2.いつか懺悔する日が
珪己を背後から包むように仁威は手綱を握っている。別段意識した行動ではないし、この程度のことで女に対して何かを感じることはない。こうすることが理にかなっているからしている、ただそれだけのことだ。
だが、こうしてこの少女を懐に入れていると、沈黙の中にいると――仁威は八年前の事変、そしてこの初春の後宮での出来事を思い出さずにはいられなかった。
(俺は楊珪己を護っている。……護ることができている)
知らず知らずのうちにため息がもれた。仁威の両腕は馬の振動によって珪己に触れたり離れたりを繰り返していたが、このまま抱きしめたい衝動に突如かられ、それを仁威は強い自制心でもって瞬時に抑えこまなくてはならなかった。
なぜ抱きしめたいと思うのか、その理由が分からない。
(ただ護りたいからなのか。それとも……?)
だが、このような遅い時間にもう何も深く考えたくなかった。いつにも増して疲れを感じている。
上半身で珪己との距離をとると、見下ろした先にうなじがあった。
ほつれた後れ毛とは対比的なその白い肌に、なぜか視線が吸いよせられていく――。
細い首だ。部下たちの太く頑強なものと違い、この手でちょっとひねるだけで簡単に折れてしまいそうな首だ。それより何より、触れたとたんにその柔らかな肌には容易に傷がついてしまうだろう。男の武芸者であれば勲章となる、だが女であれば美を損なうと嫌われる傷を……。
(同じ武芸者であるというのに男と女というだけでこんなにも違うものなのだろうか)
ぼんやりとした頭に、次々と取り留めのないことが浮かぶ。
女の体とはなんと闘いに不向きな構造なのだろう。
男だけが武芸を習得してきた理由はここにあるのだろうか。
しかし心は――そう、心は男も女も関係ない。
女であっても闘う者、挑む強さを有する者はいくらでもいる。
そう考えると、この腕の中にいる少女が哀れに思えてきた。戦いたいと欲するのにこのようにひ弱な体しかもたないとは、運命とは残酷なものだ。いっそのこと、女はその欲望を捨てるべきなのかもしれない。人には得手不得手があるもので、それはどうしようもないことなのだから。
強く願い努力すれば望みが必ず叶うなどと誰も本心からは信じていない。この世には不条理があふれており、それこそがこの世の自然な姿ともいえる。
とはいえ、珪己は枢密使の娘なのだから、そんな摂理によって構築されるこの世においてもたやすく幸福に生きられる側の人間のはずだった。そう、珪己は本来、大切に育てられてしかるべき少女だったのだ。
武芸者として生きる道を、今からでも捨てたほうがいいのかもしれない。
たとえ母を失った悲しみを抱えていても、今からでもやり直しはきくのではないか。そう、良家の女らしく、同じような良家の男のもとへと嫁ぎ、子を産み、総じて安泰した一生を享受すればいいのだ。その手から武器を捨てればいい、ただそれだけのことだ。それは十分幸福な生き方だといえるのではないだろうか。
しかしこの少女が今この道を選んだ一因が仁威本人にもあることを、当然仁威は承知している。八年前の夏、仁威の衝動による発言がこの少女の生き方を定めたのだから。――そして今がある。
自分と同じような生き方を選択させてしまったことを、その細く白いうなじを見ながら仁威は初めて悔いた。
馬に揺られながら沈黙が続く。
そのとき、前に座る珪己が口を開いた。
「すみません……でした」
「もう謝罪はいい。さっきも聞いた」
「はい。でも……すみません。あの、明日もあさっても今日のように遅くまで稽古をすると思うので待たないでください。私は一人でも帰れますから」
「夜遅いのであれば余計に俺が必要だろうが。まだ簪も持てない奴が何を言っている」
とげのある言い方をしてしまった、と仁威が内心悔いたところ、珪己の肩が心なしかうれしそうにはねた。
「いえ、それが実は! 私、今日、簪を持って闘えたんです!」
珪己としては、不肖の弟子がようやく本当の意味で壁を克服したことを報告すれば、仁威のことであるから共に喜んでくれるだろうと思っての発言であった。
だがそれは仁威の何か予想外の部分に触れたようであった。たっぷり五拍はおいて、仁威の低い声が頭上で響いた。
「……闘った? お前が? いつ、どこでだ?」
珪己が腰だけをひねって振り向くと、仁威の鋭い双眸が珪己を見下ろしていた。馬の歩みは減速され、やがてぴたりと止まった。ふわりと風が吹き、ささやかに草が鳴る。そばを流れる小川から、小さく何かが跳ねる音がした。
仁威が同じ問いを繰り返した。
「いつ、どこで、なぜ、お前は闘ったんだ?」
その声には若干の怒りと、そして別の何かが含まれていた。
それが珪己に慎重に言葉を選ばせた。
「私の勘違いで起こったことです。突然現れた人に驚いて仕掛けてしまっただけ、それだけのことです」
「……そうか」
ふうっと息をついた仁威は、明らかに、過度に、そして心底安堵しているようであった。それは珪己の中に生まれかけていた謎を著しく成長させた。そして確信した。
(袁隊長は何かを隠している――)




