1、サナ湖の少年
楽しんでいただけますように(*´ω`)
静かな深い森の中は、朝霧が立ち込めていた。
ゆるゆると流れる霧の合間から、紺碧の湖面が煌めく。
草をかき分けて、湖岸に立つと凪いだ湖が霧に包まれている。少しづつ風に流され動く霧。その中を一艘の小舟が浮かんでいた。
粗末な今にも沈んでしまいそうな小舟は留まっているようであったが、徐々に近付いてきた。小舟はたくさんの花を乗せているらしく、赤や黄色、白といった、鮮やかで優しい色彩が湖面の紺碧と相まって、美しかった。
シンセント・ランサは、じっとその様を見つめていた。
小舟に乗っていたのは、たくさんの花だけではないことに、シンセントは気づき、目を見開く。
花が取り囲むのは、土気色の顔だった。
その顔も胸の上で重ねられた手も、じっと見つめていても、ピクリとも動かない。
すでに事切れていることは、遠目からでも想像に容易い。
落ち窪んだ眼窩、削げ落ちた頰、胸元に流れている薄い茶色の髪は若い女を思わせた。
遺体を目にすることは、初めてではもちろんない。二年前、王都の貧民街を歩けば、道端に小さいものから、大きなものまで、いくつか必ず目にした。その死は誰からも顧みられることなく、打ち捨てられ、街の外れの遺体置き場と言う名の穴に投げ入れられる。
その事実を知ったシンセントは鉛を飲み込んだように胸の苦しみを覚えたけれど、そのうちに、シンセントの胸を揺らすことはなくなった。
このようにこの女の死を悼み、埋葬された遺体を人気のない、山奥に見ることが不思議でならない。
シンセントは懐から地図を取り出し、この湖が自分の記憶と相違がないことを確認した。
やはりここは、二年前の大規模な凶作が続いた際に、大量の死者を遺棄した湖であった。
付近の村は特にひどく、ほとんど収穫することができず、蓄えもない者たちはみなこの世を去った。わずかに残った者も、村を捨てて出て行った。
それからは、誰も寄り付くことはない。
このような場所に、住む者も足を運ぶ者はいない。
こだわりなくやってくるのは獣人くらいではないだろうか。
しかし、獣人がこのように死者を埋葬するということを、シンセントは耳にしたことはなかった。
死を悲しみ、死者を埋葬した者、そのような者が大量の死者が遺棄された湖に住むとは考えられない。
シンセントは辺りを見回した。
人の気配はなく、家屋も見えない。煮炊きの煙も……。
いつの間にか晴れた霧、湖岸の向こうの森に一筋の煙がゆらゆらと上がっている。
シンセントはじっと見つめて、わずかに目を顰めてから、その昇る煙を目指して歩き始めた。
湖岸に沿って歩いて行くと、強く風が吹くだけで崩れ落ちそうな小屋がポツリとあった。
湖で蟹の漁をしていた者が使っていたであろう物置き小屋、その隙間だらけの壁に蟹を採るための仕掛けのある笊が立てかけられている。
シンセントはやはり不思議でならない。
この湖で採れた蟹をこの近くに住む者が口にするとは思えない。
人の肉を喰らった蟹を金を出して買うものがいるのだろうか。この森の向こうの峠を越えた街までいけば、そのことを知らない者がいるかもしれないが、人が歩いて蟹を売りに通える距離ではない。
小屋からは、人の気配がした。
鍛えられたシンセントにとって、人の気配を感じることは、容易なことであり、必要なことであった。
小屋の中の人の身のこなしから身構える必要がないと判断したシンセントは、躊躇いなく、引き戸に手をかける。
滑りの悪い、建て付けの悪い戸は大きな音を立てて開き、勢い余って、今にも外れそうになる。
薄暗い小屋の中に、小さな痩せこけた肩がビクリと跳ねた。
勢いよく振り向いたその者は、突然の日差しに目を細めてから、大きな眼を丸くしてシンセントを見た。
日に焼けた肌、尖がった顎、うなじのあたりで無動作に束ねられた短い髪、警戒した様子で身構えている。十代の少年のようだったが、大きな眼と髪が薄暗い小屋の中では黒くみえた。
黒い瞳と黒い髪を持つものに、シンセントは出会ったことがなかった。
「お前は何者だ?」
シンセントの問いかけに少年は顔をしかめるだけで、何も答えなかった。
「ここで暮らしているのか?」
「……○■×○▲」
声変わりを迎えていないらしい高い声、その声が成す、言葉の意味を掴めなかった。
「何と言った?」
困ったように眉を下げ、口元を緩めて微笑む。その成長半ばの少年の表情は、少女のように、中性的であった。ゆっくりと立ち上がった少年の背は、思った以上に高く、土に汚れ、擦り切れている粗末な衣の丈も足りていない。
「…○▲××○■×○▲」
この辺りの言葉ではないようだった。シンセントに聞いたことのない言葉はないにも関わらず、知らない言葉だった。
シンセントは僅かの間、目を閉じて呪文を口にする。あたりに広がる、強い爽快な香り、それは酸味に加え甘さを含み、柑橘の果実を思わせた。呪術師が呪術を成すときに香るその芳香は、呪術師によって異なる。シンセントの芳香が辺りに濃く立ち込めた。
「私の言葉がわかるか?」
小屋に強い香りが漂っている。
少年は強い香りに戸惑っているらしく、キョロキョロと見回しているだけで、シンセントの問いには答えようとはしない。
「お前は何者だ?」
「○■×○■××××○▲」
シンセントは言葉の異なる者と言葉が通じるようになる呪術など、試みたこともなかった。成すことが出来ないことを予想して成した呪術は、やはり、成すことができなかった。
「…やはり、無理か」
シンセントの属する青龍の宮、その長は、幼少期に言葉での意思疎通を可能とする呪術を成したと、酔った同僚の言葉を真に受けた自分を恥じた。
そのようなことが出来るはずもない。
少年はシンセントから目を離すことなく、じっと佇んでいる。
シンセントの一挙一動を見逃すまいと固唾を飲んでいるようだった。
シンセントには、確かめなくてはならないことがあった。少年の細い腕を掴み、小屋から引きずるようにして、外に出た。
太陽はすでに高く昇り、明るい光に満ちている。
細い顎を掴み、上を向かせる。太陽の光の下でも髪も、瞳も黒かった。
自らの足元も見えない闇夜のような黒い瞳、すっと通った小さな鼻、色を失ったかさついた唇、少女のような、思いの外、整った顔立ちの少年は怯えたように体を強張らせる。
「…○■××○▲××…」
夜空に浮かぶ星の様に黒い瞳に涙が溜まり、きらきらと光る。
大粒の涙は頰を伝い、細い首筋に流れていく。
シンセントは妙な心地になり、慌てて手を離した。
「…すまない。手荒な真似をするつもりはなかった」
少年は袖でゴシゴシと涙を拭った。
シンセントは周りを見渡したが、あたりには、誰もいないようだった。
蟹を採るための笊があるにもかかわらず、舟が見当たらない。小屋に戻り、中をあらためると、木の椀や匙が複数あり、土間の奥の板間には、長く敷かれているせいか、くぼみのある敷布や、女物の衣が置いてあった。
シンセントは息を吐いた。
あの小舟に乗っていた女はここで死んだのだろう。この少年と二人きりで暮らしていたのだろうか、他にも誰かいたのかは、わからなかった。
ただ、小舟がなければ、蟹は採れない。蟹が採れなければ、この少年は暮らしていけないことは確かだった。
痩せこけた背中の少年が日差しを受けて、ぼんやりと湖面を見ていた。
「…捨て置く訳にもいくまい」
青龍の宮の長はシンセントに言った。
――北へ行きなさい。
北に何があるのか、北とは何処あたりのことなのか、長に問うも、薄茶の瞳でじっと見つめるだけで、答えはなかった。
王都を出て、北へ進み、街や村を転々と訪ね歩いた。
それは、宮の長が幼少期に歩いたとされる街であったり、そうでなかったりだ。当てのない旅は面白くはない。明らかな閑職にシンセントは初めは焦りを感じていたけれど、今となっては、その思いは薄れていた。
日はまだ天中にあった。
ここから急いで、山の谷を抜ければ、人里に出られるだろう。
シンセントは少年の足元を見やる。少年は裸足であった。
土にまみれてすっかり汚れてはいたけれど、丈の足りない衣から覗くふくらはぎと足首は棒のように細い。
肩や腕も細いのは、栄養状態がよくないせいであろう。
「おい、荷物をまとめろ。グズグズしている時間はない。暗い山を歩くつもりか」
「……」
少年は、ぼんやりとしているばかりで、動こうとしない。シンセントは小さく舌を打ち、少年の荷物をまとめるために小屋に入った。
竃の近くに、わずかな米と、ラショが転がっているだけで、食べ物らしいものはなかった。衣はどれもひどく傷んでおり、シンセントは手にしたものの、またそこに置いた。
「何処かで、見繕うか……」
結局、シンセントは何も手にすることなく、少年の腕を引いた。
笠を深く被り、少年についてくるように言う。
困ったように首をかしげるだけで、少年は動かない。
「ここで、死を待つのか?」
「…○■××××○▲」
「何処かで働けるところを探せばいい。ここでは生きていけないだろう?」
「……」
少年には、シンセントの言葉はわからない。じっとシンセントを見つめた。シンセントのその濃紺の瞳を、言葉の意味を図るように見つめていた。
「どうする?」
口を一文字に結び、コクリと少年は頷いた。そして、足を揃えて真っ直ぐに立ち、ゆっくりと頭を下げた。
「○▲×○▲×○▲××××○」
シンセントには、少年の言葉の意味はわからないけれど、少年がシンセントについてくることにしたことはわかった。
「行くぞ」
少年はシンセントの腕をほどき、湖畔のみえるところまでかけていった。
そして、立ち止まり、大きな声で叫んだ。
「○▲×○■××○■××○■×〜!!」
その声に応える者はなく、少年も応えを期待した様子はなく、すっきりとした顔で少し離れてしまったシンセントを追った。
「遅い。もたもたするな。……本当にここで生活していたのか?」
少年は山を歩き慣れていないらしく、何度も木の根につまずき、とうとうふらついて木の幹に寄りかかった。まだ道は半ばにも差し掛かっていないというのに、息を切らしている。
右足をわずかに、引きずり、顔をしかめていた。
シンセントは軽く舌を打ち、少年の足元に跪く。
右足の裏には、何か鋭利なものでも踏みつけたのか、深く傷がついていた。
「……もっと早く言え」
袂から、手巾を取り出し、足を包む。シンセントは手の中の柔らかな足に驚きを隠せなかった。
素足で生活をしている者ならば、もっと足裏は硬い。自然と硬くなる。しかし、少年の足はさほど硬くはない。柔らかいというほどではないが、それは素足で暮らす者のものではない。何処かから、何かの訳があってやってきて、あそこに留まっていたのだろう。山を歩くことのない、素足で暮らすことのないところから、少年は来たのだろうと、シンセントは確信した。
眉を寄せて、申し訳なさそうに、シンセントを見る少年と、言葉が通じないことが、もどかしい。
「なぜだ?お前はいったい何者なのだ?」
困ったように首を傾げるだけで、はやり少年は何も答えなかった。
歩みの遅い少年を、シンセントは耐えかねて、背に負った。
首を振り、頑なに拒む少年を無理やりに背に乗せたのは、日暮れが近づいていたからだ。
この山の闇は濃い。この辺りは獣人がしばしば見かけられている。
獣人は人の姿を成すことのできる、獣だ。それは、人と同じ姿と別にもう一つの姿をもつ。それは猿のようであったり、狼のようであったりと様々であるが、一様に彼らには人のような理性も知識もなく、道理は通用しない。
ただ、本能の赴くままに生きている。
恐れるに足りないものもいるが、人並み外れた身体能力を持つものが多い、そのようなものに襲われれば、人など一溜まりもない。
呪術師であるシンセントだけであれば、なんとか逃げ切ることはできるだろうが、今は少年がいる。
西に傾いた太陽を見て、シンセントは山を駆ける。
背中の少年は思った以上に軽く、もっと早くこうするべきであったと、シンセントは思った。
闇に包まれる前に、村外れの民家の戸を叩くことが出来たことに、シンセントは安堵する。
馬のいない厩の片隅に、少年を横たえる。
傷が思いの外、深かったのか、痛みが増しているようで、顔をしかめている。土や砂にまみれた傷は赤く腫れ上がっているが、シンセントは汲んできた水で、容赦なく傷を洗う。
「少し我慢しろ。あいにく、私は治癒の方は今ひとつ得意ではない」
「○▲×〜!○■×××○■×〜!」
きつく目を閉じて、何かを唸るように言葉にするけれど、右足を強く握り、少年は抗うことはなかった。歯を噛み締めて、痛みを耐えていた。
「…このままでは熱が出るな。やむを得ないか」
シンセントは瞳を閉じ、呪文を口にする。
ふわりと漂う、強い爽快、酸味と甘みの香り。シンセントの成した治癒の呪術が濃厚な芳香を漂わせる。
少年のしかめていた顔が、ふと緩む。不思議そうに口を開け、あたりを見回している。
「お前は、呪術を見たことがないのだな」
シンセントは、呆れたように笑い、少年の頭をポンと撫で、少年の隣に横になり、瞳を閉じた。
シンセントは治癒の呪術を使うことを得意としていないため、呪力を大きく消耗したのだった。強い脱力感と疲労感を回復するには、眠ることが一番の方法であることを知っていた。
少年は呆然と足を見つめていた。隣に眠るシンセントと自らの足を交互に見て、小さく呟いた言葉は誰の耳にも届かず、また聞いていたとしても、意味を理解した者はいなかっただろう。
「…○▲×○■×○▲」
筵を肩まで引き上げ、体を丸めて眠ったのは、寒さを感じたというわけではなかった。
厩に近づく気配にシンセントは、ゆっくりと起き上がる。外はすでに明るくなっており、恐らくは、家主の老婆であろうが、シンセントは警戒を緩めなかった。
温かなナラを手にした老婆は、扉を叩く前に開いたことに、ひどく驚き、危うく、転びそうになった。
シンセントはナラを受け取り、まだ眠ったままの少年を見て、今日の移動は諦めた。
急ぐ必要のない旅、シンセントは老婆の元へ行き、手伝いを申し出た。
巻きを割り、水を汲んでもまだ、少年は眠っていた。少年の枕元にナラを置いておいたが、食べていないところを見ると一度も目を覚ましていないのであろう。
筵を肩まで引き上げ、静かに眠る少年をシンセントはじっと見つめた。
黒い髪と黒い瞳を持つ者は、この世界の何処にいるのだろうか。
この国だけでなく、近隣の国においても、茶系統の髪色が多い。淡い茶、赤みのある茶、黒みのある茶、と茶色といっても様々である。しかし、多くはないが、シンセントのようなごく暗い紫を帯びた紺のように、わかった髪色をする者もいる。
瞳の色は多種多様である。シンセントは深い濃い紺の瞳をしており、先ほどの老婆は明るい碧であった。しかし、独特の蒼はこの国の王にしか現れない。深みのある鮮やかな青は澄んだ透明感を持つ。王だけに許される蒼い瞳。その蒼い瞳を持つものだけがこの国の王となるのだ。
王となり、呪術師と契約を結ぶ。契約を結ぶことが出来るのは王だけであり、また、王と契約をせずに呪術師になることは出来ない。
シンセントも、九つの時に王と契約を結んでいる。
あれからすでに、15年の月日が流れた。必死に学び、呪術だけでなく、剣と体術を体得するために日々、鍛錬に励んだ。
少なからず呪術師としての力の強さを自負していたシンセントは、王都に留まることを許され、青龍の宮に属することとなった。それはとても誇らしく、離れて暮らす家族や親せき、郷里の者たちの誉でもあった。
青龍の宮には、シンセントを圧倒するような呪術師が数多くいた。
その最たる者は、時折、声をかけ、目をかけてくれるの上官。優しく穏やかでありながらも、精度の高い先読みだけでなく、風を操る術に長けていた。
できないことはないのではないかと言われる彼は、治癒が苦手だと、笑っていた。
しかし、瀕死であっても救命できるという呪術は苦手とは言えないだろう。
シンセントとは、比べ物にならない、圧倒的な呪力。高い技術、深い知識、重ねられた経験、どれを取っても、敵わない。
そのような呪術師が数多くいることにシンセントは驚いた。
そのような猛者を束ね、頂点に立つのは宮の長である。
王にも意見することを許され、どの臣下よりも、高位にある青龍の宮の長。その証として、王族ではないにもかかわらず、蒼い長衣を身につけることを許されている。
宮の長は薄い茶色の瞳と、同じ髪色、それはありきたりで、珍しくもない。また、容姿も凡庸であった。しかし、その瞳の光は鋭く、口元に笑みを浮かべていても、その瞳が細められることはなく、獰猛な肉食の鳥を思わせる。目の前に立つと、身体が竦むように感じたことは、一度や二度ではなかった。
青龍の宮の長には、いったい何が見えているのだろうか。
命令に従い北を旅していたが、シンセントは何をも得られてはいない。
老婆が近づいてくる気配に、シンセントは立ち上がり、厩を出た。