6.勝負は一瞬でつけなくてはならない
背後から聞こえたその小さな音に、珪己は再度琵琶を弾きかけた手を瞬時に止めた。
音が鳴ったほうにあるものといえば、壁しかない。
そしてこの部屋には今、珪己しかいない。
警戒心からわきあがる緊張が珪己の五感を刺激する。やおら琵琶の頚(ネックのこと)を左手に持ち、立ち上がると一気に振り返った。
音がした壁には巨大な掛け軸がある。ところどころ虫食いの痕が見える、一見してこの宮城に似つかわしくない品であるが、その後ろから、はっきりと人の気配を感じた。
(これは……一人か)
と、風もないのに、掛け軸がふわりと揺れた。
眼光鋭く掛け軸のほうに向き合いながら、珪己は腰を降ろし琵琶を床に置いた。そのまま重心を落とした姿勢ですり足で近づいていく。
勝負は一瞬でつけなくてはならない。
そのことだけは本能的に分かっていた。
相手は当然自分よりも体格が勝り、かつ腕の鳴る武芸者であろう。その逆の属性をもつ賊がここに侵入していると考えるほど愚かではない。一瞬で勝ちを収めずしていかにすべきか。他に自分に軍配があがる可能性を高める算段はとっさには思いつけない。
その時、大きく掛け軸が動いた。音はしないが、向こう側に扉があることは容易に想像がつく。不用心なその動作は、侵入者の自信の表れと珪己には思えた。
ここで扉の向こうの主にとって大きな誤算があった。珪己はまだ官吏補となって日が浅く、であるから、無音で開かれる隠された扉が意味することを知らなかったのである。珪己はその扉の向こうにいる者のことを不穏な輩だと勘違いしていた。
ただ――珪己の弁護をするならば、皇族がこの飛橋に出入りする時、先回りした、もしくはあらかじめ到着を予期した侍従や官吏が目的地の扉の前で待機するのが通常なのである。そして出入りの際は周囲を人払いし、扉が動作する様は未公開となっていた。なお、扉は壊れたかのように見えるほど貧素な造りをしており、かつ皇族のみが知る細工を解くことで開閉するため、唯人には利用しようと思うことも、開閉することもかなわない。
であるから、この扉が突然開かれる事態こそが稀有なことだったのた。
今夜、龍顕も西宮に帰る際には、常時武官が警備する別の扉を利用している。珪己の前では利用することは絶対にない。
限界まで大きく傾いた掛け軸の、開いた側へと珪己はそっと近づいた。そして同時に頭に挿した簪の一つを無意識に抜いていた。
簪は即座に右手に隠し持つ。
闘いのために簪を握ったというのに、道場でのような嫌悪感も震えも、何も生じていない。ただ、珪己の意識はこれから現れようとする人物へと一直線に向かっていた。
そして――相手の姿が見えるか見えないかという状況で、珪己は一気に踏み出し、右手を、簪を走らせたのである。
*
「……ほお。そなたはまさに剣女だな」
珪己の両の手首が、その人――黄袍の青年によって強く握りしめられている。そして拳二つほどの距離で二人は見つめ合っていた。青年のつり上がった瞳はおもしろいことを発見した子供のようにきらきらと光り輝いている。
珪己がまず感じたことは、攻撃を見切られたことへの焦りであった。簪を持つ右の手首が青年の手刀によって完璧に制されたからだ。かろうじて簪を取り落とすことはなく、それゆえとっさに、手首を打った手刀に負けじと接点に力をかけ直していた。こうすれば隙あらば攻撃を継続できるからだ。そして半ば無意識に、その場で腰を回転させもう一方の空いた手を拳にして繰り出していた。
なのだが……青年は手刀で制していた手首をぎゅっと掴み、珪己と同じくもう一方の手を同じ動作で繰り出すや、珪己の拳をも手刀で制してきたというわけだ。
両手首を掴まれ、拘束され、踵が上がるほどに全身を持ち上げられ――そうしてようやく、珪己は対峙する青年がこの国の皇帝であることを理解した。衣の色と見覚えのあるその顔に、戦闘体勢に入り込んでいた珪己の体が、頭が、心が、一瞬にしてぱっと醒めた。冗談ではなく血の気が引いた。
「陛下……! 申し訳ありません……!」
急ぎその場で平服しようとしたが、両手首を掴まれていては叶わない。日々武芸の鍛練を欠かさないのであろう、珪己が多少動いたところで英龍の手はびくともしなかった。緩む気配もない。逆に距離をとろうとする珪己に反して、英龍がその両手を引いた。それによって二人の距離が半分に縮まった。
「謝ることなど何もない。余が驚かしたのだから」
頭だけはなんとか下げていた珪己であったが、頭上に響いたその声音に弾む心を感じとり、おそるおそる顔を上げた。すると、そこにはやはり、愉快な状況を楽しむ青年の顔があった。この青年――現皇帝ときちんと対峙するのは、初春の後宮での一件以来のことであった。
珪己と目が合うや、英龍が幼子のような快活な笑みを浮かべた。
「このようなところでそなたと会うとは思わなかったぞ。それに琵琶もたしなむとは知らなかった。顕叔父に手ほどきを受けているのか」
皇帝としがない官吏補がこうして目と目を長く合わせることなど、この国の理として絶対にありえない。床に頭をすりつけて跪拝もせず、定常文句の口上も何一つなくこうして旧知との再会を英龍が楽しめているのは、珪己との初春の思い出と、そしてこの場に二人しかいないためだ。
とはいえ、この国の絶対神に等しい皇帝とこうも近い距離で見つめ合うというのはさすがに刺激が強すぎた。今の珪己はもう女官ではないし、ここは東宮でもないからだ。恐れ多いうえに、先日の侑生との口づけまで思い出せる異性との接近に、珪己の顔が赤くほてった。
「へ、陛下」
「なんだ?」
一度目線を降ろし、また上目使いに見上げると、英龍は歓喜に満ち溢れた透き通るようなまなざしを珪己に向けてきた。その黄袍も表情も、唯人でしかない珪己には眩しすぎる。心拍数が極限まで上がるのを感じる。息が苦しい。
(もう無理……!)
涙目になりながら珪己は切に願った。
「陛下、お手をお離しください……!」
「なぜだ?」
「なぜって……」
まさか理由を尋ねられるとは予想しておらず言葉につまり――次の瞬間、珪己は正直に叫んでいた。
「距離が……距離が近いです! それに痛いです!」
限界だった。




