3.袁仁威の思考
巨船を眺めることに集中していた珪己は、突然仁威に肩を抱かれ、有無を言わさず手すりから引き離された。その手の力があまりに強く、となるとそのまま仁威につられて歩みを進めるしかなく。一度振り返って抗議しようとしたところ、思いかけずさらに強く引き寄せられ、転びかけてあわてて進行方向に向き直った。
橋を渡りきったところで、腕の中、身をよじってようやく仁威を見上げることのできた珪己の目には非難の色しかない。
「もう、一体どういうことですか! せっかく仕事に集中していたのに……!」
見下ろした少女の顔には発せられた言葉以上の意志や感情は見えない。
すると仁威はなんだか馬鹿らしくなった。
(……こいつ、本当に俺のことをなんだと思っているんだ)
第一隊隊長たる資格を有するだけあり、仁威は周囲の気配を読むことに長けている。周囲の女人から受ける視線の意味も十二分に分かっている。本人が望む望まないにかかわらず、仁威は自分が女人に好意をもたれやすいことを昔から理解していた。
仁威が武芸を学びはじめたきっかけも実はここにある。追い払っても追い払っても寄ってくる女共がうっとうしくて、女が立ち入ることのできない道場をいつしか休息の場とするようになり、気づけば武芸そのものにはまってしまったのである。そんな些細なことが今の自分へと繋がっているのだから人生とは数奇なものである。
だから仁威は今でも女がいそうな場では、侑生とは真逆の、無骨で無愛想な態度を貫いている。そうすればたいていの女は自分に近寄ることなどできなくなるからだ。たまに度胸のある女も現れるが、それは文字通り、飛んで火にいる夏の虫でしかない。二度と勝てる見込みのない勝負に出る気概も起こらないほどに、全てを容赦なく木端微塵に打ち砕いてきた。
今だって、こうやって珪己の肩を抱いて歩けば、集まる視線の強さは先ほどまでとは比べものにはならない。
妬ましさや嫉妬や羨望のうち、正の感情は仁威のほうへ、負の感情は珪己のほうへ。
女という生き物は本当に恐ろしい。なぜ自分と歩いているというだけで見ず知らずのこの部下を憎むことができるのだろうか。
しかし珪己はそのことに塵とも気づいていない。武芸者であるというのに、なぜだ。それに肩を抱いて全く意識されないというのもどうかと思う。
(つい先日は顔を赤らめていたくせに)
女の考えることは分かっているつもりだったが、珪己に関してはうまく読み切れない。知り合って間もないせいなのか、部下だからか……それとも楊家の娘だからか。
それに――。
(……さっきの視線には大した意味はないか)
珪己のほうに向ける視線の強さに警戒してあの場を離れたのだが……。
逡巡した後、仁威はその気を緩めた。
視線の主がついてこないのだから、恐れるようなものではないのであろう。
そう、仁威がこのところなぜ珪己のそばによくいるのかというと、『珪己の身に何かが起こる可能性がある』と思えるからだった。
王美人の事件に珪己は深く関与した。すでに事件は終焉しているが――仁威の勘は『ここで緊張を緩めてはいけない』と小さく警報を鳴らしている。
なんとなく不安が消えない。このもやもやとした感情には珪己が八年前の事変の被害者であることも影響しているのかもしれない。が、とにかく、しばらくは珪己のそばにいたほうがいいと仁威は考えている。それは仁威の行動を許可している楊玄徳も同じはずだ。他にこの任に就ける程度にこの件を知る武官はいないのだから、であれば仁威がやるしかないのである。
気が緩むと、無意識に珪己の肩を抱く仁威の手の力も弱まった。
するとそれを察した珪己の足がぴたりと止まった。そしてきっと仁威に振り返る。回していた腕は見事に振り払われた。その顔は上司に向けるには過度な怒りに染まっている。
「もう、仕事はどうするんですか! もう少し船を観察したほうがいいと思うんですけど!」
そう、なぜ二人が休日にこうして連れ立っているのか。
それは船渠と芯国の船を事前に観察しておくためであった。




