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24、その国の行方

 荘厳で静謐な空気に包まれている広間は無残に崩壊し、今まさに青龍の宮の長の手による攻撃にさらされていた。

 蒼王に向かって放たれた呪術は、宮の長の強大な呪力のため、ほかの誰も防ぐことはできない。


 呆然と立ち尽くしていた人々は逃げまどい、叫び声が上がる。


 その攻撃に怯むことのない者が勢いよく、広間に飛び込んできたことに気が付いた者はいない。


「蒼王様!」

 蒼王を庇い、続いて放たれた攻撃を素早く結界を張って防いだのは、キーレンの腹心であるサラスイであった。

 その肩を揺らし、息を切らせている。

「キーレン!馬鹿!やめろ!」

 二人きりの時のような言葉が出た。


 間に合ったという安堵と、青龍の宮の長であるキーレンと言う強大な呪術師と対峙する緊張感から、サラスイはいつものような慇懃な言葉で話すことができない。



「なぜ、ここに?」

 キーレンはサラスイの姿をみて、信じられないといわんばかりに目を見開く。


「間に合うわけがないとでも思っていたか?俺は追い払ったはずだったか?」

「……」

 キーレンの表情から微笑が抜け落ちる。


「キーレン、やめろ。その娘を離せ」

「うるさい!もう、後戻りなど、できはしない」

 キーレンの手から繰り出される攻撃は、衰えることなく、次々に蒼王を襲う。

 しかし、その攻撃はすべて、サラスイの結界に阻まれる。


「キーレン、王都の結界を維持しながら、その攻撃をどれくらい続けられると思っているんだ?もうやめろ。お前の魂胆など見えている」

「……」

 キーレンは一瞬、顔をしかめて、振り払うようにぎゅっと瞳を閉じる。


「キーレン」

 その声は長く二人で歩んできたあの日々を思い起させた。


 父の友人であるサラスイと長く二人きりで旅をした。師であり、友人であり、ともにこの魑魅魍魎の跋扈する王城で戦ってきた戦友でもある。


 その声にキーレンは攻撃の手を止める。呪力の消耗は激しい、キーレンの肩は揺れ、その顔色は蒼白だ。

「キーレン、娘を離せ」


「うるさい!誰に口をきいている!」

 締め上げていた手をさらに強め、その痛みに詩子はもがく、そして、顔をあげる。

 詩子の黒い髪がさらさらとこぼれ、黒い瞳が涙にぬれていた。


 キーレンの手が詩子の首元に添えられる。

「もう、おしまいだ。サラスイ」

「い、いや!助けて!」

 ばたばたと詩子はもがくけれど、腕は変わらずに強く拘束されており、逃れることは出来ない。キーレンの冷たい手が詩子の細い首を掴む。


「シ、シンセントさん!」


 詩子は力の限り叫ぶ、その声は決して大きくはなく、崩落の続く広間で耳に届いた者は少ない。


 首はキリキリと締められ、詩子の表情は苦痛にゆがむ。

 詩子の視界がかすみ、意識が遠のいていく。


 その時、瞳に飛び込んできたのは、何度も何度も、瞼に浮かんだ紫紺。


 ――あぁ、シンセントさん


 キーレンの背後から、シンセントはその太刀を振う。

 驚くことなく、キーレンは素早く、詩子から手を離し、その攻撃を易々とかわす。


 突然、緩んだ首元は詩子の肺に思い切り、空気を流し込む。詩子は激しくむせこんだ。

 肩の締め付けからも同時に解放される。

 床に崩れ落ちた詩子は少しも動くことができない。

 しかし、床の冷たさを頬に感じた次の瞬間にふわりと体が宙に浮き、たくましい背に乗せられた。

 わずかに香る柑橘。広い背に詩子は頬を寄せる。

「シ、シンセントさん・・・…」

「ウタ、大丈夫か?」

 シンセントの声に詩子は心から安堵する、会いたかった、その声を聴きたかった。

 その思いは言葉にならず、涙となってあふれる。



 ヤフィルタの攻撃と、キーレンの度重なる攻撃によって、広間の崩落はとどまることなく、いたるところで瓦解している。

「フフフ、もう何もかもおしまいだ」

 キーレンの不敵な笑みだけが、奇妙に響き、誰も動くことができずにいた。


「キーレン」

 蒼王はふうわりと場違いな微笑を浮かべる。

 瓦礫を避けながら、ゆっくりとキーレンに向かって歩みを進める。


「蒼王様、お待ちください!」

 サラスイの制止にも、ひらりと手をあげるのみで、蒼王は何も言わず、足を止めることもない。

 さらりと蒼い長衣をゆらす。それはこの国の王族と、青龍の宮の長にのみ許される長衣。

 蒼王の身につける長衣は深い海に差し込む光のような透明感のある蒼であり、細かな刺繍が銀糸でほどこされ、ところどころに玉が縫い止められていて、歩みに合わせてきらきらと光る。それは、どの長衣よりも豪奢で美しいものだ。


 騒然としたはずの広間は奇妙な静かさに包まれていく、その様子を誰もが固唾をのんで見守ることしかできない。

 キーレンでさえ、蒼王をじっと見つめるばかりだ。


 その長衣を蒼王はそっと脱ぐ。小気味よい絹の滑る音が響く。

「キーレン、私は愚かではない。そなたの思い十分に承知している」

 蒼王は豪奢な蒼い長衣をそっと、キーレンの肩にかける。


「そ、蒼王様」

 キーレンは凡庸な薄茶の瞳を大きく見開き、目の前の蒼王を見つめることしかできない。


「このような茶番は不要だ。誰もがおかしいと感じている。そなたが青龍の宮の長に就いてからの年月は決して短くはない。そなたの思いに気が付かぬほど、愚かであると思っておったのか?苦楽をともにしたサラスイも、ここにいる官たちも、もちろん私自身も、この国のために尽力してきたそなたを見ておる。そなたの覚悟は十分に届いておる」

 蒼王はその蒼い瞳をそっと閉じる。そして、ゆっくりと開き、キーレンをまっすぐに見つめた。その瞳はいつになく、温かさをにじませていた。


「……悪者に転じて、舞台から降りようなど、卑怯ではないか。このような大掛かりなことをせずとも、私を弑すことなど簡単であろう?なぁ、キーレンよ。そなたの呪術をもってすれば、私の頸をへし折ることなど、息をするより簡単なことであろう?」

 豪奢な長衣を脱いだ蒼王の腰には優美な装飾を施された長刀を佩いている。


 金や玉で彩られていながらも、その刀身は技術の粋を集めたものであり、見事な切れ味であることを知っている者は少ない。

 その柄に蒼王は手をかけ、まるで剣舞のようにくるりと回って、抜きはらう。


 それは一瞬のことであり、その場にいた誰もが、目を離すことも、動くことも、声を上げることさえもできなかった。

 美しく、儀式めいた蒼王の刀身はきらりと光り、振りかざした長刀は刀鳴りをあげて、リマムの胸に吸い込まれていく。

「――ッ!!」

 誰もが言葉を発することなく、息を飲む。

 蒼王の体に、赤い血が勢いよく飛び、ぽつぽつと染みを作る。


 あまりのことに斬りつけられたリマムも声を発することができず、衝撃に目を見開いたまま、その場にゆっくりと崩れ落ちた。

 その場にいた誰かの悲鳴が大きく響き、我に返ったようにざわめいた。


 しかし、蒼王はほのかに紅潮した頬を緩めている。その表情は重責から逃れることの安堵を含んでいた。


「もう、いいのだ。何もできず、飾りのように玉座にいることに私自身が飽いていた。そんな私が今さら、政などできはしない。キーレンの思いに報いることなど、できはしない。その価値が私にはない。……月の乙女よ。そなたは申したな、なぜ私なのかと?私が何をしたのかと?同じことよ。なぜ、私であろうかと、いつも思っていた。私が王である必要などありはしない。蒼い瞳をしていれば誰でもいいのだ。呪力がいらぬなら、私の価値はない。呪力に頼らない政を行うにあたって私は最早、火種でしかない」

 蒼王の手にした刀身からは、リマムを斬りつけた赤い血が、ぽたりぽたりと床を濡らしていた。


「そ、蒼王様、そのようなこと……」

 顔面蒼白のキーレンは頬を濡らしている。


 その瞳が涙にぬれることがあることを見た者はいない。その首を振り、蒼王の言葉を否定することしかできない。すでに呪力は使い果たしており、立っているのもやっとであった。これから起こるであろうことを止めるために、呪術を新たに成すことができない自分をこれほどに悔いたことはない。


「おやめくださいませ……」

 キーレンが手を伸ばしたが、蒼王はそっと身を引き、微笑を浮かべた。


「そなたが、青龍の宮の長であることを、喜ばしく思う。私を解放してくれ、そなたであるからこそ、任せられるのだ。キーレン!」

 刀身が煌めき、その身にこびりついた血をまきながら、蒼王自ら、その頸の血管を断ち切った。


 高く血飛沫が上がり、崩落の続く広間を赤く染める。



「はぁっ!!!」

 キーレンが蒼王に駆け寄り、呪力の残渣をかき集め、呪術を成そうと試みるも、その身の内に呪力を感じることができなかった。


「サラスイ!!早く、こっちに来い」

 自らの体に血を浴びながら、大きく切り離された首を両手で抑え、キーレンは必死に腹心の名を呼ぶ。


「蒼王様ぁ!」


 キーレンは王の名を呼び続ける。

 駆け寄るサラスイからも呪力は消え、呪術を成すことは出来ない。


 広間にいた誰もが、身の内に呪力を感じることができなくなっていた。

 これの意味することがわからない呪術師はいない。



 ――蒼王、崩御









 蒼い長衣を赤く濡らし、取り乱す青龍の宮の長を抱きかかえ、崩落の続く広間から助け出したサラスイは大きく息を吐く。

 蒼王が自害し、この国は大きく揺らぐだろう。呪力が失われたという影響は計り知れない。青龍に宮のあり方も変わらざるを得ないだろう。

 語り継がれるこの国の根底を揺るがしたのだ。間違いなくこの国は変わっていく、変わらざるを得ない。

 そして、この蒼国の変換期を乗り切ることができるのは、キーレンしかいない。


 この国を支えるために彼女が手放したものは多い。


 ――なぜ、私なのか?私が何をしたというのか?


 蒼国の一人の民として生きることを許されなかった。

 父と離れ、家庭を持つことも、誰かに思慕を寄せることもかなわず、子供を持つことも許されない。

 この国のためだけに生きていたのは、キーレンだ。

 その言葉は、キーレンが口にして当然のものであり、しかし、キーレンが切り離したものだ。


 身を清められ、昏々と眠るキーレンをサラスイはそっと見つめる。

 あどけない少女は凛とした女性になり、精根を使い果たした中年の彼女はひどく弱々しい。


 彼女に課せられたものの大きさに、ため息を吐く者がいても、いいとサラスイは思う。

 キーレンは決して、ため息を吐いたりすることはないのだから。










 あの場に居合わせた者は皮肉なことに、政の重責を担う者ばかりだった。

 蒼王の意志、そしてその結末を自分の意に沿う様にひるがえすことなど、誰にもできなかった。

 キーレンでさえも、できなかった。


 壁にかけられた事実上、身の丈に合わない蒼い長衣をキーレンはそっと、指でなぞる。

 その様子をサラスイは見ているしかなかった。

「キーレン……」

 その名に敬称をつけることなく呼ぶのは二人きりの時だけだ。そして、その名を呼んでも、続く言葉をサラスイは見つけることができなった。


「官を呼んでくれ、状況を整理する。そして、しかるべき方法で民に知らせる。まぁ、ありのままというわけにはいくまい。多かれ少なかれ、情報は操作せねばならないな。……こうやって、事実はねじ曲がっていくんだな。歴史は都合のいいように出来上がるというのは、本当のことだ」

 振り返りサラスイに向き合ったキーレンはまっすぐに顔をあげている。


 泣いて嘆いているような時間はない、彼女の肩にこの国の未来がのっていることを、彼女自身が一番よくわかっている。

 サラスイは青にも赤にも見える目を少し細め、キーレンを見つめ返してから、深く頭を下げる。


「キーレン様、サラスイ・アルタント、この身が朽ち果てるまであなたと供に。生涯、あなたに忠誠を誓い、付き従うことをお許しくださいませ」

「馬鹿なことを言うな」

「お許しくださいませ」

「わかった。許そう。……サラスイ、わかっているのだろう。この国は政で揺らいでいる場合ではない。大きな変化がこの世界を揺るがそうとしている。早急に手を打たねばならない」

 キーレンは、多量の政務をこなし、やつれた青白い顔をわずかに緩ませる。

 この国の行く先を見つめる目は、やつれていながらも、鋭く光っていた。



 数年前から続く気候の変化は、食糧事情に大きな打撃を与えている。続く冷夏、降り続く雨は民の暮らしを圧迫している。

 呪力による政の影響もあって、この蒼国に残されている記録に正確なものは少ない。しかし、その変化は数年前から徐々に表れており、ここ最近の気候の変化は、目を見張るものがある。

 その原因と呼べるものがあるのかすら、わからなかった。

 キーレンは以前より実行できなかったことをこの混乱に乗じて成すべきと考えている。それはサラスイも十分に承知していた。

「サラスイ、もうやむをえないな?これはこの蒼国だけの問題ではあるまい」

「おそらく」

「まずは、金国だな。人選はサラスイに任せる」

「はい」

 この世界の大陸の東に蒼国は位置する。そして、北にモラガイン山脈を有し、東は海、西と南は深い渓谷がよこたわり、他国との交通は容易ではない。その立地条件がこの国を孤立させている。

 モラガイン山脈の一部が、隣国である金国に接しており、ごく一部の商人と、旅芸人たちが行き来している。


 キーレンがそのことを知っているのは、幼少期にサラスイとともに、諸国を旅したことがあるからだった。その旅でキーレンは多くのことを学んだ。この蒼国から、王都から出ることがなければ、知りえなかったたくさんのことをキーレンはその旅で得たのだ。

 そして、青龍の宮の長として、この国に仕え、たくさんの矛盾と、妄執にとらわれた、頭の固い官たちと戦ってきた。他国を知らない者たちに何を言っても、理解されなかった。この国の常識が他国では常識でないことをどんなに言葉を尽くしても理解されない、鼻で笑われ、時には蒼国を冒涜していると、命を狙われることもあった。


 閉ざされた蒼国である必要はない。


 他国の状況を知ることでわかることも、できることもあるだろう。

 キーレンは苦楽を共にしたサラスイを見やる、その顔にはここ最近の慌ただしさを物語るような疲れがにじんでいて、もう老年を呼んでも差し支えのないしわが刻まれていた。

「老けたな」

「……お互いな」

 サラスイと気ままに旅をしていたあの頃のような、微笑をキーレンは久しぶりに頬にのせた。


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