5.わらわの話を聞いてくれ
ふいに女官らのいる場所で騒がしさが生じた。
このところの彼女達は存在感を消すべきだと考えているかのように極力静かに控えていたから、それは珍しいことだった。
少し興味を惹かれて顔をあげた菊花の視界に入ったのは、まろびながらこちらに駆け寄ってくる一人の女官の姿だった。
「姫様っ! お文が届きました……!」
その女官も、背後に控える他の女官も、見れば満面の笑みになっている。まるで溺れた者の元に救いの船がやってきたかのような、喜色以外の何も見てとれない。
菊花はその女官の手にある文箱を見て、飾り紐や装飾の質に、瞬間的に立ち上がった。菊花こそが沈没者そのものだったから、駆け寄るや、我を忘れて手を伸ばしていた。
箱を開け、中の文を取り出し、菊花はその場で一心不乱に読み始めた。つり上がり気味の大きな瞳が普段以上に見開かれ、その視線はせわしなく文を上から下へ、そしてまた上へと動いていく。折りたたまれていた文が、土で汚れた菊花の手の上ではらはらと開かれていく。それは常であれば読んだ端から折り返されるはずが、今はどんどん長く垂れていくばかりだった。
菊花は鬼気迫る表情を隠すことなく文を読み――やがて読み終え、その両手をだらんと降ろした。片方の手にある開かれたままの文の端が地面に触れてしまったが、これに菊花が気づいている様子はなかった。
姫が待ち望んでいたはずの文が、なぜか姫を救う手だてとなっていないようだと、見守る女官の間に喜びから一転して混乱が広がり出した。
「一体どういうことなのかしら……」
「あの文は珪己殿からのものですよね……」
ひそひそと語りだす者達を女官長である江春が仕草だけでたしなめた――その時。
「わらわの話を聞いてくれ……!」
突然、菊花の切なる叫びが響いた。
すべての女官が一斉に菊花に向いた。
菊花もまた、女官たちに向かい合うように立っている。両足はふんばるように開かれ、両手は強く握られている。歯を食いしばり、目には涙が今にもこぼれそうなくらいに湛えられているのに、にらむように強く見据えている。
これほどまでに強い感情を見せる菊花をどの女官も知らなかった。驚愕とともに一身に全員の注目を浴びた菊花は、一度はっと息を吸い、けれどもう一度腹に力を入れて唇を引き締めた。
ふるえる菊花の手の中で、ぐしゃぐしゃになった文が力を与えてくれている。小さな姫が大きな挑戦をしようとしていることに、この時、女官長の江春だけは気づいていた。
「わ、わらわは……」
そこで菊花が一度大きく息を吐いた。
「ああ、まずは皆に迷惑をかけていることを謝らなくてはならない……」
「姫様。私達のことはご案じなさいますな」
江春が優しくうなずいてみせる。菊花はそれにうなずき返すとためらいながらもまた口を開いた。
「わらわがこのところおかしかったのは皆が知っていると思う。言えば皆に嫌な思いをさせることは分かっていたから。でも……でも皆にわらわの思うところを知ってほしい。聞いてほしい。……もう一人では無理なのだ。なあ、皆の者。わらわの話を聞いてくれるか?」
珪己の後押しがあるとはいえ、これを言うだけで菊花はもう全ての力を使い切っていた。女達の反応を気にすると、彼女達はお互いに視線をやり、うなずきあい、そして菊花に再度向き合い一斉に頭を垂れた。
「お聞かせください、姫様。お話を聞かせてくださるとのこと、私共にとって喜びにこそなれ、迷惑などと思うことは決してございません。私共は姫様付なのです。姫様をお助けしたいと、皆それだけを願っておりました。ましてや姫様とそのお心を共有できるなど幸い以外の何物でもありません。どのようなことであっても私共は拝聴させていただきます」
代表して答えた江春に異をとなえる者は誰もいない。言葉がなくても、頭を下げ顔が見えなくても、皆が江春の言葉どおりの心を持ってその場にいることは明らかだった。
菊花はもう心を抑えることなどできなかった。
ぽろぽろと涙があふれて頬を伝っていく。
「……外に出たいんだ」
言ってしまえば、もう後は止まらなかった。
「わらわは外に出たいのだ! もう後宮だけで過ごす毎日が嫌なのだ! 外に出て自分の目でいろんなものを見てみたいし、書物にはないことも知りたい! もう何も知らなかった自分には戻りたくないのだ! ……でもわらわがそれを望んではいけないことは承知しておる。父上や母上を困らせる。分かっているのだ、分かって……」
最後は力なくつぶやくようだった。
うなだれる菊花に、やがて声がかけられた。
「姫様……」
「姫様……ありがとうございます」
見れば、居並ぶ女官の目にも涙が光っていた。おいおいと声をあげて本格的に泣き出した者までいる。
「それは……うれしくて泣いているのか?」
思わず尋ねた菊花に、誰もが涙を止め、揃ってにっこりと笑った。
「はい、そうです!」
揃った明瞭な肯定に――菊花も自然と笑っていた。
(聞いてくれる人がいるというだけでこんなにも心が軽くなるのだな……)
事態は何も変わっていないというのに、菊花の顔には久々に笑顔が戻っていた。
そのとき、江春のそばに新たな女官が寄り何やら耳打ちをした。聞き終えるなり江春がその顔をきりりと上げた。
「姫様、先ほど皇帝陛下が胡淑妃の元へ参られたそうです」
告げられた言葉に菊花が思案する間もなく、誰かが声を発した。
「姫様! 今から私達も胡淑妃の元へ参りましょう!」
すると触発されたかのように次々と声が発せられた。
「そうです、参りましょう!」
「お二人にも今のお話をしましょう!」
「お二人も姫様の話を聞きたいと願っているはずです!」
「……そうか?」
自信なさげに問うた菊花に、皆が拳を握りしめて力説した。
「そうですわ!」
「たとえお話を聞いてそのお心を痛めようとも、それでも姫様に心を開いてもらえることのほうが喜ばしいに決まっております!」
「そうです!」
「絶対にそうです! 私たちがそうなのですから!」
菊花はその手の中でつぶされた文に目をやり、それから自分に向かう女官らに視線をうつした。
(……ああ、珪己。わらわは大丈夫だ)
珪己の文を思い出す。
『それでも姫様のほしい答えを得られず絶望されてしまうのであれば、その時こそ私の出番となりましょう』
(たとえ父上と母上に悲しまれようとも、もう絶望することなどない。わらわにはこうやってそばにいてくれる者がいるのだから……)
*
その後すぐに菊花率いる面々によって、胡淑妃の室が奇襲された。突然のことに驚きしかない父母に、菊花は自身の味方を背に力強く己の内を語った。父母がさらなる驚愕をその顔に見せたのは一瞬のことで、母は泣き笑い、父は娘を抱きしめた。




