2.皇帝であること
「英、今いいですか」
問われ、英龍が顔を上げると、扉のそばに異母弟・趙龍崇が立っていた。その龍崇がためらった後、広い袖の中から文箱を取り出した。
龍崇の表情と文箱に添えられた少女趣味かつ素朴な飾りから、英龍は送り主とその文を受け取る者のことを思い、ふっと顔をほころばせた。
「そうか、よかった。菊花も喜ぶだろう」
それでも龍崇がまだ腹に何かを隠している様子に気づくと、英龍は小さく手を振った。
「いや、いい。それはそのまま菊花に渡してやってほしい」
「いいのですか? お読みになられたほうがよいのでは?」
最近の菊花の一喜一憂の源は突き詰めれば楊珪己の文にある。
菊花を今以上に悪い方向に連れていくこともできるほどの破壊力を、この新しい文が有していてもおかしくはないのだ。
そして菊花は普通の幼女とは異なる。簡単に言えば常識が通じないしひどく純粋なのである。その齢で両親のために自分の命を差し出そうとするくらいに。そして菊花は唯一の息女であり、この国でもっとも尊い幼女なのだ。
であれば、菊花に渡す前にこの文の中身をあらためる必要があるのではないか。龍崇はそう言いたいのである。
英龍は手に持つ筆を硯の上に置くと、その両手を机の前で組んだ。
「それはしてはならないことだ」
射抜くような瞳に皇帝が持ち得る正道と倫理の光が映る。
それでも異母兄である皇帝を想う龍崇は、しばしその瞳と向き合った。
――先に視線をそらしたのは龍崇のほうだった。
勝てる要素など初めから一つもない。
「……分かりました。出過ぎたことを申しました」
「いや、崇は余のために言ってくれていることが分かっているから気にするな」
英龍は龍崇のために笑ってみせた。
「なあ、崇。実は余だってその文を読みたくないわけではないのだぞ」
「そうなのですか?」
「そうだ。余は父なのだから娘には一つの害も与えたくはない。そして余は皇帝である。息女を護ることは余の責務だ。……ああ、こうして言ってみれば、余は二つの立場からしてその文を読むべきなのかもしれんな」
だがな、と英龍は続けた。
「一度読めば二度読みたくなるのが人の性だ。そして一度犯した罪はな、暴かれなくとも余の心に永遠に刻まれる。そうすると余は正しい道を歩む皇帝としてふるまえなくなる。……なあ、崇よ。余がなぜこうして皇帝でいられるか分かるか」
突飛に思える質問に、
「それは当然、その高貴なる血と、そしてこの十年、あなたが成した数々の業績によるものでは」
と龍崇が答えると、英龍は「違う」とその笑みを消し、右手で自身の胸を強く叩いてみせた。
「それは余が、余自身を皇帝であると信じているからだ。余がこの黄袍に身を包んでいるからなどでは決してない。余が自分のことを皇帝にふさわしい人間ではないと思えば、いつでもこの場所を他の者に譲り渡す覚悟はある。だからその文は読まない」
正道と倫理。
皇帝としてふるまうべきこと。
英龍は自分のことを立派な人間だとは思っていない。自分よりもこの異母弟や胡麗、楊玄徳や柳公蘭のほうがよほど出来た人間だと思う。
だが、皇帝に任じられているのは英龍なのだ。
即位したからには理想的な皇帝としてふるまうことを、英龍は己に課してきた。麗や菊花に対して器用にふるまえない自分だからこそ、せめて皇帝としては正しく誠実でありたいと思っているのだ。
(――それが英なりの己に課した罰なのか)
目の前の異母兄の願いがどこまでも真摯であるからこそ、龍崇は痛ましさを覚えてしまう。
「……ああ、それ以上に、余は菊花や麗の信頼を失いたくないんだな。あの二人の前で心から笑うことができなくなるようなことはしたくないのだ」




