2.
彼は約束を守った。
守ることを生の理由とした。
実際、彼には他に生きる理由がなかった。彼はそのことに改めて気がついたのである。
彼には食事をとり眠りにつく理由が必要だった。だが、生自体への執着が消えると、それゆえに彼は何に対しても一線を引くようになった。年頃らしい情熱は過去のものとなり、彼はできうる限りの善良な若様としてその言動を選択していき――ついには世の理を会得した仙人のごとき青年に成長した。少なくとも周囲にはそう見えていた。
そして祖父母は彼にその尊い出自を教える決心をした。彼はその事実を静かに受け止めた。ただ粛々と。そう、あの少女のように。
逆らえない運命は受け入れるべきものだと彼はすでに知っていたのだ。なぜ存命であるはずの父母とこれまで会うことができなかったのか、彼はようやく知ったわけだが、それは彼に何の感慨も引き起こすことはなかった。彼にとって、父母とは、自分がこの世に誕生した原因、きっかけにすぎない。
その日から彼に課せられたのは、さらなる精進を積むことと、尊い血にふさわしい正しい行いを選択すること、そして己の命を己で守ることだった。
彼はあらがえない力によって、控えめに、だが少しずつ、その活動範囲を広げていった。それは来たるべき日のためではあったが、まだ公に認知されていない彼にとってそれは単独で決死の戦いに赴くことと同義であった。実際、彼は幾度かその命を狙われた。暗殺を生業とする者がいつどこで現れるか分からない非情な世界で、彼はしかし気丈に生き続けた。
*
彼がその音を初めて耳にしたのは、八年前、十八歳の初夏のことである。
湖国には楽院という学舎がある。ここは湖国最高の楽士育成機関であり、つまり、一流の奏者を排出する学府として、国内のみならず諸外国にまでその名を知らしめていた。とはいえ、生徒の大半は手習い程度に通う貴族や名家の者ではあったが。
御多分に漏れず、当時の彼もそのような音楽の神が見下げるべき者の一人になり果てていた。やがてくる望まぬ未来のための嗜みとして通うにすぎず、よって、その内面には奏法へのあくなき探究心など見る影もなかった。本人にとっては、生家にいるよりもまだましであるという打算によってここに居場所の一つを確保していただけのことであったのだ。――そう、彼にとって生家とは演じる場であり、心安らぐ憩いの場などではなかった。
彼は器用なほうで、少し習えばあらかたの楽器は扱えるようになった。筝や笛、琵琶や琴、笙や二胡といった具合に。
ただ、どれも始めは熱心に取り組むのだが、ある程度こなすことができるようになれば、興味を失うのもまた早かった。例えどれか一つの楽器を選んだとしても、彼にはそれを真に会得することも、それをもって生きることも不可能だったからである。探究できない真理ほど面白みのないものはない。
彼の未来――今もそうだが、望まぬ未来においても常に死があることは容易に予見できていた。たとえ死を免れたとしても、その先に待つのは華殿――外壁で囲まれる宮城内においてさらに内壁によって二重に隔離された皇族の住む殿――での飼いならされた生活しかない。
彼もあの少女と同じだった。
束縛され、生も死も他者に握られているという点では本質は同じだったのである。
*
部屋の壁ごしにその琵琶の音を初めて聴いたとき、あまりの女々しさに彼はひどく嘆息した。じっとりとして、ねっとりとして、ひどく陰湿で、細雨のような音だった。
耳に入った知りたくもなかった話によると、その音の主はつい先日母を殺されたらしい。そのため、これまで母に習っていた琵琶を今後は楽院で教授してもらうことになったとか。
音色の質を忠実に裏付けるそれらの情報は、彼をひどくいらだたせた。なぜかというと、それは彼の生家でよく見聞きする、売り買いされ肉を食われる女の姿そのものだったからである。彼の生家はいわゆる高級妓楼ではあったが、商品として提供される女たちの抱える内情、内面は、他の妓楼のそれと大して変わりはしなかった。
だからこそ、彼は良家特有の悩みも何もないような者の音を好んでいた。ここに来てそういった音を聴くと、彼は心から安らげたのだ。ここでは何も考えなくていい、何の悲しみも絶望もない……と。そう、彼は意味を持たなくていい音に、それゆえに癒しを感じていたのである。なのにその新参者の手による音は彼の安寧を阻害した。
いらいらと、彼はその陰気な音を聴き続けた。その頃の彼には他に行く場所がなかったから。
まだ細く長く続く雨のほうがましだ。雨は他者に命を注ぐ。なのにその者の音はその者以外には何の糧ともならない。いや、害にしかならない。
ところがある盛夏の日、その音色が突如変貌した。
猛々しくて荒々しい、これまで習得した技法を忘れたかのような奏法――しかしそこには悲しいほどの決意があった。その者は決めたのだ。一人戦いを挑むことを。涙をぬぐい、これからは勇士のごとく生きることを。
その日、ひとしきり奏でられ続けた琵琶の音がやんだ後、彼は握りしめ続けていた拳にようやく気づいた。開けば、手のひらには爪の食い込んでいた痕がくっきりと残っていた。彼は腰をあげその音色の主の部屋の戸を開けようとし――しかし一寸迷ってやめた。
それからも、その音の主は孤高の戦士のごとく琵琶をかきならし続けた。
その音を隣室で聴き続け、やがて彼もとある決意をする。
*
その時はそれから案外早くやってきた。彼は命をながらえ、とうとう宮城へと召されたのである。「誰にも言ってはいけないよ」と幼いころに祖父母から明かされていた彼の出自は老人の虚言ではなかったことがめでたく証明されたわけである。
異母兄である三代皇帝・趙英龍と初めて顔を合わせ、彼はその場で名を与えられた。それからの彼は、趙龍崇と名乗っている。
彼はそれから楽院には出向いていない。出向くことは許されていない。皇帝の意志が変わることがなければ、彼はこのまま一生を宮城の中で暮らすのだろう。だが、彼がその琵琶の音を忘れることは決してないだろう。その音だけが彼の生きる標だから。
彼はその音の主の正体を知らない。男か女か、幼子か成年かも知らない。母を亡くした、ただそれだけしか知らない。この時代では特段珍しくもないその一点のみしか今でも知らない。楽院に来ていたくらいだ、それなりの良家の人間なのだろう。それくらいのことしか知らない。
だがそれでよかった。
彼とその琵琶奏者は同じ核を有しているからだ。
この広い世界で、同じ心を持って生きることを決意した同士がいるというだけで、彼は強く生きていくことができるのだ。
たとえ一度も会えなくとも。
その奏者が彼のことをいまだ知らなくても。
いつか手を取り合い友となれる日がくるかもしれない。
そんなちっぽけな願いが彼をこの世につなぎとめ、彼の魂を日々試している。
次話から本編に入ります。