1.奔走
そろそろ日付も変わるほどの深夜、正門から駆けだしてきたのは珪己だった。
珪己が発する足音と呼吸音以外、音らしい音は聞こえない。門の両脇に直立する武官以外には人の姿も見当たらない。いくら安全が売りの開陽とはいえ若干不安な気持ちになってしまう、そんな時間帯だった。
だが帰路に向かおうとした珪己の背に声を掛ける者がいた。
「遅い」
「……袁隊長?」
そこには仁威がいた。いつものごとく、同じ場所に。毎日夕刻、退城後に珪己を待つ同じ場所に。
「あっ……」
仁威への連絡を失念していたことにようやく気がついた珪己は思わず声を発していた。まさか今日から楽士としての稽古が始まるとは露とも思っておらず、また、それ以前に、宴の奏者となることをこうも簡単に承認されるとは思っていなかったからだ。
だから珪己が仁威に駆け寄って口早に説明したことは、仁威には知らされていないことばかりだった。
仁威は詳細を聞き終えるとひっそりとため息をつき、暗闇の向こうを指差した。
「乗れ。家まで送る」
そこにはよく目をこらすと一頭の馬がいた。
ともに肩を並べて歩きつつ仁威の話を聞くと、いつまでも姿を現さない珪己を案じて礼部をたずねたのだという。しかし居室にはほとんど誰もいなかったそうだ。それも当然、礼部は残業を許さない唯一の部であって、わずかに残っていた人間は一官吏補の動向など知らない者ばかりだったのだ。
正門に戻って警備をする武官にあらためて訊ねると、いまだ珪己らしき少女が通った形跡はなかった。ここ宮城には大勢の官吏が勤めているが、年のころや体格が同じような女官吏補となるとそうそういない。なので、そういう者が通りかかったら捕まえておいてほしいと依頼し、仁威は宮城内に戻り、一人本格的な捜索を開始したのだった。その前に、一度状況を報告しておくべきかと考えて枢密院にも赴いたのだが、玄徳と侑生は重要な合議があるとかで室に閉じこもっており、となると、事情を知っていて珪己を捜索可能な者は仁威しかいなかったのである。
それでも珪己がまだ宅配業務に関わっていると信じていた仁威は、各部を回って話を聞くことを選んた。そしてようやく、正門からもっとも遠い吏部において、昨日その官吏補に鏡楼への使いを頼んだという小さな情報を得たのであった。その頃にはとっくに太陽は山の向こうに沈んでおり、蕩けるような陽光の残滓すらあたりからは消え失せていた。
来賓を招き皇族らが集う鏡楼には、定められた時、定められた官吏しか立ち入ることをゆるされていない。そのため、仁威はその楼閣から出てくる官吏、侍従、そして芸事の者、すべてを捕まえて話を聞いていった。そして最終的にとある楽士から、珪己が奏者として今日から芸事の練習に参加しており、今も一人稽古をしているという確信を得たのである。
それを聞いて仁威は心底安堵し、そして遅れてどっと疲れを感じた。真夜中独特の重い空気がふいに体全体にのしかかってきたかのように――。
こうやって仁威が必死に奔走していたというのに、当人は仁威の苦労など知ることなくこのような夜遅くにまで優雅に楽器を奏でていたのだ、少しくらい憤ったとしても当然だろう。
馬は部下の一人に頼んで正門まで曳いてきてもらっていた。馬を駆る必要のある事象までをも想定していたからだ。
その馬に今、珪己を乗せ、そして後方に仁威も跨っている。持ち主に似て体格のいいこの葦毛の馬は二人を乗せても何ら支障なく、仁威の指示に従い、軽やかにその足音を響かせ始めた。
もう真夜中だから、さすがの開陽でも通行人はわずかにしかいない。向こう側の酒楼や妓楼の立ち並ぶ一角は今もにぎわっているようで、遠目でもちかちかと瞬く灯が見えるが、二人が通る道に馬の息遣いと蹄の鳴る音以外には何もない。一日が終わり、太陽も多くの人も寝静まる空間において、さながら二人は異邦者のようでもあった。




