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2、二つ月の来訪者

 

 風が梢を揺らし、サワサワと心地いい風が汗ばんだ頬を撫でていく。短く切りそろえた髪が頬をくすぐる。その短さにまだ、詩子は慣れていない。

 たくさんの虫の声がどこかしこから聞こえ、静かな森に確かな息使いを感じる。時折、小さな生き物が駆けていったのか、下生えが小さく鳴る。踏みしめる足元は柔らかな落ち葉、木の根が複雑に絡み合い、苔が蒸している。しかし、わずかにできている獣の道。そこを詩子は進んだ。不思議と怖さは感じなかった。この森を知っているかのような、既視感さえある。


 どこに向かっているのかはわからない。ただ、夢うつつに足を動かしていた。見上げる空には、星はなく、月が木々の葉の隙間から光を落としていた。いつしか耳に届いてきた川のせせらぎ。詩子は音のするほうへ足を進めた。

 月明かりに煌めく川面が見えた。ごつごつと岩ばかりの渓流だ。喉の渇きを覚えた詩子は、岩の上に乗り、身を乗り出して、川水をすくう。

 水は刺すように冷たく、透き通っていた。そっと口に含むとひやりと冷たく、喉を落ちていった。その冷たさに詩子は体がほてっていたことを知る。詩子は静謐な空気の満ちるこの森が少しも寒くないことに気が付いた。やはり夢なのだろうと思う、詩子の記憶では今はまだ夜の上着は欠かせない季節だったはずだ。ここはずいぶんと暖かい。

 ほうっと息を吐き、大きな岩に腰を下ろす。

 夜、なのだろう。詩子は正直なところ、わからなかった。確かに辺りは暗い。しかし、詩子の知っている夜とは明らかに異なる。今までに感じたことのない明るい月光に詩子は戸惑いを隠せない。

 ごろりと寝転ぶと、背中に硬い岩の感じ、顔をしかめる。ゆっくりと瞳を開けると、そこには仲良く並ぶ丸い月。

 月が二つ空にあった。

 一つは見慣れた黄色味を帯びた白い月、もう一つは青みを帯びた小さな月だ。

 詩子は目を閉じた。

 夢なら覚めるだろう。しかし、夢は覚める気配はない。つまずいて手をついたときに時に傷つけた手のひらがどんどん痛みを増してくる。

 その痛みはまるで、これが夢ではないと言っているかのようだった。



「ここはどこだ……?」

 呟いた声に応えてくれる者はない。

 やはりこれは夢だ。

 目を開けると、やはり二つの月。白い大きな満月に並ぶ青みの強い白い月は小さい。まるで、二つの月は寄り添い並ぶ、夫婦茶碗のようだ。

 見慣れない月を見上げるたびに、焦燥にかられ、じっとしていられない詩子は、歩き通しで痛む足をさすってから、ゆっくりと立ち上がる。


 足元はとてもじゃないが山歩きに適さない学校指定のローファー、ヒールが低く歩きやすいけれど、先週買ったばかりなので、泥がこびりつき岩にこすれて傷がつくたびに胸が痛い。そして、紺のブレザー、みどりのチェックのプリーツスカートは通いなれた学校のものではなく、来週から通うはずの高校の制服、こちらも枝に引っかかり鍵裂きを作るたびにため息がこぼれる。


 もう、何度見上げたかわからないが、もう一度見上げるとやはり、丸い月が仲良く、二つ昇っている。16年間生きてきて、空に月が二つあったことなどない。

 


   頭がくらくらするのは、歩き続けた疲労からか、二つ月がある世界への不安からか、まだ醒めない夢への戸惑いからか、もう詩子にはわからなかった。


   渓流の流れに沿って歩く。

 どこに向かえばいいのかわからず、この世界に自分以外の誰かが、何かがいるのかそれさえもわからない。このまま、力尽きて死んでしまうのだろうか。答えが見つけられないまま、足を動かし続けた。

 木々の隙間からきらめきが見える。そこに向かって、詩子は足を進める。

  パッと視界が開けた、そこには煌めく水面。

 空には眩しいほどの月が二つ、そして、その光を受けた水面はきらきらと、輝いて見える。そして、その湖面は、風を受けて、ゆらゆらと揺れ、幻想的な変化を見せる。

 詩子はこの美しさに言葉を失い、疲労感を忘れて、呆然と立ち尽くし、その景色に見入っていた。

  「はぁ、海?違う、湖か……」

 ため息とも、感嘆とも、取れる声が口からこぼれる。

 渓流に沿って歩くことができなくなった詩子は、美しい湖面をぼんやりと見つめたまま、崩れ落ちるように座り込み、そのまま立ち上がることができなくなってしまった。何かの根拠があるわけではなかったが、川の下流には、人が住んでいる気がした。

 詩子の目がおかしいために、月が二つ見えるだけ。そんな希望もないわけではなかった。

  「ここはどこなんだろう。私はどうなるんだろう」

 そのつぶやきも湖面を渡る風に乗って消え、柔らかな草地に横たわると、自然と瞼が下がってくる。詩子は意識が遠ざかっていくことに抗わなかった。


  ゆらゆらとまどろみの中に詩子はいた。

 風が頬を撫でる風に乗って、ガサガサと下草の揺れる音が聞こえ、そして、タッタッタと四足の生き物の足音が聞こえた。

 ハッハッハと刻まれる呼吸は、詩子にとってなじみのある、犬そのものの気配によく似ていた。

 犬がいるかもしれない。その思いがまどろむ詩子の意識を急に上昇させた。そう思って、目を開け、勢いよく体を起こすと、目の前が真っ暗になる。目を閉じて、手で頭を軽く支える。ゆっくりと目を開けると、前の景色がぼんやりと見えるようになってきた。

   そこには眉をひそめ、胡散臭そうにこちらをみる人の顔があった。

 あまりの安堵にまた、意識が飛びそうになる。ぐっとこらえ、詩子はその姿をまじまじと見つめる。顔には小さな目が二つ、その上に茶色の眉、真ん中に鼻、しかも見慣れた低い丸い鼻、への字に結ばれた唇。見慣れた造作に安心したのも、つかの間、明るい月の光を受けたその瞳は、詩子が普段、目にするよりももっと、明るい茶色。そして、後ろで一まとめにされた長い髪の色も、同じく明るい茶色。

  「茶髪だ……」

 20代半ばと思われる、山の湖畔に現れた男性に、あまりに似つかわしくない。そして、彼の服装は詩子の知る服装とはかけ離れていた。


  「○▼■◎△○?」

  「なに?」

 もしかして、言葉が通じないのだろうか。

 胸を打つ音がどんどん早くなる。

  「○▼■◎△○?□▽●○◎?」

 男も同じように言葉が通じないことに、気が付いたのだろう。首をかしげながら、さらに眉をひそめる。

  「あぁ、もう何言ってるか、わかんない。もう、ここはどこよ。なんで私、こんなとこにいるのよ。もう、やだぁ」

 詩子は再び、意識を手放した。夢が覚めることを願って。




  心配そうに覗き込んでくる瞳があった。

 その瞳は、薄暗くても、はっきりとわかるくらいに明るい茶色、頭部からふんわりとこぼれる髪も同じように明るい茶色だった。知り合いにこんな瞳の女の人はいない、そして、やっぱりここがどこかわからない。

  もう一度、眠って、目が覚めたら、詩子のみなれた部屋に戻っているのではないかという期待はみごとに外れた。


  ――……私、頭がおかしくなったわ。


「☆▼◇○○△?」

  優しく問いかけるような声。

  何を言っているのかは理解できないが、体調を気遣われているようだ。

  くりくりの丸い瞳、小さな鼻と口、スッキリとした顎のライン。細い腕をのばして、詩子のおでこに触れ、にっこりと微笑む。

  そして、自分の鼻を指差して、

  「ピリカ」とはっきり言う。

 どうやら、それはその女の人の名前らしい。


  ピリカは立ち上がり詩子に近づくと、壁にもたれるように座らせて、温かい器をわたす。

  その器には、白濁した液が半分ほど満たされていて、その匂いは、病人が食す粥のようだった。


  嗅ぎなれた米の匂いにつられて、急に空腹を感じた。


  グゥー



  ピリカは、クスッと笑う。

  詩子は木の匙を手にして、そっとすくうと白い米粒らしきモノと薄い黄色の賽の目のモノ。

  口に運ぶと、それは見た目通り、さつま芋の粥。米粒とさつま芋の浮くさらさらとした粥を詩子はお腹に納める。


  「ありがとうございます。本当に助かりました。って言ってもわからないのかな?お腹も空いてたし、ヘトヘトだったし、どうしたらいいかわからなかったし」

  わかったのかわからなかったのか、ピリカはにこりと笑い、器を指差す。

  「えっ?」詩子は器を渡すと、ピリカは立ち上がる。

  部屋の中を見回すと、出入り口らしき扉と三畳ほどの土間、そして、囲炉裏のある八畳ほどの板間だけのようだった。

 板間のすみに敷かれた薄い布団に詩子は寝ていて、ピリカはその囲炉裏に据えられた鍋の蓋を開ける。ゆったりと湯気があがる。器によそい、詩子に渡す。

  「おかわりをくれるの?」

 先程よりもなみなみとお粥が入っている。

  詩子は、結局、三杯も食べ、疲れと安堵で、また眠りに落ちた。


  ぱちぱちとはぜる音と、何かが燃える匂いに、詩子は、ドキリとして飛び起きた。

  「火事?!」

  目の前には、明るい茶色の瞳が心配そうに揺れている。

  部屋の中央に切られた囲炉裏から、小さな炎が上がっている。

  記憶がつながり、大きくため息をこぼす。

  ピリカはまた、何かを言っているけれど、詩子はわからない。

  やはり、体調を気遣われているようだ。

  「ピリカ」そう呼ぶ声に振り向くと、戸口にはピリカよりも背の高い、体つきもしっかりとした、でも細い人が立っていた。

  髪はピリカよりもさらに明るい茶色、そして同じ色の瞳。それは森のなかで、見かけたその姿。

  「あぁ、あなたがここにつれてきてくれたんだね。あのときは助けてくれて本当にありがとう」

 きっとわからないだろうけど、言葉にしたら、少しくらいは伝わると詩子は思った。

  ピリカは、寄り添うように隣に立ち、

  「アミヒ」とはにかんだように笑う。


  二人の醸し出す雰囲気が柔らかく小屋の中に満たされて、少し詩子は恥ずかしくなる。どうやら夫婦、もしくは恋人なのであろう。ピリカは甘さを含んだ声で、その男をアミヒと呼ぶ。

  何やら話し、鍋の蓋を開けてアミヒは顔をしかめる。

  ピリカは困ったように笑い、ちらりと詩子をみやる。

  「もしかして、私、食べ過ぎた?」

  アミヒも困ったように笑う。

  「ごめん、私、二人のごはんまで食べちゃった?本当にごめん。いっそのこと、怒ってくれたほうが……」

 満たされたお腹が罪悪感に変わる。がっくりと項垂れる詩子にピリカは笑って、細い竹ひごの束を渡す。

  手招きするピリカのそばにいって、その手が器用に動き、スルスルと形作られていく様を見ていた。

  詩子は見よう見真似で形を成していく、なかなかピリカのようにはいかない。

 ―― むむっ、意外と難しい。


  働かざる者、食うべからず!

  家訓だと、そう笑っていた声がよみがえり、胸が痛い。また、その声を聞くことができるのだろうか。


  ここがどこかわからない。詩子の頭がおかしくなったのか、夢か、幻かもわからない。

  わかっているのは、お腹が空くこと、くたびれること、怪我をすると痛いということ、生きていくための営みは変わらないのだ。


  とりあえず食べていかなくてはならない。


  「ピリカ……、ピリカさん、教えて下さいっ。ここで働かせて下さい!」

  詩子の必死さが伝わったのか、ピリカはにこりと笑い、手元をゆっくりと動かし始めた。


  アミヒは、そんな二人を見て、優しく微笑んでいた。

  二人は何やら話し、クスクス笑う。何かを考えているようで、アミヒは腕を組み、ピリカは詩子をじっと見つめる。

  そして、二人はまた話し、うんうんと何か、納得した様子だ。

  「チュプ」と詩子を指差し、アミヒもピリカも、満足そうに笑う。

  詩子の呼び名は、どうやらチュプと決まった。



 



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