2.李侑生の戸惑い
「そうそう。昨日はありがとうね」
朝議も終わり枢密院へと戻る道すがら、楊玄徳にそう言われた侑生は、その真意が分からず目をしばたいた。
本当は昨日の今日で、珪己の父である玄徳の前でどうふるまえばよいかを侑生は決めかねていた。それでも職務を遂行することは義務であると、己を叱咤してようやく登城した有様なのである。隼平と良季、二人が室に入ってきたときも、侑生はまっとうに仕事をしていたわけではなかった。先ほどまでの朝議でも、隣に立つ玄徳が気になって落ち着かなかった。
珪己が玄徳に何かしら打ち明けていてもおかしくないし、玄徳であれば娘の機微にうといわけがないとも思うのだが……と、動揺を押し隠しつつ思案する侑生に、前を歩く玄徳はその背を向けたまま朴訥と続けた。
「なんだか今朝の珪己はすっきりとした顔をしていてね。朝稽古でも武芸を続けることがなんとなく分かってきたと言っていたし。本当によかった」
顔を見せずとも、玄徳のその言葉に嘘偽りはなく、心から娘の回復を喜んでいることが分かる。
それに侑生は正直ほっとした。雛鳥が親を慕うがごとく、やはり侑生は玄徳に嫌われては生きてはいけないのだ。巣立ちするよう示唆されてはいるが、いまだ準備も決意もできていない。昨夜珪己に触れる際に覚悟したはずの玄徳との離別は、しかしこうしてそばに立ち戻れば見る影もなくしぼんでいる。玄徳とともに過ごした長い時は、もはや侑生の一部と言ってもよかった。
ほっとしてはいたが――侑生の内には少しもやっとした気持ちも生じている。
(珪己殿にとって昨夜のことは意味がないことだったのか……?)
疑似とはいえ恋愛豊富な侑生にとっても、昨夜の体験は身も心もしびれるような特別な出来事だったのに。
まだこれが本当の恋かどうかは、侑生自身にも分かっていない。一晩かけても答えはでなかった。だが特別な一夜であったことは確かなのだ。誰の目にもさわやかな朝だというのに、その思い出に少し触れただけで、今でも心がざわめき体が反応するほどに――。
「……侑生?」
気づけば、前を歩いていたはずの玄徳がその足を止めて振り返っていた。
「そ、そうですね。よかったですね」
「どうしたんだい?」
見つめてくる玄徳の瞳があまりにも澄んでいて、侑生はこのまま頭を下げて何もかもをつまびらかに打ち明けたい衝動にかられた。昨夜私はあなたの娘に……と。が、すんでのところで押しとどまった。
(……そうだ。玄徳様は私の神ではないんだ。これは私と珪己殿のことだ)
侑生は腹に力を入れ、にっこりと笑ってみせた。
「いいえ、なんでもありません。昨夜は少し暑くて寝苦しかったもので寝不足なだけです」
「そうかい?」
「はい。さあ、枢密院に戻りましょう。今日もやるべきことはたくさんありますから」
それに玄徳もほほ笑み返し、背を向けてその歩みを再開した。ただ、その玄徳の表情は若干変わっている。
(ふむ……侑生は何かを私に隠しているな。君のその笑顔が偽物だってことぐらい私には分かる。それには珪己も関係しているのかな)
(……まあいいだろう。侑生はようやく私という呪縛から抜け出そうとしているようだし、珪己はああやって自分を取り戻しはじめている。何の問題もない)
玄徳に一つ分かっていなかったことがあるとすれば――それは二人が年頃の男女であるということだけだった。




