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8.余の前に跪くな

 くくく、と英龍が笑った。両腕を組み、やや背中を丸めて腹を抱える様は本気で面白がっている。


 だが珪己にとっては笑いごとではなかった。


「どうした? 顔色が悪いぞ」

「……聞かなければよかったです。当日、黒い圧を感じる中、失敗なく弾きこなせる自信がありません。あと三日しかないのに……」

「おお、黒い圧か。うまいことを言うな」


 目を見開いて驚きを示す英龍に、珪己はふくれた。たったいまこの件の責任は自分にあると言ったくせに、面白がるとは何事か。なので思わず、


「もう、冗談を言ってるんじゃないんですから!」


 英龍の肩をぱしんと叩いていた。気づけば叩いていた。そう、悪い冗談を言った知人を軽く批判するための、それはよくある動作であった。


 肩を打たれた感触と、極限まで滑らかな黄袍の感触。


 それぞれが同時に二人に強い衝撃を引き起こした。


 英龍は今度こそ本当に驚きに目を見開き、珪己は今度こそ本当に相手がただの青年ではないことを自覚した。


(絶対にやってはいけないことをしてしまった……!)


 心臓がわし掴みにされたかのような感じたことのない恐れに支配され、珪己はこれ以上はないという素早さで椅子から降りた。そして即座に床に額をこすりつけて平服した。


「申し訳ございませんっ……」


 原因は分かっている。


 初春に東宮で対面したときの英龍の気安いともいえる対応と、このところの龍崇とのなれ合うような関係のせいだ。


 だが、どれもこのような大それたことをしでかした理由としてはいけない。勘違いをしたのは自分自身の責任だ。そして目の前にいるのはこの国の皇帝なのだから――。


 珪己はぎゅっと目をつぶった。


 自分の命をあきらめ――しかし父の顔が頭によぎった。皇帝に無体をしでかした咎は親族一門にまで及ぶという。珪己に今できることはやはり懇願だけだった。珪己は床の上で体を固く縮め、再び声を発した。


「申し訳ありません! 申し訳ありません……!」


 閉じた瞳の奥に燃え盛る炎が見える。流れる血潮のように真紅に染まった炎が。


 赦しを乞うためには何度でも願い続けるしかない。いつまででも、この首を落とされる直前まででも、赦しを乞い続けるしかないのだ。それ以外に何をできようか……。


 英龍がそっと珪己の肩に触れた。


「顔をあげよ」


 今この状況において、この皇帝に従う他に道などない。命じられたとおりにのろのろと顔をあげると、英龍は珪己の前に膝をつき、難しい表情でこちらを見つめていた。英龍の手がためらうように伸ばされると、涙でぬれた珪己の頬を不器用にぬぐった。


「へ、陛下……?」

「泣くな。余の前に跪くな。そのようにされると……どうしていいか分からなくなる」

「陛下……」


 茫然とする珪己に、英龍は少し眉をひそめて視線をおろした。そして聞き取れるかどうかというくらいに小さくつぶやいた。


「……よい」

「……え?」

「そなたはそのままでよい。余の前ではそのままでいろ。……そのほうがよい」


 ぽかんとしていた珪己であったが、やがてはっとした。


「で、では! お咎めは?」

「咎などない。余がいいと言ったのだからよい。さすがに皆がいるところではよくないが……このような場ではそのままでいろ」

「へ、陛下……!」


 珪己の両目から、止まったはずの涙が堰を切ったようにあふれ出した。


「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


 再度平服しようとする珪己の両肩を、英龍がとっさに掴んだ。珪己が顔をあげると、英龍は苦笑いをしていた。


「だから余にひれ伏すではない。それに泣くな。笑え」


 英龍は懐から手巾を取り出すと珪己に手渡した。珪己はその手巾を受け取り、それから今度こそ本当に安堵して笑顔を見せた。

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