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4.すべてを捧げる

 珪己が事変の時に救えなかった楊家の生き残りの娘で、そのことに今も罪を感じている。それこそが真実だった。


 仁威の脳内に多数の出来事が、想像が――そして悪夢が駆け巡った。


 その真実が暴露されれば、行きつく結末は明らかだ。


 珪己は知る必要のなかった事変の裏側を見るはめになり、ひどく心を痛めるだろう。またも武芸を恐れるようになる可能性も否定できない。これまで築いてきた上司と部下としての信頼関係など、あの重い過去の前では消滅するしかないだろう――。


 そうなれば珪己は武官に就任することもできなくなるに違いない。あの事変が近衛軍第一隊によって引き起こされ、そして首謀者がその隊長であることを、おそらく珪己はいまだ知らないから。でなくては愛娘を近衛軍に入れるような真似を玄徳はしない。珪己はそこまで強靭な心を有してはいない。


 そう、楊珪己はまだ少女でしかないのだ。そして事変によって罪を負った自分が今、その恐ろしい任に就いているという皮肉さ。その自分がいる宮城においてこの少女が武官として勤めることができるとは……到底思えない。


(この少女の母が失われるきっかけを作ったのは自分だ)

(だがこの少女に武芸者という道を示してしまったのも自分だ)


 なのに今、その道を奪おうとしているのも――自分なのだ。


(それは俺がしてきたことの中でももっとも赦されない大罪ではないか……?)


 これまで珪己にしてきたことはどれも自己満足の域を出ていなかったのではないか。そこまで思い至ると仁威は愕然とした。


 この自分の胸倉をつかみ必死に見上げてくる少女に対して、心の奥に一物を抱え、理想の上司としてふるまい、自分を信じさせ成長する姿を見て満足し……。


 自分の生き方を、選択を肯定してほしいように。


 自分の言動のすべてを、この少女に認め受け入れてほしいように。


 ――嫌われないように。


(俺は、俺のすべてをかけて楊珪己に償うべきだったのだ……! なのに俺は己を護ることを捨てきれずにいた。本当に護るべきは楊珪己の幸福であったというのに……!)


(今こそ己のすべてを捨てなくてはいけない。己を護ってはいけないんだ。本当の意味で楊珪己を護らなくてはいけない。そうしなくてはならないんだ……!)


(そのためには……!)


 決意するや、仁威は手綱を強く振るった。とたんに馬が最速で駆け始める。突然の大きな揺れに珪己の体がぐらついたところで、その腰を片手で抱き、胸に引き寄せた。


 この場から逃げ出さないようにしっかりと抱きしめる。


 いや、逃亡を防ぎたいのは少女ではない。自分自身だ。


 腰に回したその手をずらし、背中側から珪己の顔を押さえる。こちらに向かせた状態でさらに指で顎を持ち上げるや――仁威は珪己にかみつくように口づけをした。


 荒々しく交わる口づけは、馬上であることが理由であり、仁威の性急な動きによるものでもあった。


 痛みを感じながらも、珪己はその口づけを受けるしかなかった。身体を拘束された状態で、しかも風のように疾走する不安定な馬上では、片方の手ですら仁威の襟から離すことができない。だから侑生のものとはまったく違うその唇の感触を受け続けるほかなかったのである。


 痛い。熱い。息ができない。


(胸が……熱い……!)


 馬の駆ける速度は一瞬たりとて緩まない。攻撃的なまでに激しい蹄の音は、珪己の心臓の鼓動と寸分狂わず同調している。ど、ど、ど、と鳴り続けている。


 ようやく唇が離れたところで、珪己は体内の熱を吐き出すかのように叫んだ。


「袁隊長っ……!」


 今、仁威はただ前を向いている。そして感情のない声で言った。


「俺のことは名で呼べと言っただろう」

「は……?」


 いまだ首の裏から回された手で体ごと、そして顎まで拘束されている珪己は、馬から伝わる揺れに舌を噛みそうになりながら叫んだ。


「何を言っているのか分かりません……!」

「お前は阿呆か。名を呼べと言い、口づけをした。つまりそういうことだ。俺がお前をなぜああも案じたか、その理由がこれだ」


 驚きに目を丸くした珪己を、仁威が無遠慮に見下ろした。いつの間にか仁威は両手で手綱を握っている。


「だがお前は阿呆なのだな。それに先ほど口づけて分かったがどうにもしっくりとしない。俺はどうやら勘違いをしていたようだ。すまない、忘れてくれ」


 何を言っているのかを一つずつ整理して、行きついた結論に珪己は絶句した。


 しかしそれに構うことなく、仁威は馬を駆けさせ続けた。そして楊家に着くと珪己をぞんざいに降ろし、


「というわけで、明日からは朝稽古はしないし送り迎えもしない。もう特別待遇は終わりだ。悪いな」


 そう言い捨てると、珪己が応答する間も与えず、それまで以上の速度で馬を駆って闇の中へと消えていった。


 馬の駆ける足音だけが響く闇の中、珪己はその音が小さくなりやがて聞こえなくなるまで門前で立ちつくした。茫然と仁威が去っていった闇を見続けた。


 このような夜だというのに、今日も星々の瞬く空が美しかった。それに気づき、珪己の胸はぎゅっと締め付けられた。しかし珪己にはその理由が分からなかった。


 なぜなのかが分からなかった。

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