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1.黒に一滴の白が混ざり

ここから本編、第二巻の最後、李侑生と稽古をした翌日から話がはじまります。

「……おい。おい、聞いているのか。……おい! よう珪己けいき!」

「わ、わわわ」


 顔を上げれば、膝を抱え座る珪己の目の前にはえん仁威じんいがいた。


 そう、今は早朝。今日も珪己は仁威にこうして稽古をつけてもらっている。しかし、少しの休憩時間の間に珪己の思考は昨夜にまで飛んでいたようだ。


 だからこそ、突然の仁威との距離の近さに、珪己は昨夜の侑生ゆうせいの所作を思い出してしまい盛大にあわててしまった。床についた尻ごと後ろに下がったところで、無様なくらい体勢が崩れる。


「おっと。危ないだろう」


 仁威がとっさに珪己の二の腕をつかんだ。そして珪己の体を自分の方へと引き寄せる。慣性に従い、無抵抗な珪己の頭は仁威の懐におさまった。


 頬に、衣ごしとはいえ男の体が放つ熱が伝わってくる。


「……うわわわわ!」


 またも奇怪な声を上げて離れていく部下を見る仁威の目は珍獣でも見るかのようだ。ただ、興味深く思いながらも、その顔を見れば頬がやや赤く染まっていることに仁威は気づいた。


 後ずさった状態でちらりと上目使いに見上げてきた珪己は、仁威と視線がかち合うと、さらに濃く頬を染めてあわてて視線をそらす有り様だ。


(……なんだ?)


 仁威には合点がいかない。


(こいつ、まるで女みたいな反応をしてやがる)


 この部下といえば、自分に全く遠慮がないはずなのだ。近頃は会話らしい会話をしていなかったとはいえ、男とか女とか、二人の間にはそういった面倒な感情を持つことなどありえないはずなのだ。


 ――なのに。


(まるで急に俺のことを男だと意識したかのようだ)


 なぜそれが今朝になって生じたのか、仁威には全く分からない。


 確かに今朝は近頃の硬い動きがとれ、立会においては武芸を楽しむような顔つきをいくらか見せていたが……それもなぜ今朝からなのか。


(まあしかし、これで少しは悩みからも脱却できたか。……いずれまたこいつも武器を持つことができるようになるのだろう)


 珪己の課題は、上司としての仁威にとっても大きな課題であった。強制して他人の心を変えることなどできるわけもなく――だからこそ、どう補い導くべきかにその心を砕いてきた。だから今、多少珪己の仕草が違ったところで、仁威は特段気にならなかった。


 いつまでも背を向け恥じらうようなそぶりを見せる珪己に、仁威は部下の明るい未来を思って顔をほころばせた。


「その様子だと少しは武芸者としての心が戻ってきているようだな」


 珪己は横目でちらりと仁威を見て、その満面の笑顔に胸が痛んだ。


(……本当は昨夜のことが気になりすぎているだけなんだけど)


 昨夜のことというのは、この道場で李侑生に口づけをされたことである。


 もちろん今でも『人を傷つけることを目的とする武芸』を受け入れかねているし、今ここで殺気を向けられれば即座に体が硬直すると断言できてしまう。恥ずかしながら。……なのだが、まだ恋も知らない珪己にとって、昨夜の体験は正直いって強烈すぎた。


 珪己は一つ勉強したような心持ちでいる。


 つまり『意識は分散されるものである』ということだ。


 侑生の行動によって、珪己はいい意味で一つのことで固く閉じていた扉に隙間を生じさせることができた。


 だが、それが実は非常に重要なことであったりもする。


 黒となってしまったものをいきなり白に戻すことはなかなか難しい。


 そういうとき、ほんの少しでいい、黒に一滴でも白が混ざれば――混ざることを心に許すことができれば、黒は「白に戻る力を取り戻す可能性」を得る。


 それが分かっているから、仁威は珪己の心が変化した理由を知ることなく純粋に喜んでいるのだ。


(この人は本当にいい上司だ、私のことでこんなに喜んでくれて。……何があったのかなんて口が裂けても絶対に言えないけど)


 侑生と仁威、二人の関係はよく知らないが、一度、二人そろって楊家にやってきたこともあるのだから、全く面識がないわけではないだろう。であれば何も語ることなどできやしない。


 珪己は曖昧に笑ってみせた。

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