20、呪術師と獣人
ガタガタと強い風に戸板が揺れ、囲炉裏の火もわずかに揺らめく。
その火の揺らめきが、サラスイにの瞳に映り込み、そのためらいや、苦悩が見えるようだった。
それらを抑え込むように、大きく息を吐くと、サラスイは語り始める。
「ナラティス様は、呪力は歴代の呪術師に及ばなかったことは、みなも承知だと思うが、あの方は勤勉でおられ、様々なことを書き留めている。また、地方の諸事についても、事細かに記録を残されている。その記録は多岐に及び、口伝が主であった様々なものも、ナラティス様は書面での報告を課せられた。そのナラティス様の蔵書は膨大な量になっている。そして、その中の一つに、『月の乙女』という記録が残されている。これはナラティス様の見通しの術の記録の中にあり、『この国の激動の機に関わる』という。それをアリアロレスが知ったのであろう。そして、『月の乙女』と思わしき娘を連れて、王都に向かっている。そういうことであろう?その取り戻したかった娘は『月の乙女』としてアリアロレスに渡された。違うか?」
「サラスイさん、よくわかったわね」
ランは驚きを隠せない。
「アリアロレスが娘をほしがることなど、ありえないからな」
「どうしてそれが、王都に火急に戻る理由になるのです?」
シンセントの疑問は当然であった。
みな、一様にサラスイの言葉を待つ。
「……キーレンはこの国を根底から覆そうとしている」
「?」
シンセントはサラスイの顔を見つめたまま、言葉をさらに待った。
「この国の歴史において、実質、政の実権を握っているのは、青龍の宮なのだ。武官の長はもちろん、文官もみな、呪術師であったり、青龍の宮の長に同調している。官はみな、青龍の宮の配下を言っても問題ない」
「蒼王が傀儡だってことだろう?そんなこと、誰だってわかっているさ」
サラスイが言いよどんだことを、アルセイはさらりと言葉にした。
「それを、王に実権を渡そうとしているのだ」
サラスイは顔をあげることなく、手元に目をおとしたまま言葉を発する。
「馬鹿なことを!王城の中は呪力にまみれ、呪力を持たぬものは、力を持たぬことと同義。軽んじられているのだろう?王に実権を渡す?そんなことができるわけがない。そうしたところで、何の意味がある?今さら王が実権を持つことに何の意味がある?」
アルセイは吐き捨てるように言う。
「まぁ、そうなのかもしれない。市井に暮らす者にとって、呪力の存在は遠い。……おそらく市井に急激な影響は及ばないだろう。キーレンがそうしているからな。」
「どういうことなのですか?」
会話の内容を掴みきれないシンセントはうつむいたままのサラスイに問う。
サラスイは、大きく息を吐き、ゆっくりと顔をあげて、シンセントをそっと見つめた。
「シンセント、この頃、王都に戻ったか?」
「いえ、この二年、戻っておりません」
「特異な呪術を使う者はことごとく、更迭された」
「は?」
「政に、呪術が必要のないように整えられ、呪術に頼る者や、呪術を乱用する者はもういない。キーレンにとって、この国の政に呪力は必要としないよう整えられた。……ランサ家の呪術師である、お前が王都を出されたことも、その一環であろう」
「……サラスイ様、キーレン様が蒼王に実権を還そうとされていることは、わかりました。しかし、それに何の問題があるのですか?」
シンセントにはやはり、サラスイの思いはつかみきれない。
二年に及ぶ旅を経て、シンセントの思いも変わった。
旅に出る前のシンセントであったら、呪力なくして、政が行われることを不可能と言っただろう。警備の面でも、呪術を使用することが多く、結界を張ることもなく、先読みをすることなく、王城を守ることは不可能だと思ったであろう。
しかし、シンセントは旅を経て、王都以外の街では、呪術師を見かけることもなく、呪術師を頼る生活をしている者もいない。ほとんどの民が呪術すら目にしたことがないことを知った。呪術を使うことなく、街を守り、民を守っている衛士たちを知っている。術ではなく、自身の技術を磨くことで、補えることであることを知っている。
そして、青龍の宮の長が整えたと言い、目の前のサラスイが市井に影響はないと言う。だからこそ、呪力を持たない蒼王自身が実権を持つことは不可能でないと、シンセントは感じた。
「シンセントさん、権力というのは甘いんだ。あんたが思うより、人は貪欲で、自分さえよければいいと思っているんだ。呪力を持ち、政の中心にいて、様々な特権を持ち、優遇されている者たちが、易々とその地位を明け渡すと思うか?サラスイも言っただろう。『キーレンにとって』と。その意味は、キーレン以外の者は、そう思っていないということだ。今まで、手輿にしか乗ったことのない人に、明日から歩けと言って、納得すると思うか?」
その通りなのかもしてない。
シンセントは権力というものに興味はなかったが、ランサ家とのつながりを欲した者にしつこくかかわりを求められることは多々あった。
権力のある者に取り入り、優遇されたいと思う者は多いのだろう。反対するものも多いことが予想された。
シンセントはサラスイが自身を見ていることに気付き、サラスイの言葉を待った。
「キーレンは、自身の呪力を天に還す気なんだ」
「……!」
シンセントは文字通り、言葉を失った。
サラスイはかまわずに、言葉をつなげた。
「青龍の宮の権力は、すなわち呪力。それを天に還す。そして、蒼王が政の中心になり、もう今後、呪術師との誓約は行われることはないだろう。蒼い瞳を持つ子が秘されることもない」
「そ、そんな」
「次の青龍の宮の長ってやつが出てきて、同じことだろう?」
アルセイはまた、吐き捨てるようにつぶやき、サラスイの思うようにはならないという。
「……神の、神の意志だ。この国のためにならない時には、呪力は失われる。そうであろう?その者の自らを青龍の宮の長と名乗る者が、この国にふさわしければ、その者が青龍の宮を束ねることになろう。しかし、それがこの国のためにならぬ場合、その者の呪力は失われるのだ」
この国において、幼子でも知る理。
この国のために呪術師はある。
この国のために呪術を使わなければ、呪力は失われる。
呪力という力を、呪術師という存在の是非を青龍の宮の長は、改めて、神に問うというのだ。
シンセントは青龍の宮の長が呪力を還すことで、青龍の宮の呪術で張られている結界の多くが失われることに気付き、起こる混乱を簡単に想像できた。王城だけでない、王都には大きな結界が張られている。その結界は獣人を排するだけでなく、疫病や災害からも守っている。
宮の長の存在が街の有力者の抑止力となっていることも、シンセントは知っていた。その抑えなくして、民の暮らしが守れるというのだろうか。
「そ、そのようなことをして、この国はどうなるというのです!」
サラスイにつかみかかりそうになるのを、寸前で堪え、声を上げる。
「政が荒れれば、この国の弱き者たちが困窮するというのに。そんな簡単なこともわからないのか」
そのシンセントの声にアルセイは同調する。
「何度も言ったのだ、やめろと、もっと、何かあるはずだと。でも、あいつは、神が采配すると言うんだ、そんなもの欠片も信じていないくせに。すべてを壊そうとする。……あんまり気の長いほうじゃない。私がここに来るのを、王城を離れるのを待っていたんだ」
サラスイは焦燥をあらわに、今すぐにでも旅立とうと、再度、腰を浮かせた。
その時、風の気配とともに、何者かが、この小屋に向かっていることにシンセントは気づく。
シンセントが戸口を見つめると、その気配に気が付いたアルセイはあのバカがっ!と立ち上がる。
勢いよく戸が開き、転がるように入ってきたのは、薄茶の狼だった。
ごく一般的な狼よりずいぶんと大きい、また、その体は引き締まった筋肉に覆われているのが被毛の上からでもうかがえた。目は力強く光を宿し、ハァハァと息をする口元には、鋭い歯が並んでいる。長く駆けてきたのであろう、体から湯気を立ち上らせ、その湯気は殺気のような怒気を含んでいた。
「もう、何やってんだ」
アルセイは開け放ったままの戸を閉め、ランは奥から大きな敷物を引っ張り出し、その狼にかぶせる。
すると一瞬、その狼の輪郭がぼやけ、伸びたように見えたが、次の瞬間にはその姿は縮み、一人の青年が四つん這いになっていた。
「アミヒ!おとなしく寝てろって言っただろ」
アルセイはその背を蹴り飛ばす。小さなうめき声をあげて、ばたりと倒れ込んでしまった。
シンセントは驚きに、目をしばたたかせた。
獣人は獣の姿にもなれる人であるとまざまざと見せつけられ、声を失う。
何度も何人もがそう言っていたが、知っていたがわかっていなかった。
――これが獣人
その横たわる青年からシンセントは目を離すことができなかった。
「シンセント、彼は獣人で、今、人に戻ったんだが、その全裸なんだ。あまり見つめては失礼になる」
「珍しいのはわかるが、ちょっとの間、目をそらしてもらってもいいか?」
「は、申し訳ない」
「なんだ、あんた、男に興味があるんじゃろ!」
「もう、カロ婆、失礼よ」
「おい、アミヒ。さっさと服を着ろ。そして、寝てろ!」
毛布の下でうずくまっているアミヒをアルセイはもう一度、蹴り飛ばす、うっと小さなうめき声が上がる。
「お、お願いだ。ミミンを呼んでくれ」
息を切らせ、肩で息をするアミヒは、すがるようにアルセイを見つめる。
「だから、ダメだって言ってるだろう?そんな体で無理をしてどうする。それに何度やっても結果は同じだろう」
「だめだ、守るって約束した。里のために、レイのためにあの願いを聞いて、俺はひいた。たけど、もう、義理は果たした。俺は助ける」
「ミミンを呼んでどうするんじゃ?あいつは一筋縄じゃいかぬ」
カロロンは面白そうに、アミヒに声をかける。
「王都まで連れて行ってもらう。街道も山道も今夜の雪で通れなくなるけど、行かなきゃ。ミミンなら王都まできっと連れて行ってくれる」
「何を根拠に言う?何を対価に差し出す?ミミンはお願いしてかなえてくれるような相手ではないんじゃ」
「わかってる、でもミミンに頼るしかないよ」
外は雪が舞っている。この季節の雪はもう地に落ちれば溶けることはない。外が明るくなるころには街道は雪に埋まり、通ることは難しいであろう。
ここより南の王都へと続く街道はまだ、雪に埋もれてはいないだろうが、そこにたどり着くことはもう、不可能であることをここいる誰もが気づいている。
そして、ミミンが王都への道のりを可能にしてくれるとは、限らないのだ。
王都にたどり着く方法が何もないことは、明らかであった。
「それでも、それでも俺はウタを助けに行かないと!」
アミヒの悲鳴のような嘆きが小さな小屋に響く。
「ウ、ウタ?」
アミヒの声に、その姿をシンセントはじっと見詰める。
その薄茶の髪、筋肉質でありながらも、大きくはない肉付き。それはウタとともに去っていった、獣人のものであった。
「あの時の。お前はあの時の獣人か?ウタはどこだ?ウタはどうした?」
「……あんた、ウタと一緒にいた呪術師だな」
「お前、もしかして、今、話になっていたアリアロレスに行った娘というのは、ウタのことか?」
「……」
アミヒはその問いに答えることが苦しく、顔をあげることができない。
「ウタはアリアロレスに囚われたというのか?」
シンセントの声は震えて、隠すことができないほど、ひどく動揺していた。
アリアロレスに連れていかれた娘のことを『ひどいことにはなっていない』そうだれかが話していたが、その根拠がどこにもないことをシンセントはわかっていた。アリアロレスの存在は誰もが知るところではあるが、その実態を知る者は少ない、そのアリアロレスにウタが連れていかれたという。
獣人とともに行き、安息を得ていると、何の根拠もなく思っていた。そして、その姿をこの目で見たかった。何かをどうにかしたかったわけではなかった。ただ、ウタは安全で穏やかに暮らしていると、確認して、その笑顔を一目見るまでは、探し続けようと思っていた。
しかし、ウタはアリアロレスに連れていかれたという。
シンセントは赤茶の髪をもつ呪術師のヤフィルタを思い出す。辛みを含んだ呪術の香り、治ったはずの肩がシクシクと痛んだ。
シンセントは肩をぎゅっと抑え、立ち上がる。素早く外套を掴み、出ていこうとするところをサラスイに抑えられた。
「落ち着け、シンセント。私がいうのもおかしいが、お前ではこの雪道を進むことは出来ない。私が術の限りを尽くしても、王都には着くか、着かないか、ギリギリのところだ」
「サラスイ様、私はウタを助けたいのです。行かせてください」
「シンセント、なんとしても、王都に行かねばならないな」
場違いに、サラスイは微笑む。
「カロ婆、ミミンを呼んでくれ。あんたなら、ミミンを呼べるだろう?」
「……なんだい、呪術師が、気安くミミンなんて呼んで。まるで前から知ってるみたいじゃないか」
「知っている。昔、世話になったことがある」
サラスイは何かを懐かしむように微笑みを浮かべ、少し肩をすくめると困ったように眉を下げた。
そんなサラスイの様子を見たカロロンは、じっと考え込み、瞳を閉じていた。
「……わかったよ。お願いを聞いてくれるようなミミンじゃないことは、承知だね?それなりの対価を求められる。いいな」
カロロンは立ち上がり、その戸から外に出て、吹雪の中、空を見ている。
空は闇に包まれ、ごうごうと風が吹きつけ、雪が舞っている。
カロロンは髪が風に流されるのをそのままにして、じっとたたずんでいる。
そして、しわのある節くれだった指を口元に当てると、
ピーーっと高く澄んだ音が響いた。
それは谷間を吹き抜ける、風音に乗り遠くまで響き、吹雪の音にかき消される。
「さぁ、これでいい。ミミンは来る。ミミンを納得させられる対価があるなら、すぐにでも出立できる準備でもしておくんだな」
カロロンはゆっくりと入ってきて、そういうと、囲炉裏の火に手をかざす。
シンセントは信じられなかった。
外は吹雪、闇が覆っている。明りはない、そのカロロンの鳴らした指笛が遠くにまで聞こえたようには思えない。しかし、サラスイは納得した様子で、荷物をまとめている。ほかの者たちもミミンが来るということを疑っている様子はない。
いったい、ミミンとは何者なのだ。この雪の中、ここにきて、王都に向かう手段を提示できるというのだろうか。そして、青龍の宮の長の腹心と呼ばれるサラスイと知り合いであるという。
「サラスイ様、本当に今の指笛でミミンという者が来るのですか?」
「あぁ、来るだろう。シンセント、王都にいては見えないものがこの世界にはある」
シンセントは赤にも青にも見える不思議な瞳をもつ呪術師をじっと見つめる。その瞳には、確信がうかんでおり、大丈夫だ。そういうように小さくうなずいた。
シンセントは大きく息を吐く、囲炉裏の脇でカロロンは変わらずに、手を温め、その奥にはアミヒがうずくまっていた。アミヒは何度もうとうととしては、はっとして戸口を見ている。傷がひどく痛むのだろう、肩で息をして、表情は険しく、顔色はひどく悪い。
アミヒといったこの男が、先ほどまで、獣の姿をしていたことを今さらながらに思い出す。目の当たりにしても、信じられない。
獣人という種族について、自分がいかに無知であったことを、思い知らされた。
何代か前の蒼王の命で王都には獣人を排するための強固な結界が張られた。それ以降も、代々の青龍の宮の長によってその結界は保たれているため、獣人は入ることができない。
王都にいれば獣人とかかわることはなく、彼らを知ることも、知る必要もない。
ただ、知性も理性もない獣ではないことは、今はもう、シンセントはわかっている。
一見したところ、ただの青年である。少々小柄ではあるが、憂いに満ちた目も、不安げにゆがむ口元も、しきりに戸を気にしているのも、人と何ら変わらない。
その獣人はどのように暮らしているのかなど、気にかけたことはない。
アルセイはシンセントが獣人と関わっていることに、気が付いていないだけだという。今となっては、そうなのだろうと思う。相手が獣人ということは、シンセントが暮らしていくことに特に問題がなかったということだ。だから、獣人であることに気が付かなかった。相手が獣人か人かというより、どんな者であるかということなのだろう。
『何者か?』そう言った自分が愚かであることを、シンセントは今は知っている。
ひっそりと隠されていたあの里で、呪術師と供に住む、黒い瞳を持つユーリの話を偽りとは、思えなかった。ここではないどこかから、突然やってきたという。どんな理由があるのか、どんな原因があるのか、わからないという。彼らが嘘をつくことに何の意味もない。シンセントに偽りを語る理由がない。
だから、異界というものは存在し、ユーリも、ウタも、ここではない世界から、やってきたのだろう。
異界から来た、言葉も習慣もわからないウタ。この世界に来た状況も、意味も分からなかったウタに、何者であるのかという問いは答えようのないものだ。
ウタはウタでしかない。
ウタは今、どこでどうしているのだろうか。
この寒さに震えてはいないだろうか。
お腹を空かせてはいないだろうか。
触れた小さな手が、やわらかな髪が、ありありと思い出され、シンセントはかたく手を握った。




