5.こんな朝には何を思う
この件はその日のうちに命令された。
まずは中書令・柳公蘭、そして枢密使・楊玄徳の両名が至急の件と言われて昇龍殿の皇帝の執務室に参上するよう命じられた。このようなことはあまりなく、二人はその室でお互いの存在に気づくや、即座にただごとではないと察した。
「菊花は皇族の一員であるし、そろそろ八歳にもなる」
一人椅子に座り正面に立つ二人を見上げた皇帝は、そんな出だしでやや婉曲に要望した。
「であるから芯国の大使を見送る場に立ち会わせてみてはどうかと考えている。大使とともに船渠まで行くだけのことだ。息女の初の公務としては容易さも重要性も適切であろう。船の近くで姫の姿を見せれば芯国との友好関係を派手に民に知らしめることができてよいかと思うのだが」
菊花からの要望であることが最後まで語られなかったのは、皇帝としての矜持によるものであったのかもしれない。当然、皇帝本人が知り得ないのだから、この願いの発端が楊珪己に感化された結果であることを二人の長官は知ることはなかった。
「それはまた急な……調印式が来週末、翌日には大使は帰国のために宮城を出るのですよ」
公蘭の指摘することは当然皇帝も分かっている。分かったうえで要望している。ということを玄徳は分かっていたので、公蘭に鷹揚に語りかけた。
「柳中書令、大丈夫ですよ。使者どのを送るための警護は姫様が加わることを考慮してより層を厚くしましょう。また、事前に船渠までの道筋を再確認し、かつ当日は周囲の監視を強化します。計画をよく練り、本日中に陛下へ持参いたします。陛下、それでよろしいでしょうか」
「ああ。そのように頼む」
あからさまではないもののほっとした様子を隠し切れない英龍に、玄徳はほほ笑んで頭を下げた。
「私は陛下の臣でございますから、陛下がお望みとあれば必ずや実行いたします」
公蘭はしばらく玄徳の下げられた後頭部に視線をやっていたが、やがて自身も同様に頭を下げた。
「姫様が公務に加わるのはこの国にとって喜ばしきことでございます。中書省もまた一丸となってこの件を成功させたく存じます」
「うむ。では早速とりかかってくれ」
この件は時をおかずに二人の長官から自身の部下へと伝達された。柳公蘭からは礼部尚書・蘇籐固と礼部侍郎・馬祥歌へ、楊玄徳からは枢密副使・李侑生へ。それぞれがそれぞれの部署において即座に合議を行い、議論し、結果は上司に報告され稟議された。何度か練り直すことで隙のなくなった計画案は、作成されるや、その日のうちに皇帝の元へ届けられた。
枢密院と中書省から提出されたそれら二つは、ほぼ完ぺきと言ってよかった。ただ、二つの案はまだお互いの案を知らないところで検討された、各自にとっての最良の案でしかなく、そのため、そのつじつまを合わせた一つの案に集約する必要があった。それはこの国の政治の特性上、どうしても皇帝自ら行う必要があった。それゆえ英龍は異母弟・龍崇に意見を求めながらも夜を徹して取組み、ついに日が昇る頃、ようやく満足のいく案に整え直す作業を終わらせた。
英龍は隣の部屋で控えていた翰林学士にこの案を実行するための勅命書の作成を依頼した。彼らはいつ皇帝に招集されてもおかしくない緊張した夜を明かしたため、誰もが腫れぼったいむくんだ顔をしていたが、充血したその目の奥はやる気でみなぎっていた。
翰林学士が、そして龍崇が部屋を去り、英龍は室内に仮設された寝台に座った。あと数刻で始まる朝議の前に少しでも仮眠をとる必要がある。
英龍にとって、このような朝も、短い睡眠も、皇帝となってからはよくあることだった。菊花のためにもなるこのたびの仕事は、やり遂げれば充実感も大きい。それでも疲労は感じているようで、英龍は無意識に首の後ろをもんでいた。
ふと見れば、窓から差し込む日の光が目にしみいるようであった。
(……妃、か)
大事をやりきった充足感は快い。しかし、そのために自身の何かを削っているような気もする。取り返しのつかない何かを……。
皇帝に即位したのは英龍が二十歳の時だった。若かった。かといって後見人をおいて政治の多くを任せられるほどには幼くもなかった。英龍は強者揃いの上級官吏を相手に、協力しながら、時に孤軍奮闘しながら、尽きることのない課題を一つずつ攻略しながらこの国を動かしてきた。
今は頼りになる龍崇も、当時はまだ政どころか公の場に登場すらしていなかった。その頃、龍崇は市井の民の中で隠れて暮らしており、父である前皇帝から、英龍の治世が盤石となったとみなせるまではこの異母弟を皇族として認知してはならないときつく命じられていたからである。
ようやく龍崇を皇族として宮城へ呼び寄せることができたのは、皇帝となって三年目の新春のことだった。龍崇が英龍にとって益となるかどうか、それどころか害となるかどうか、これは一種の賭けのようなものであった。だが、そのような逡巡は杞憂だった。初めて対面したとき、龍崇は齢十九になったばかりであったが、その物腰や思考は老練の学士のごときであった。そして龍崇はその場で英龍に変わらぬ忠誠を誓ったのである。その誓いはいまだ破られたことはない。
そして英龍が皇帝となって、早十年。
人材に恵まれ、運にも恵まれ、皇帝として生きる覇道は幾分か易しくなってきたようにも思う。だが、こんな朝日の眩しい、溶けるような柔らかな空気の中で一人この室にいると――頭の片隅に小さく疑問が浮かんでくる。
いつまでこんな日々が続くのだろう、と。
それは漂白された布に落としてしまった一滴の墨汁のようで、英龍はかぶりをふって寝台に横になった。
皇帝はいつでも清廉潔白な存在でなくてはならない。
皇帝にふさわしくない考えは認めてはならない。
目をつぶると、体は機械的に眠りへといざなわれていく。
薄れゆく意識の中、英龍はまた別のことを思っていた。
(心を分かち合える人……か……)
*
同じ頃、一人の青年が明け方の甘い夢にひたっていた。
「……チュアル。ねえチュアル聞いて」
もう夢でしか聞くことのできないその声が胸にしみる。
駆け寄ってくる少女の垂らした髪がふわふわと揺れている。だがその柔らかな髪に触れることは……もうできない。
「私、後宮に入ることになったの。女官じゃないわ。妃としてよ!」
興奮と喜びに少女はまぶしいほどに輝いている。
「私、絶対に幸せになるわ。皇帝陛下のこともきっと愛せる。とても素敵な方なんですって! いいえ、もう愛しているわ。だって私の嫁ぐ方なんだから。会わなくても分かる、皇帝陛下は私の半身なのよ。私が探し求めていた運命の半身なのよ……!」
未来がただただ明るいものだと信じて疑わない少女に、夢の中だというのにその青年は泣きたくなる。
「愛する人と添い遂げて一生一緒にいられるなんて、こんなに素敵なことってある? しかもお相手はこの国一番の方なのよ。ねえチュアル、私のために喜んでくれるでしょ?」
このとき青年は少しの胸の痛みを押し隠してうなずいてみせた記憶がある。だが今は痛みしかない。喜んであげることなど、ふりでもできない。
「そう、よかった。でもチュアル、私達はいつまでもお友達でいましょうね。私はお妃様になって、チュアルは大商人になって、それでもずっとお友達よ。……ねえ、私が後宮に入っても香の物だけは必ずチュアルから買うから。だって、チュアルからしか買えないこの香が私のお気に入りなんですもの」
少女は知らない。その香は少女のためだけに、青年自ら材料を取り寄せ調合しているものだということを。当時少年だった彼の、少女への愛が余すところなく匂うように作られたものだということを。その香りをまとって後宮へと去っていった少女の姿を、それ以来、青年は一度も見ていない。
鳥のさえずりに青年は目を覚ました。今日もいい天気だ。
そして今日もまた少女のいない一日が始まる。
青年をチュアルと呼んだ最後の少女は、もうこの世にはいない。
青年が心を分かち合える人はもうこの世にはいない。
今の自分は張温忠という名のしがない官吏補でしかない。
それでも青年は今日を生きるしかないのだった。
「この国の政治の特性上」と書いた部分は、第2巻最終章「3.心ここにあらず」で一度説明しています。湖国では皇帝が政治上大きな力をもっています。




