1.
物心ついたときにはここにいた。
だから彼は知らなかったのだ。
ここがどれほど狭くて異質な世界であるかということを――。
*
彼は開陽に幾多ある妓楼の一つで生まれ、そして育った。彼の母方の祖父母が営むここで、彼は寝て、食べて、学び、そして大きくなったのである。
両親の血は彼に色濃く反映されたようで、彼は美しく、そしてとても賢い少年となった。その利発さゆえに、その日は当然のように訪れた。彼が現実と対面し己について理解せざるを得ないその日が――。
自分の生家が何を生業にしているかを、彼はその日知ってしまった。何を取引し何を搾取し何の犠牲の上に金銭を生み出しているかを彼は知ってしまったのである。
実際は知ったなどという軽くて生優しいものではなかった。脳天から爪の先まで、否定できない力でその事実が彼という存在すべてに満ちたのだ。それは事実であるからこそ、いっそ暴力的ですらあった。
自分の命が何に依存することでこの世に在るのか。彼はそのことを知り、そして深く絶望した。そう、それは紛れもなく絶望であった。
彼は部屋に閉じこもり耳を塞いだ。出される食事はすべて断った。初めての空腹は辛かったが、それでも、一つでも口でも入れたら自分も祖父母側の人間になってしまいそうで恐かったのである。一度知ってしまった後では、祖父母から与えられる贅を享受することはすなわち共犯者になることと同義に思えたのだ。
*
その夜、空は雲で覆われ、月も星も見えない真の闇が広がっていた。
彼はよろめく足で庭に出た。そして井戸に近寄り、震える手でつるべを握った――その時。
「若様が手自ら汲まなくても。使用人にやらせればいいじゃありませんか」
その少女――彼より年上であったが、成長著しい彼と目の高さは同じくらいだった。しかしこの暗闇の中、ほっそりとした体はやけに儚げに見えた。
この少女の生命を食らって生きてきたことに彼は今また気づかされた。そう、真実を知った後ではどれもこれもが違って見えるものだ。世界は一つであるはずで、真実もまた一つしかないはずなのに、それはひどく不思議なことだった。そこで彼はまた一つのことに気がついた。そうか、これまで真実を見ていなかったのは己自身か……と。
「私がやりましょうか」
「いやいい」
しばらくはつるべを引く音だけがこの場に響いた。彼は水の入った桶を引き上げると、その桶ごと持ち上げて大胆に口をつけた。久方ぶりに喉を通る冷水に、彼の体が一度大きくぶるりと震えた。
やがて彼は満足したところで桶を井桁に置くと、乱暴に袖で口を拭った。よく冷えた水は彼の体にまだ残滓のように潜んでいた命を刺激した。ふうっと大きく息をついた時、まだ彼の背後にその少女はいた。
「若様は私をお嫌いになりましたか?」
「……いや。そういうことではない」
なおも振り向こうとしない彼に、聡い少女の潤んだ瞳は見えていない。
「……私はこのように生きるために生まれてきたのです。生まれたときからこの道をたどることが定められていたのです。若様が私をどう思おうと、この定められた道が変わることはありません。私も、私の道も、何一つ変わっておりません。変わられたのはあなただけです。……私はそのことがひどく悲しいのです」
彼の背中が小さく震えた。
「……すまない。だが自分でもどうしたらいいのか分からないんだ」
空腹なのに食欲が湧かないという異常な状態に、彼の体はほとんど限界にあった。たとえ食を断ったとしても、彼の住む部屋、布団、今身に着けているものすべて、そしてこの桶の水一杯とっても――彼は生家に寄生しなくては生きていられない存在だとすでに自覚していた。それはもう否定できない事実だった。
だからといって、自分にできるこのささやかな反抗をやめたら、彼はそこで人間であることが終わってしまうとまで思いつめていた。人であることを終えるくらいであれば、この命を絶つほうがましだった。こうやって浅ましく水を求めているくせに、彼は純粋にそう願っていた。
「若様」
少女が言った。ささやくように、そっと。その声音がとても優しく心に届いたので、彼は何も考えずに少女のほうを振り向くことができた。
少女はその声音通りの表情で彼を見つめていた。すでにその瞳に涙の痕はなかった。少女の身にまとう真紅の着物は目にも眩しかった。大小の輝く蝶がその衣の上で自由に飛び回る様は、少女の現実とは真逆で皮肉のようにも思えた。
誰かに施されたのだろう、慣れない化粧は少女を少し大人びて見せた。紅の塗られた唇がそっと開かれた。
「若様、私のことを……いえ、私達のことを否定しないでください。私達は今こうして生きているのです。どうか、私達のこれまでとこれからを否定しないでください。そしてずっと見ていてください。……ね?」
いたわるように言うその少女こそがいたわりを必要としているはずであった。現に今これからどこに赴き何をしようとしているのか、それは少女の装いから明らかであるというのに。
だが、少女は何も悲観していなかった。それは少女の表情から明らかであった。言葉通り、少女はこの道で生きると決めていたのだ。ゆるぎなく定められた運命に対して人は逆らうことなど考えない。ただ受け入れ、粛々と勤める。ただそれだけなのだ。それでいいと少女は思っていたのだ。
彼は少女の表情をしばらくじっと観察していたが、やがてぽつりと言った。
「……見ているだけでいいのか」
「え?」
「見ているだけでいいのかと訊いている」
こちらを見据えてくる彼の眼光の鋭さに、逆に少女は笑ってしまった。
「ええ、若様。それで十分でございます」
うなずいた少女の髪がさらりと流れた。
その時、空を覆う雲が流れ月が現れた。一瞬にしてあたりは月光で照らされ――少女の黒髪が艶やかに煌めいた。