1.救いを求める心
この日、武殿はその名と相反する華やかな雰囲気に包まれていた。
そう、今日は新人武官の着任の儀が執り行われる日で、この日ばかりは枢密院で働く文官、武官のすべてが普段よりも豪奢な礼服に身を包んでいた。
文官が三年に一回の科挙で千人強の新人を採るのに対して、武官は年に二回、一度に百人程度と少ない。そのため、今日のような武官のみの儀では、武殿の一角で小規模に式が催される。それでも皇族の一部、それに中書省からは紫袍の上級官吏が集うとあって、昨夜まで武殿の中は戦場のようなめまぐるしさで準備が進められていた。だが当日となれば、あとは始まるばかり。皆の心も浮き足立つというものだ。
それでも、この日も当然朝議は行われている。着任式がこのすぐ後に控えているが、今も明後日に迫る芯国との調印式に備えて普段以上に長く審議が重ねられている最中だ。普段と違うのは官吏らが礼服に袖を通していることくらいだ。
そんな中、着任式の準備と進行を一手に引き受ける枢密副使、段亨明はいつ倒れてもおかしくない有様であった。ひどくやつれた顔を隠すこともできず、時折その細身の体を揺らめかせている。亨明の隣に立つ侑生はこの年上の同僚を気にしながら、それでも今話題となっている菊花と芯国大使の警護については自身の任であるから、気を緩めることができずにいた。
「……ではそれで。中書省に依存はありませんが陛下もよろしいでしょうか」
「うむ。問題ない」
ようやく中書令・柳公蘭、そして皇帝の同意をとり、侑生は拝礼しつつ小さく安堵のため息をついた。なお、向かい合う中書省の官吏の中、礼部侍郎・馬祥歌が何やら顔をひくつかせていることにもずっと気づいているが、頓着したいとも、できる状態でもない。
事前に提出されていた案のとおり、菊花と芯国大使の警護は近衛軍第一隊に一任することとなった。今日侑生が説明したのは、その提供される近衛軍の具体的な人数と構成、そして護衛方法についてである。
菊花が初の公務を担う今回の件は、いわば民衆や諸外国への息女のお披露目の場ともいえた。ならば護衛は皇族の護衛や特殊案件を担う第一隊が行うのが当然である。せっかくの機会、最強の第一隊によって守り固めた大行列が宮城から船渠まで一直線につながる街道を練り歩けば、豪華絢爛、誰にとっても得になって喜ばしいというわけだ。
行列の先頭には近衛軍将軍の郭駿来を置き、後ろにつく武官には湖国と芯国の旗を持たせる。その後ろには武官の列、菊花の馬車、芯国関係者の馬車、式に関わった礼部の上級官吏の馬車と続き、最後にさらに武官が連なる。馬車は全部で四台の予定で、それらを囲むように騎乗する武官が配置される予定だ。
第一隊が出動することが正式に認められたとたん、祥歌の顔が一瞬だらしなく崩れた。そんな自分にあわてて気力でもって常の上級官吏たらん表情に戻そうとする。だが結局うまくいかず、今もぴくぴくと祥歌の顔はひきつっている。
表情の変化から祥歌の心の内が手に取るように分かってしまい、この時一区切りのついた侑生は余裕のできたその心で、一向に落ち着こうとしない祥歌の顔をちらりと眺めた。
(……恋に落ちると理性がなくなるというのは本当だな)
とはいえ珪己に対して犯した自身の暴挙を思い出せば、祥歌のことを馬鹿になどできやしないのだが。どのようなことでも初めての経験というものはここまで人を愚かにすることができるのだな、と冷めた頭の隅で思う。
(だが馬侍郎があれだけ分かりやすいというのに、なぜ少女である珪己殿のことは分かりかねるのだろうか?)
このところの侑生はふってわいた姫の警護の件で多忙を極めていた。だからそれを理由に玄徳を家に送る任も他の者に任せて、武殿に寝泊まりしながら仕事をこなし、そして今日のこの日を迎えたのである。
あれ以来、楊家に近づかなくてすんだのは、正直助かった……のかもしれない。
あの日生じた邪とも思える欲望はいまだ消えることなく侑生の体の奥でくすぶっている。芽生えたあの夜よりも今のほうがよっぽど切実にあの少女を欲している。
会いに行きたい。
触れたい。
声を聞きたい。
せめて顔を見たい。
けれども、珪己のほうでもそれを望んでいるのかどうかが侑生には分からなかった。あの日、珪己の瞳に恋慕の色が少しでも見えたか……時が立ち過ぎて侑生にはもう分からなくなっていたのである。
珪己のほうからも何の連絡もない。自分を恋願う文どころか、批判する文もこない。
あの特別な夜が明けた後、侑生の元にやってきたのは仁威だった。仁威は侑生の執務室に来るや、深く腰を折り曲げて「昨日は言い過ぎた。すまなかった」と謝罪してきたのである。仁威いわく、珪己を上手く指導できないふがいなさに気が立っていたとのことで、
「とはいえそれを理由に自分を正当化するつもりはない。俺が悪かった」
と、再度深く頭を下げたのであった。
確かにあの日の夕方に仁威から受けた強い批判は侑生の心に突き刺さった。だがその後の深夜の出来事が強烈すぎて、このときまで侑生はすっかり失念していた。
一瞬なんのことかとぽかんとした顔をしてしまい……頭を上げた仁威が訝しげな顔をし、そこでようやく合点がいった有様であった。
「……いや、もう気にしていない」
「そうか。ならよかった」
ところで、と、侑生が珪己について軽く探りを入れたところ、仁威は侑生と珪己の密事については全く知る様子はなかった。知っていたらこんなふうに侑生に謝罪一色の態度をとるわけがなく、それは想定の範囲内だった。ただ、「楊珪己に今朝から復活の兆しが出てきたんだ」と仁威が嬉しそうに語った点については腑に落ちなかった。
(普通、ああいうことのあった翌日にそうなるか……?)
そうなるわけがない、と侑生の常識は反論する。稽古などできずに室にこもってくれるほうがよほど普通の少女らしい反応である。だが気にもとめず、心の重みがとれたかのように稽古に励むということは。
(……私のことは何とも思っていないということか)
愛しくもないし憎くもない、何ら感化されようもない男だということか。
侑生は周囲に分からない程度に小さくかぶりを振った。
(いや、珪己殿はまだ恋や愛に疎いだけだ。武芸への想いが強いだけだ。……まだ幼いだけだ)
そう思わなくてはこの心は救われない。
しかし現実的な自分はそれを否と言う。とはいえそれは絶対に認めたくないことで……。
心が迷いに迷う。
行っては来てを繰り返す。
侑生はそれゆえ、珪己に対してもこの恋心に対しても何もできずにいた。
思索にふける侑生を横目でちらりと見やったのは楊玄徳である。
そう、まだ朝議は続行されているのだ。
そして彼ら官吏より一段高い場所、一人坐する皇帝の脇に立つ趙龍崇はそれらをつぶさに観察しながらわずかに唇の端をあげた。
(礼部侍郎や枢密副使ともあろうものが恋心一つで愚かなことだ。一時の激しい感情のために己を失うなど、紫袍を着る資格もない)
と、龍崇の目に、侑生の隣に立つ男の体が大きく揺らぐのが目に入った。とたん、その男、段亨明がその場に崩れ落ちた。亨明の真っ青な顔が、彼がもう限界であることを如実に語っている。
「段副使……!」
段のそばに膝をついた侑生に、扇で口元を隠した公蘭が小さく笑った。
「あらあら。段枢密副使がそのような有様ではこの後の着任式はどうなるのでしょうね」
どこまでも嫌味な公蘭を、意識のない亨明を抱えた侑生がきっと見上げる。その侑生の顔の前に、見慣れた玄徳の扇子がすっと出された。玄徳は侑生をその仕草だけで黙らせると、部下を背に公蘭に向き合った。
「着任式は私と段の枢密院事とで取り行いますのでご心配なく」
枢密院事とは枢密副使の直属の部下である。枢密副使は複数名の枢密院事を用いて事に当たっている。そのため、段亨明の成そうとしていたことのほとんどは彼の枢密院事が把握している。
「楊枢密使がそうおっしゃるのであればそれでよいのですが」
ほほほ、と公蘭が笑う声が生ぬるい空気に満ちた室内でやけに腹立たしく聞こえた。




