない。
当然のように、少年と思われることに、詩子は抵抗がない。
近所で、噂になっていることを詩子やシンセントが知ったらおそらく詩子は男の子の恰好をすぐにやめていただろう。
――ランサ家の坊ちゃんがかわいらしい少年と住んでいる
真っ白な王都、細かな雪が舞う様に朝から降っていた。
詩子はシンセントが早朝に王城に行ってしまったため、一人で部屋の掃除をしていた。
詩子は使用人の部屋で寝起きをしていた。シンセントは母屋を使うようにすすめたが、炊事場が近いほうが何かと便利であったために、辞退した。
母屋はシンセントが寝起きをしているだけであったが、使わない部屋であっても、ほこりはたまっていく。
濡らして固く絞った手巾で床を拭いていく。その手元だけをみていると、懐かしい声が耳によみがえる。
――拭き掃除はいい運動になるんだよ
祖母は掃除が好きな人だった。掃除機をかけてしまえばいいのに、ぞうきんを絞り、床を拭いていた。そんな祖母が詩子に冗談めいて言った言葉。足腰が弱らないようにねと笑っていた。
今となっては懐かしい思いがするが、つらくはならない。
掃除を終え、食事を簡単に済ませた。
しかし、先日買った、シロ豆が思うように柔らかく煮ることができなかった。近所の誰かに尋ねようと、シロ豆を手に水場に向かう。この時間ならちょうど、オレーナという気風のいい女性が夕食のための野菜を洗っているだろう。
しかし、その姿は見当たらない。
「どうかした?」
声をかけて来たのは、初めて見る中年の女性で薄茶の髪をしたほっそりとした人だった。手には笊を持ち、その中には、今洗い終わったのであろう、芋がいくつも入っていた。
「あ、いえ、オレーナさんに聞きたいことがあったんだけど」
「何?わたしでよかったら、教えてあげるよ?」
にこりと微笑まれ、詩子はそっと手の中のシロ豆を見せる。
「この豆、上手に煮えなかったから。言われたように、前の夜に水につけて、水からゆっくり火にかけたけど」
「え?どれどれ。……あんた、いつもこの豆を食べているのかい?」
「ううん、初めて。すごく安かったから、買ったんだけど、硬くて。美味しく煮えなかった。オレーナさんに聞いたら、そんなに難しくないって言ったんだけどなぁ」
その女は、シロ豆を詩子の手から、つまみ、じっと見つめる。
「あんた、名前、ウタコっていうんだったよね?」
「え、はい、そ、そうです」
穏やかに見えた瞳が一瞬、どう猛な光を宿したように感じ、詩子は無意識に言葉を改めた。
「あんたは、ランサ家にどういったわけで、入ったんだったかい?その、主人は厳しい人か?」
「えっと、シンセントさんにはよくしてもらっています。私は行く当てがないから、こうして、仕事をさせてもらっていて、ほんとに助かってるんです」
「そうかい、下働きだったんだね。私はてっきり、お嫁さんでももらったのかと思ってたよ」
「お、お嫁さんだなんて!とんでもない。わたしみたいな得体の知れない!」
「得体の知れないなんて、言うもんじゃないよ。それからね、このシロ豆、とても質が悪い。小さいし、虫が食ってるものもあるし、変色してるものもある。なかなか、うまく煮えないかもしれないな。炒ってみたほうがいいかもしれない」
「そっか、ありがとうございます。えっと」
その女の人の名前を知らないことに詩子は気づき、じっと見つめる。
「あぁ、私はキ、キイリって言うんだよ。また、声をかけてくれていいからね」
さきほど、一瞬感じたどう猛さなど、微塵も感じさせない穏やかな微笑をキイリは見せる。
それじゃあと、キイリは踵を返す。
あのバカと小さくつぶやいたことを、詩子は知らない。
気候は寒さの厳しいころを迎えていたが、詩子は穏やかに暮らしていた。
シンセントは相変わらず、忙しそうにしており、不在がちであったが、詩子に「何か困っていることはないか。必要なものはないか」と気にかけてくれていた。
また、近所の人たちとの交流が詩子を和ませていた。彼女たちのたわいもないおしゃべりを聞いているのはとても楽しかった。
近所の誰かの痴話げんかや、主人の悪口、そして、自身の失敗を面白おかしく語り、いつも笑顔があった。
詩子は髪をまとめ、適当な布を巻きつけて、黒髪をわかりにくくしていたし、手元に視線を落としていれば、瞳の色も指摘されることはなかった。
寒さは徐々に緩み、雪も積もることなく、少しづつその嵩を減らしていっていた。
小道から見える庭木の枝に小さな赤い花が咲いているのを見つけた時は、頬が緩んだ。
詩子の家の庭先にあったのは、白い梅であった。みかけたその花は梅よりも一回り大きく、その芳香も強かった。しかし、寒風の中、黒味の強い枝に縫い止められたように咲く様子は、詩子の知る花とよく似ていた。
その花をじっと見ていると、オレーナが話しかけてきた。
「ウタ、きれいに咲いたね。もう春はすぐそこだよ」
「ほんとだね。いい匂い」
「この花の匂いを嗅ぐと、もうすぐ春だなぁって思うよ」
この世界で春を迎えたことのない詩子はうなずくことができない。
返事をしない詩子を気にすることなく、オレーナはそうだと、何かを思いついたように詩子を見つめる。
「そういやぁ、ランサ家の坊ちゃんの結婚が決まったそうじゃないか。おめでたいねぇ。あんた、もう会ったのかい?」
「え。」
「なんでも、とびきりの別嬪らしいじゃないか。ほら、王城のすぐそばにある、ランサ家のお屋敷に来て、ご当主に挨拶をしたらしいよ。春に成婚の儀式をするのかい?」
「いや、私は何も、聞いてないから……」
詩子はどんな顔をしていいのかわからずに、オレーナに適当に返事をして、その場を離れた。それから、どうして屋敷に戻って来たのか、よく覚えていない。
ぼんやりとかまどの前に座り込み、気が付いた時には辺りは真っ暗になっていた。
そしてとても、寒かった。手はかじかんでうまく動かすことが出来す、なかなか火を熾こせない。
なんとか湯を沸かし、茶碗にそそぐ、茶碗を手のひらで包み込むようにして、手を温め、その湯を口に運んだ。温かな湯は口から喉を通り、お腹に落ちる。
何を思っていたのだろう。何を期待していたのだろう。そんなことあるはずがないのに。
詩子はここではない世界からやってきた得体の知れない者で、言葉も不自由で、こちらの常識もわからない。すでに滅んだとされる黒目黒髪を持つ。そんな詩子がシンセントのそばにいつまでもいられるわけがない。
こころのどこかで、期待していた。もしかしたら、ほんとうにわずかではあるが、シンセントの隣に立つのは自分かもしれないと思っていた。
鼻の奥がつんと痛み、涙がにじんだ。誰もいない屋敷で、静かな炊事場に詩子のすすり泣く声だけが、妙に大きく響く。
今だけ、今日だけ、泣いたら、もう明日からは泣かない。
長衣の裾を握って、袖で涙をぬぐう。
見上げた窓の隙間から、青白い香月が小さく丸く、輝いているのが見えた。
日差しは温かさをはらみ、朝晩は変わらずに冷えるけれど、日中は冬の終わりを感じさせていた。
詩子は洗い終えた洗濯物を手にして、外に出た。
「ウタ」
突然かけられた声に詩子は飛び上がる。人懐っこい笑みを浮かべているのは、アミヒだった。
「アミヒ!!」
慌てて柵に駆け寄り、その戸を開ける。アミヒは不用心な詩子に苦く笑う。
「ウタ、そんなに簡単にいれちゃって大丈夫なの?」
「え?大丈夫だよ!だってアミヒだもん。久しぶりだね、無事だったんだ、ほんとうによかった」
アリアロレスのヤフィルタから受けた傷は浅くはなかっただろう。死んだとは思いたくなかったが、こうして、立って歩いているアミヒを前にすると心からほっとして、少し涙がにじんでくる。
「あの時は助けに来てくれてありがとう」
思いはその時にきちんと言葉にしなくては、言えなくなること、詩子は知っている。
「助けられなかったのに?」
「うん、うれしかったから。ここがよくわかったね。いつ王都に来たの?」
詩子はアミヒを炊事場に通し、茶を沸かす。
「もう、何日か前だよ。詩子の居場所はなかなかわからなかったから」
「探してくれていたの?」
「そうだよ。ランサ家のぼっちゃんが可愛らしい男の子と住んでるって聞いたから、すぐにわかったよ」
「えぇ!!」
詩子は手にしていた湯を危うく、アミヒにかけてしまいそうになった。
「おわ!」
叫び声をあげて、アミヒは熱湯をさけて、小さく飛び上がる。
「な、なんでそんなことになってるのよ!」
男装しているとそのような弊害があることに、気が付かなかった。シンセントの迷惑になっていないだろうか。詩子は心配になったが、アミヒは笑って、大丈夫だよと言う。
詩子はアミヒに茶を入れた椀を渡す、ほんの少し甘みのあるすっきりとした味わいのお茶を詩子は気に入っていた。
美味しいねとアミヒは微笑むが、詩子にはわからないことがあった。
「ねぇ、アミヒ。どうして私を助けてくれたの?どうして私を探していたの?」
「パロルアロトルナーレ」
アミヒは詩子を見つめた。しかし、詩子には何のことかわからない。
「なに?」
「とても、古い言葉なんだって。その言葉はピリカが詩子に送った言葉だ。これは感謝の意を表す。この言葉をおくられた者をピリカの一族は善意を尽くす。その者を助け、守るんだ」
俺もピリカの一族だからねと、言ったアミヒは少し悲しそうだった。
誰からも認められることのなかったアミヒとピリカ。それでも、ピリカの意志を継いで、アミヒは詩子を守るという。その思いを拒むことは詩子にはできなかった。
「ありがとう」
そう言って笑うしかなかった。
「ウタ。一緒にピリカの故郷に行かないか?ピリカのパロルアロトルナーレだから」
「え」
「今すぐ返事がほしいわけじゃないんだ。まだ、モラガイン山は通れる状況じゃないし。春になったら、一緒に行ってほしい。……きっと、ピリカは戻りたいと思っている。とても家族を大事にしていたんだ。それでも、無理を言って連れだしてしまって、仲違いさせたままなのが、俺がつらくて。」
アミヒはすっと、手巾を懐から出して、手のひらにのせる。
その手巾に包んであったのは、薄茶の髪だ。
「ピリカの髪なんだ。この髪を家族に渡したいんだ。きちんと亡くなった事実を伝えに行こうと思ってる。きっと怒ってるだろうから、殴られたりするんだろうな」
悲しそうにアミヒは笑った。
今にも涙をこぼしそうなアミヒに、ピリカを思い出す。
ピリカとはあまり会話は出来なかった。
詩子が言葉を話せなかったこともあり、また、日々の暮らしは厳しく、炊事と洗濯だけでなく、篭をいつも熱心に編んでいた。そんな、ピリカと一緒に、詩子も必死に作業をしていた。
しかし、ピリカには悲壮感はなく、鼻歌まじりで、いつだって微笑を浮かべていた。
ピリカの故郷。それはどんなところなのだろうか。
その思いを音にはしなかったが、アミヒには聞こえたのだろうか、アミヒは詩子の思いに応えるように、話す。
「ピリカの故郷はね、広大な草原が、遥かかなたまで、続いている。その地平線が見えるんだ。北のほうには山脈が連なっているけど、本当に何もないんだ。何もないっていうとピリカはそんなことないわって笑っていたけど、広大な、草原が広がっている。山で育った俺には、風の吹き方も、日の射し方も違ってて。その匂いも、色もすべてが……」
アミヒの思いは言葉にはならなかった。遠くを見つめ、ピリカへの思いをかみしめているようだった。
詩子はアミヒの誘いに、すぐに返事をすることができなかった。
行きたいとも、行けないとも、言えなかった。
「返事はいつでもいいから」
そんな詩子にアミヒは微笑む。
春はもうすぐそこまで来ている。
日増しに日差しは暖かくなり、草花もほころんでいく。
詩子はシンセントにあのことを聞けないでいた。
――結婚するって本当ですか?
――私はここにいていいのですか?
しかし、シンセントが結婚して、その相手の女の人と仲睦まじく過ごす様子を下働きとして、見ていることは出来そうになかった。
かといって、出て行って、行く当てはあるのかと言えば、ないのだった。
シンセントに頼るしかない、この身の上がひどく、つらい。
詩子の思いをわかっているのか、アミヒはにこりと笑い、獣人の里の様子などを話せて聞かせる。カロ婆はすぐに回復し、また旅に出ていること。ヤギは元気に育っていること、リオルルは元気にしていること。
アミヒと詩子は庭の軒先に腰を下ろし、沸かした茶を片手に、話し込んでいた。




