8.君の愛は、愛すべき人に捧げるものだ
龍崇は楊珪己に今まで以上に興味を持った。まったく、これまで幾多の経験をし様々な人種と出会ってきたと思っていたが、まだこの世には自分の知らないことがあるらしい。
とはいえ龍崇はその転機――楽院で聞いた琵琶の音のことまで珪己に話したいとは思わなかった。それは龍崇が大事に隠し持っているたった一つの無形の宝だからだ。
それでもこの少女の難題が予測できたので、龍崇は少しの助言と気休めを与えることにした。
「君はそいつのことを好きなのかどうか分からなくて、なのにそういうことをしてしまって混乱しているんじゃないのかい」
珪己の目が限界まで見開かれた。
「でもさ、君はそいつのことを嫌いじゃないんだろう? だったらいいじゃないか」
龍崇はさらりと言う。
「もしかして気持ち悪かったり痛かったりした?」
問われ、思わず素直に首を横に振った珪己は、とたんに真っ赤に顔をほてらせた。面白い位に純真な反応も、龍崇にはここのところご無沙汰で興味深くすら感じる。
「じゃあ何か問題あるの?」
端的に問われ、珪己が無言で首を傾げた。本心から言葉の意味が分からなかったからだ。その態度に龍崇がややいらついた顔になった。
「そいつが君のことをどう思っているかは分からないけど、君とそういうことをしたいと思って何が悪いの。君も一応は立派な女人でしょう? それにいつまでも後生大事にとっておくものじゃないって、前に言ったよね。せっかくもらってくれて、しかも気持ちよかったんなら何の問題もないじゃないか。逆に君はそいつに感謝するべきだよ。私なんかを相手にしてくれてどうもありがとうってね」
(確かに龍崇様はそういうことを言う人だけど、でも相手はあの侑生様なのよ……?)
納得できないものがあり唇をかみしめ思案し始めた珪己に、
「だから考えなくていいんだって」
龍崇が整えたばかりの珪己の頭をぺちんと軽くたたいた。
「考えたって分からないから。君にできることは、そういうこともあったんだって軽く流すか、そいつを徹底的に問いつめることだけだよ。でも君に李枢密副使を糾弾する度胸も頭脳もないだろう?」
「そうなんですよ……って、なんでそこまでご存じなんですか?」
まだ昨夜のことなのに。それにまだ誰にも言っていないのに。
珪己の驚きに「馬鹿にするな」と龍崇が眉間にしわを寄せた。
「僕は妓楼で育ったんだよ。人の色恋に関する感情の機微くらい読めるし、体の変化も見れば分かる」
「体の変化?」
「君の首筋にはうっすら痕がついているし、唇は厚ぼったくなっているじゃないか」
「そ、そうですか?」
とっさに首と唇に手を当てた珪己に「そうだよ」と龍崇がさらに眉をしかめてみせた。
「さっき朝議で見た彼も同じような唇をしていた。しかもやけに楊枢密使のほうを気にして落ち着かなげだったしね」
龍崇の指摘するこれらの証拠は、実は龍崇だけが気づいている。実際には二人の唇は翌日ともなればほんの少し腫れているだけだし、珪己に残る痕も見逃してしまいそうなほど些細なものだ。
それに侑生は冷静沈着に振る舞う術を心得ている。侑生の変化に気づくことができるのは、龍崇が人の心の変化を感知することを得意としている所以だ。特に色恋については、この宮城において龍崇の右に出る者がいるわけもなく。
口も滑らかに語る龍崇に、珪己は恥ずかしさを通り越してひどく感心した。
「……龍崇様、すごい。それはもう立派な特技ですね。今度からは龍崇様のその女たらしは馬鹿になんてしません。ただひたすら尊敬するだけです」
きっぱりとそう言い、言葉通りの瞳を向ける珪己は、先ほどの龍崇の生い立ちを聞いたうえでのこと。つまり、それだけいつでも前向きに物事をとらえようとする、これこそが珪己の性質なのである。
それは龍崇にも伝わった。なぜなら珪己の表情も澄んだ瞳も、全てにおいて嘘がない。話を理解できない馬鹿でもない。会話した内容を単純に受け入れた気配が伝わってくる。
自分のことを理解し、かつ良いように受け止めてくれる存在もいるのだと龍崇は初めて知った。
(どうやら僕は無意識にこの子のことを試していたのかもしれない)
思い当たるとなぜか切なくなった。だからあえて軽く提案した。
「じゃあ君には僕が恋の指南をしてあげよう。僕のことを師匠と呼んでもかまわないよ。さっそく今夜あたり実践しようか」
恭しく手を差し出したところ、珪己が心底嫌そうに眉をひそめた。
「いえ、けっこうです」
これだけにべもなく自分を断る人も珍しい。
でもこの少女ならそうするだろうと思っていたから、当たったことがひどくうれしい。
「じゃあ、君の師匠からの忠告」
「だから、師匠なんかいりませんって」
「いいから聞きなさい、大事なことだから。いいかい、君の愛は、愛すべき人に向けられるものだってことを忘れてはいけないよ。いついかなる時でも忘れてはいけない。いいね?」
「愛すべき人……ですか?」
突然の話の変化に珪己はついていけずにいる。
「それはどういうことですか?」
「どうも何も、楊枢密使の娘である君なら分かっているだろう? 君はいくら恋をしてもいいし遊んでもいい。李枢密副使とだって、僕とだって、誰とでもいいよ」
「だから……!」
ぐっと拳を握った珪己を龍崇が制した。
「だけどね、君は最終的には定められた運命に従って、定められた人と婚姻しなくてはならない。それが上級官吏の娘として当然の道だ。違うかい?」
「……いえ、違いません」
「そうだ。確かに誰かを好きになったり恋をすることは悪いことじゃない。それらは君を成長させるだろうし、多くの喜びや快楽を与えてくれるだろう。けどね、それらすべては君だけが享受するものなんだ。だけど君は上級官吏の娘だ。いいかい、君は君に与えられた運命を忘れてはいけない。君の人生は君一人のものじゃない。君の愛は、愛すべき人に捧げるものだということを絶対に忘れてはならないよ」
龍崇の顔にはまだ笑みがみられた。しかしその瞳は真実を語る者のみがもつ色を有していた。
珪己は龍崇に向き合うと姿勢を正した。
「はい、忘れません。もとより私もそう思っています。私にとっての愛とはそのようなものですから」
その模範回答に、龍崇は深くうなずいてみせたのだった。




