4.溶解寸前
一つの悩みに希望の道筋が見えれば、放置していた別の悩みが頭をもたげてくる。温忠のつぶやきにも近い一言は珪己に昨夜の現実を直視するよう厳命してきた。
珪己は燃える書類を枝でつつきながら、あらためて昨夜の出来事に思いを馳せていった。
正直、珪己には昨夜何が起こったのかさっぱり分かっていなかった。
侑生と剣を交えた時間はすごく楽しかった。
間近で見た侑生がすごくきれいに思えた。
いつもと違うその瞳の色の理由を知りたくなった。
――それだけだったのだ。
(……で、なんでそれがああいう展開になっちゃったわけ?)
ここまで思い起こせば、次に脳裏によみがえるのは侑生によって与えられた感触ばかりである。
額に眉、まぶたに頬、そして唇――。
それらのすべてが刺激的すぎて、なかなか次の思考に移ることができずにいる。
考えることすらできないから、その都度自分の中で蓋をするわけだが……考えないでいられるほど平静でもなく。
だがそうやって何度もあの夜に思いを馳せていたら、あの時の感触と感情はどんどん膨れ上がっていくばかりなのだ。
「はあ……」
珪己は溶解寸前の頭をかきむりしながら、それでも条件反射で炎に書類をくべていった。
ひっそりとした庭は人の出入りが皆無で、もうほとんど珪己専用の場所となっている。ぽかぽかと暖かく、今日もうっとりするような陽気だ。
空は清い水のように透明感のある青で、綿のごとき雲が軽やかに空に浮かんでいる。白や黄色の蝶がでたらめな動きでのんきに飛んでいる。草木や花々の色濃さは目にも眩しい。初春の華殿で驚愕した美しさとはまた違った魅力がここにはある。
何も考えずぼんやりと日光浴でもしていたい誘惑は、真冬の布団のようだと珪己は思った。いや、それを理由にして検証すべきことから逃げたいと思っているだけなのだろうか……。
「……何をしているのかな?」
気づけば、炎の前に座る珪己のすぐ隣に、同じく座り頬杖をつく趙龍崇がいた。こぶし一つ分ほどの距離で近寄っているその顔は、美しいがゆえに今の珪己には見事なまでに着火剤となった。
「わわっ」
今朝方の仁威のときのように思いきり後ろに下がったが、そこは龍崇、彼は珪己がものの見事に後ろに倒れるのを、頬杖をついたまま眺めているだけだった。
盛大な土埃がたちこめ、珪己は頭から薄茶の砂にまみれた。驚いた蝶が俊敏な動きでひらりと避けて遠ざかっていく。
龍崇が眉をしかめ、裾で顔を覆いながらもう一方の手で土埃を払った。
「僕は汚れるのは好きじゃないんだけどな」
倒れたまま、珪己は龍崇をじろりとにらんだ。
「……私だって好きじゃありませんけど」
「いつまで寝ているの?」
(この人、助け起こしてくれもしないんだ!)
憤然とし、珪己はその感情を隠さず黙って一人で起き上がった。その俊敏さと軽やかさはさすが武芸者というべきか。ぱんぱんと軽く体を払い、仏頂面で炎に再度向かう。
「何を怒っているの?」
「怒ってなんかいません。やっぱり龍崇様らしいなとあきれているだけです」
「あ、そうなんだ。怒ってないんだ。それはよかった」
珪己の言葉を額面通り受け取った龍崇がにこりと笑った。
(まったく、この人には嫌味も通じないのかしら)
龍崇があまりに無邪気に笑うので、珪己も怒っている自分が馬鹿らしくなった。結局、珪己が龍崇のことが憎めないのは、彼が本心を珪己に語っていて、その言葉に珪己を傷つける意図など毛頭ないからなのだ。




