10、旅芸人の一座
「チュプ、おいで」
アミヒに連れられてきたのは、テントのような天幕がいくつか張られている草原だった。大きなものはアミヒとピリカと住んだ小屋がすっぽりと入ってしまいそうなほどに大きい。小さなものでも、詩子の背よりは大きく、中に大人が何人も横になれそうなほどであった。
アミヒは少し迷いながら、こっちだったかなと呟きながら、一つの天幕に入っていく。
「アミヒです」
チュプもおいでと手招きをされて、詩子は戸惑いながらも入っていく。
中は小さな明りが点いていて、ぼんやりと明るい。奥には寝台のようなものが二台、置かれており、それぞれに誰かが横たわっていた。
「なんだい、あんたはいつもいつも、いきなり来て」
しわがれた声が聞こえ、その一つの寝台から、もそりと起き上がったのは、薄い金の髪をした、というより、金髪が老化に伴って白髪になったような、老婆であった。
「カロ婆、ごめん、ちょっと助けてほしいんだ」
「いやだね」
老婆は少しも考えるそぶりを見せることなく、アミヒに答える。
「ちょっとくらい、考えてくれてもいいじゃないか」
「あんたの頼み事はいつもいつも、厄介事じゃないか!今だって、私のもとを訪れる時間じゃないことくらい誰だって知ってるよ。いい加減にしないと、出入り禁止にしてしまうよ」
眠っていたのであろう、乱れた髪を手で押さえ、しわのある顔を眠そうにこすった。
「……うっさいよ、アミヒ!」
「ごめん、ミミン。起こしちゃった?」
「そんなでっかい声で話してるんだ、起きないわけないだろ」
もう一つの寝台から長い髪をかき上げ起き上がったのは、若い女の人だ、滑らかな頬、細い顎、小さな唇にすっきりと通った鼻筋、切れ長の瞳、整った顔立ちに、詩子は引き付けられた。
「きれいな人……」
肩に流れている髪が、小さな明りの中でもつやつやと光っていて、それが詩子には見慣れない臙脂の色をしていたけれどとても、美しい。
また、その髪が流れ落ちる体の線は、詩子よりずっと女性らしかった。
詩子のつぶやきに、ミミンと呼ばれた女性は、詩子を見つめる。眠そうに細められていた瞳が、詩子を捕らえたとたんに、大きく開かれる。
――赤い瞳の色がきれい。
小さな明りを受けてミミンの深紅の瞳は宝石のように光っている。詩子はじっとその瞳を見つめる。
はっとしたように、ミミンは瞳を閉じて、髪をかき上げ、両手で顔を覆い、顔を伏せた。
「誰だよ、その子は。隠し子でもいたのかい?それとも、女はやめて、坊主にのりかえるっていうのかい?趣味が悪すぎるよ、冗談はたいがいにしておくれ、おもしろくもなんともないよ」
ミミンの様子に気付いたのか気づかないのか、老婆はおどけるようにアミヒに言い、寝台から降りて、アミヒと詩子に、そこに座るように示した。
アミヒから小さな敷物を渡されて、アミヒにならい、それを敷いてその上に座る。
「カロ婆、この子はさ、ちょっと訳ありで。モラガイン山まで一緒に行きたいんだ。次はあっちのほうまで行くって、言ってたじゃないか。頼むよ」
「ふざけるんじゃないよ!あんたは前に同じようなことを言って、とんでもないことをやらかしたのを忘れたっていうのかい?!」
「……忘れてないよ」
アミヒの声が憂いを帯びて落ちる。
「……アミヒ、あの女はどうした?私はカロロンとは違う。話せるまで待つなんて、生易しいことはしない。あんたにはずいぶん迷惑をかけられてるんだ。話さないことにはこれからの付き合いだって考えさせてもらう」
ミミンの声は静かで落ち着いていたが、アミヒがごまかすことを許さない口調で、もちろん否と言わせない怒気を含んでいた。
「……死んだよ。サナ湖で」
アミヒは目を閉じて、大きく息を吐いて答えた。
ミミンはその言葉を予想していたかのように、表情を変えることはなかった。
「心からの哀悼の意を。安らかな眠りを祈る」
「ミミン、ありがとう」
ミミンは瞳を閉じ、しばらくの間、祈りをささげる。天幕にしんみりとした空気が流れ、静かに満たされる。
ピリカの柔らかな笑顔がまぶたに浮かび、詩子は鼻の奥がツンと痛み、涙が滲む。
「……で?その子はどうしたんだい?」
老婆は苦い表情を崩すことなく、詩子を顎でしゃくる。
「ああ、この子はチュプ……、ウタの方がいいかな?」
アミヒは詩子を振り返り問う。はやり、チュプと呼ばれるのは、あの静かな湖とピリカの声だけが相応しい。詩子は頷く。
「ウタでいい」
「そっか、わかった。ウタはサナ湖でピリカと一緒に三人で暮らしていたんだ。どこの誰かはわからないけど、とても働き者で、不器用で食いしん坊なんだ」
「それ、褒めてない」
詩子は真剣な表情のアミヒを見る。
「何だいっ!あんたはホントに次から次と、問題を持ってくる!」
「ただ、モラガイン山まで一緒に行ってくれたらいいんだ。街道が雪で埋まれば、俺はいいけど、ウタは進めないから。せめてウタだけでも」
「あれ以来モラガイン山に行ってないって言うのかいっ?」
「……合わせる顔がないから」
アミヒはうつむいて、つぶやく。
ミミンがため息まじりに言い、アミヒのかたわらに座る詩子を顎でしゃくる。
「レイがひどく心配していた。アミヒ、お前もモラガイン山に行くべきだろうな。……その目立つ髪を何とかしないとすぐに追っ手がくるぞ。どうせ、訳アリなんだろう?」
「またかっ!また、訳アリか!」
老婆は顔を顰め、アミヒを睨みつける。大きく息を吐いてから、手のひらで顔を多い、吐き捨てるように呟く。
「髪を布か何かで隠す前に、染めてしまわねばな。そんな黒い髪、見たことなどないわ」
「ホント、いつ見ても、瞳も髪も真っ黒だね」
アミヒが詩子のうなじで結ばれている髪をそっと手に取り、ずいぶん伸びたねと言った。
「黒い髪、いない?」
この世界の誰もが、詩子の黒い髪と黒い瞳を珍しいという。あちらでは、ありきたりで珍しくも何ともない。確かにあちらでも、人より黒かったとは思うが、こちらの臙脂色の髪の方がずっと珍しい。詩子はミミンをじっと見つめる。
「そこまで、黒い髪と瞳を持つ者を、俺は見たことはないね。黒っぽい髪や瞳ならいるから」
「そうだねぇ、これだけ黒いと色がつかないかもしれないね。青か紫なら、重なるかもしれないね」
そう言うと老婆は、もう明日にするよっと言い、寝台に潜り込む。
ミミンは詩子をじっと見つめ、何も言わない。ただ、その瞳はひどく、悲しみを含んでいることに、誰も気がつかなかった。
「さっ、ウタ行こうか。俺の天幕で休もう」
「あんたが入ってもいい天幕なんでないよ!外で寝な!!」
カロ婆の威勢のいい声にアミヒは肩をすくめ、ヤギと一緒でもいい?と小さくつぶやいた。
外は冷たい空気に満ち、高い空に登っていたはずの優月はすでに西に傾いていた。
アミヒの後について歩く、その背は詩子よりわすかに低い。高く揺れる紫紺の髪が思い出され、詩子は硬くまぶたを閉じた。
「ウタ〜!」
カロ婆の声が天幕に響く。ガバリと身を起こす。横で眠っていたはずのアミヒはすでにいない。
這うように天幕から出て行くと、カロ婆が待ち構えていた。いくつかあった天幕は解体されている。何人かの人たちが作業している様子を見ていると、強く手を引かれる。
「さっさとやること、やっちまうよ。こっちに来な!」
草地を進むと、小川があった。
カロ婆は手にしていた容器から妙な色のドロドロとした汁を詩子の髪にかけ、馴染ませた。
しばらくそのままで待つように言われ、詩子は冷たい妙な汁を髪に塗りたくられたまま、空を見上げた。
太陽はすでに登っているだろうが、薄く広がる雲に日差しを遮られ、ぼんやりとしていた。肌を刺すような冷たい風もなく、少し寒さの緩む朝は静かだ。
こちらに来たころは、暖かくなってきたころだった。少しづつ日差しはきつくなり、暑くなり、駆け足に夏は終わり、今は秋が深まっている、冬はもうすぐそこまできている。夏がとても短い印象だ。
時間の流れがあちらとは異なるのだろうか。
それとも、詩子の住んでいたあちらより、寒さの厳しい気候なのだろうか。わからないことばかりだ。
「へっ、へっくしょんっ!」
頭が冷えてきて、寒くなってきた。背筋を冷たいものが触れたように、ゾクゾクとする。
カンラナにもらった服は夏物だった。着た切り雀の詩子に清定館のマーナンが見繕ってくれた服も、男物であった。マーナンはしきりに謝ってくれたが、詩子は今更、男物を着ることに抵抗はない。学徒のお古ではあったが、厚手でしっかりした作りの衣は暖かく動きやすい。少し大きかったけれど、衣を重ねて着ることもでき、ちょうどよかった。
「ウタ!くしゃみもすごいけど、その頭、何かの冗談かよ!」
アミヒは指をさして笑う。アミヒが笑うと目が細くなり、細くなるというより、なくなってしまう。
アミヒが笑っていることが、詩子は嬉しかった。
髪を洗い、乾かすと、見慣れた黒髪ではなく、紫を帯びた黒髪になっていた。
頰にかかる髪が、見慣れぬ色で揺れる。肩にかかるようななった髪をひとつにまとめる。小鳥の尾よりも、長くなってきた。
「ウタ、出発だ。行こう」
街から街へと移動をしながら、踊りと、歌を披露する一座は、カロ婆が座長で踊り子や演奏者を含めて、二十人ほどおり、小さな子供も二人か三人いて、賑やかだった。
がっしりとした体つきの小型の馬に荷を背負わせ、自らの背にも荷を負う。しかし、その荷は詩子が想像していたより、はるかに少ない。あのたくさんの天幕はどこに消えたのだろう。
歩みは決して早くはないが、遅くもない。幼い子供達も、コロコロ笑いながら跳ねるように進む。
道はもちろん、あちらの世界のように舗装されていない。轍があるから、この道は頻繁に使われているのだろう。しかし、深い轍に溜まった水やぬかるみ、転がる石に気を取られて、歩きにくい。また、背にした、荷は少しづつ重くなっていくように感じ、頭に巻いた茶色の布がパラリと落ちてきて、何度、直しても落ちてくることが、とても煩わしい。
息が上がる。前を歩く人たちとの距離が開いてしまうけれど、誰も詩子を振り返ることはない。
「ウタ、大丈夫?」
額から汗を流す詩子に気付いたアミヒは、詩子の荷を取り上げ、自分の背に乗せた。
「あっ!アミヒ、大丈夫、持つ。大丈夫」
「無理しないで、離れてしまう、急ごう」
「う、うん」
荷を背負い、みなと歩くという、この世界の幼い子供達でさえ、難なくできることが、詩子にできない。
それが、ひどく申し訳なかった。役に立たないだけでなく、誰かの手を借りなければ、生きていけないことが、つらかった。
空は薄い雲が変わらずに広がり、風もない。あたりは静かだった。
詩子の吐く息の音が聞こえた。
旅芸人の一座は、みな朗らかで優しい人ばかりだった。
小さな子供達は、突然加わった詩子が珍しい様子で、ちらちらこちらを伺う。話しかけたいが、話しかけられないようで、近くに来ては、パーっと遠くに走っていってしまう。まるで、好奇心旺盛な子猫のようだ。
詩子はくすりと笑う。
「どうしかした?ウタ」
「え、あの子、かわいいね。私に興味があるみたいだよ」
「あぁ、ウタが仲間に加わったばかりだからかな、興味津々だね。……よく笑うようになった。ほんとうによかったよ」
「?」
「街で見つけたんだよ。身を寄せ合うように道端にうずくまって動かなくなってた。住む場所もあるのか、ないのか。食べる物も十分ではないようで、痩せててね。親もいないみたいで二人きりだった」
よく理解できない詩子は、じっとアミヒを見る。アミヒは路頭に迷っている子供たちを見つけては、連れてきているという。カロ婆には叱られるけどと笑う。
こちらはあちらより、生きていくことに皆、必死だ。食べ物も安全な水も当たり前には手に入らない。身を清潔に保つことも清潔な衣類を身につけることも、あちらにいるときは、当然で、それがいかに、恵まれていることかなんて詩子にはわからなかった。
親がいないだけで、生活が満たされているにもかかわらず、異質なものとして、弾くあちらは、とても満たされていると今は、思う。
「……ウタ。本当に何も知らないんだね」
詩子はその言葉を否定することはできない。そうだねと、小さく呟くしかない。そんな詩子の様子にアミヒは困ったみたいに笑った。
「ウタは知ってるけど、俺は狼だ。こうして人の姿にも、狼の姿にもなれる。そういう者を獣人と呼ぶ。そして俺たち、獣人は人から疎まれているから、獣人であることを隠す。バレたら、最悪、命を奪われるからね。だから見つかったら、すぐに逃げるよ。でもやっぱり人に混じって暮らす獣人は少なくない。まぁ、多くもないか。人はこう言う、獣人は獣だ、知性も理性もなく本能のままに生きていると、だから危険だと」
「危険?」
「俺が狼の姿になり、ウタの喉に嚙みつけば、簡単に食いちぎってしまえるよ。人の姿であるときより、早く走れる。高く跳べる」
アミヒはじっと詩子の瞳を見つめ、その答えを待っている。
「……すごいね」
自分とは異なり、人を傷つけることができる人はたくさんいるだろう。しかし、それだからといって、その能力がただあるというだけで、その者を弾くことは、何か違うと感じた。
刃物を持っているだけで、その人を危険だと拒むことは間違っていると思う。しかも、その刃物は生まれつき持っている物であるなら、なおさら、理不尽ではないだろうか。その物を持っていて、どのように使うかはその人次第だと、詩子は思う。
「すごい……」
アミヒは薄茶の瞳を丸くして、詩子を見つめて、大きな声で笑う。
「ウタ、くらいだ。そんなことを言うのはっ!本当に変わってるね、何も知らないだけじゃない。みんながみんな、ウタみたいであったら、もっと暮らしやすいのに」
ケラケラ笑いながら、アミヒは少し涙をにじませている。それは、詩子の言葉がおかしかったからだけでは、ないようだった。
「ウタ、あのね。そんなウタみたいに思う人なんて、いないんだよ。獣人は獣人というだけで、弾かれる。本当はみんな知っている、本能のままに生き、知性や理性を持たない獣などではないと。それを知らないのは、獣人がほとんどいない、王都に住む者くらいだ。しかし、人は皆、どこかに思っている。『獣人よりはいい』ってね」
身近に蔑まれ、迫害される獣人を見ている。獣人よりはいい暮らしができている。その優越が人を支えている。そう、アミヒは語る。
この一座はみな獣人だ。さまざまな目的があり、各地を回り、旅をしている。
獣人は住まいを定めることが難しかったこと、旅をすることができる屈強な体をもっていたことで、旅芸人と言えば、はるか昔から獣人である。歌や踊りを見せるだけでなく、商人の護衛を兼ねて同行することあったし、商品だけを運ぶこともあった。また、獣人同士の援助や情報交換も行っていた。しかし、旅芸人は蒼国の王都には決して足を踏み入れない。
アミヒはまるでなにかの物語をするように、詩子に聞かせた。
シンセントとともに旅していたときには見えなかった世界が、そこにはあった。
一座の旅は、賑やかではあったが、道のりは厳しかった。
街道にある街が、獣人に寛容であるとは限らない。獣人に友好的な人たちももちろんいたし、歓待をうけた村もあった。しかし、多くの街は避けて進んだ。
シンセントと歩いたときに、避けた街などない。歩けなかった道などない。
しかし、この旅は道なき道をいき、草木をかき分け、急な斜面を登り、街までたどり着くことなく、山で夜をあかすことも多い。
弾むゴム毬のように、はしゃく子供たちの笑顔がせめてもの救いだ。
下草をかき分け、積み重なった落ち葉に足を取られながら詩子は進む。
離れてしまわないように必死に足を運ぶ。離れたと気づき、振り返り待っていてくれる人はもういない。周りの景色を見る余裕もなく、つまみ食いのできそうな木の実を見つけることもない。
ただ、目の前に紫紺の髪がゆれていないことがつらく、足元だけを見つめて、足を運ぶ。
あの人はどうしているのだろうか。
そう、想いを馳せることは、許されるだろうか。
詩子はキリリと歯を食いしばり、滲みそうになる瞳を固く閉じた。
冷たい風に身を縮め、握りしめた手のあかぎれが痛んだ。