4.定義することが大切
珪己は仁威の言葉を一つ一つ咀嚼していく。
「それはたとえば、使命とかそういったことでしょうか」
自分の言葉を正確に受け止めていく部下に、仁威は安心し小さく笑った。
「そうだな。さっきも言ったように、正義とか義務とか、そういったこともだ」
「……それらをきちんと定義することが必要だということでしょうか」
自信なさげな珪己の発言に、仁威は無言で続きを促した。珪己はそれに背中を押され、今思いついたことを意を決して述べていった。
「たぶん、いろんなことを明確に定義して比較することが必要なんだと思います。そうしないと、それらがぶつかりあったとき、どちらを優先すればいいのか分からなくなりますから」
「たとえば?」
「たとえば……そう、たとえば、誰かの命と正義と、どちらをとるべきか。この人とあの人、どちらを助けるべきか。……そういうことですよね?」
迷うような珪己に、しかし仁威は力強くうなずいた。
「そうだ。そういうことだ。後宮にいた時からお前にはそれが分かっていたはずだ」
指摘され、珪己はあの後宮での日々を鮮烈に思い起こしていった。
武芸を学ぶために男のふりをした。
菊花を、そして菊花を守るという約束を守るために皇帝の閨へ足を踏み入れた。
果鈴と闘うことを選んだ。
――つまりはそういうことなのだ。
きちんと己で選んだ道を歩んでいる。
そして今、後悔するべきところは一つもない。
珪己の表情の変化に仁威はうなずいた。
「そう、だからお前は何も恐れる必要などない。そこに何があろうとも、お前の意志一つでそれは黒にも白にもなるってことをよく覚えておけ」
たとえ今、珪己の心が黒一色で、白が一滴混じっただけだとしても。
「……はい!」
気持ちいいくらいに清々しく返答した珪己の瞳には、その声音のとおり、もう迷いの色は見られなかった。まだ簪を手に闘うまでには時間がかかるかもしれないが、その心はすでに武芸者へと戻る準備が整ってきているようだ。
(まあ、まだまだひよっこだがな)
仁威は言わない。珪己の言ったこと、つまり正義と義務、使命、そして人の命。こういった人にとって大切で普遍的であるべきことこそ、定量的に比較することが困難で、しかもそれは不変ではないことを。その日々、事情によって容易に優劣が変わるということを。
だから武芸を究めることは難しく、仁威は今でもその壁に立ち向かっている。
いや、実際には武芸だけに起こり得る課題ではないのだ。生きることそのものに、気づけばいつだって同じ課題が潜んでいる。何を選択し何を捨てるか、人生とはその繰り返しなのだ。
しかし今はまだそこまで言う必要はない。まずは一つの壁を越えれば上出来だ。
仁威が満足そうに珪己を見やれば、当の部下はいつの間にか真正面から堂々と仁威に向かい合い、じっと顔を覗き込んでいた。
少しの間をおいて、珪己がはああっと大きくため息をついた。
「……なんだ」
問えば、珪己は腰に手をあて、もう一方の手でその指を仁威の鼻先にびしっとつきつけてきた。
「だからその笑顔やめてくださいって言ってるじゃないですか」
「は?」
「ほんと怖いんですよ、恐るべき第一隊の隊長の笑顔って」
「……は?」
「普段強面の人の笑顔ほど恐ろしいものはないんですよ。分かってます?!」
部下にあるまじき言動に、一拍おいて仁威が無意識にその頭をはたいたのは――当然の結末だろう。




