毒婦
毒の話
目を覚ますと想い人が――正確には人ではないが――目の前で眠っていた。ああうつくしい、と傘戸は満足げに口元だけで笑んだ。目を見開いているのは彼が彼女の前にいる時点でもうどうしようもない。
彼女がうつくしい、それだけで彼の世界は薔薇色だった。彼は彼女がなによりもうつくしいと信じて疑わなかった。はじめその奇異な姿に惹かれたのは認めるにせよ、今の彼にとっては彼女が存在するそのことこそが美しいが故に外見などは微々たる修辞でしかない。
雪のような髪と肌に、今は隠されているが瑠璃の瞳は見る者を魅了する。少なくとも自分はそうだと傘戸はじっと、その未だ開かない瞼を見つめる。
その瞳は、獲物を捕らえるときに朱に染まる。昏く光る鬼灯色、そして自分もよく知る蛟の姿へと変化した彼女に、ああ、なんとうつくしい人なのだろうと傘戸は陶酔する。人間の姿も美しいが、蛟の姿もうつくしい。同じ(正しくは同じではないけれど)蛟である傘戸は、神々しく賤しくもあるその姿をも愛していた。
傘戸は彼女のこころの内と本当の名前以外を、ほとんど知っている。いつどこでだれとなにをどのようにしたのか。傘戸は知っていた。相手の男に嫉妬はしなかった。だって彼女はうつくしいから。
彼女を見つめる行為――ずっと昔から続けてきたその行為に飽きることはないが、起きたらすぐ発つだろう彼女の為に、下ろしっぱなしの長い黒髪を結い始めた。それから、枕にしていた山吹色の長い布を、頭から首にかけてぐるぐると巻く。
「おい」
不意に背後から掛けられた声に振り向くと、そこには黒髪の娘が立っていた。常と変わらぬ白痴美であるが、傘戸がそれを認めることは終ぞ無かった。何故なら傘戸がうつくしいと感じるのはただ一人のみだったからである。
傘戸はほんの少し眉を顰めた。
大蛇の小娘、と呼ぶ。傘戸はこの娘をこうとしか呼ばなかった。彼女が付けた名である「九条」も、なるほど彼女らしいし、彼女の好いた娘の名を呼ぶこともまた愛に当たるのかもしれないが、残念ながら傘戸は、そこに思い至ってはいたが、どうにも娘を名で呼ぶことをよしとしなかったのである。
それは紛れもない嫉妬であった。傘戸はこの娘だけには嫉妬をした。
彼女はこの娘を「家族」と呼んだ。それが腹立たしかったのである。彼女はどんなに惚れた男であろうとも最後には食ってしまう。その度に泣いてはいるが翌朝にはけろりとしているのが彼女の常だ。しかしこの娘に関してはそもそもが違う。惚れているのではない。血肉になるわけでもない。敢えて言うのならばそれはやはり愛だった。
彼女に家族はいない。母親は死に父親は彼女を捨てた。傘戸はそれを知っていた。昔、彼女を見かけたときに知った。だから彼女がいつだったか大蛇の小娘を家族としたとき、騙されてはいけない、と半ば、それこそ親のような気持ちで思ったのかもしれない。
傘戸は母親こそ死んでいたものの、乳母のような存在があったし、父親も叔父もいた。叔父は東の蛟一族の長であった。跡継ぎ争いやら何やらの渦中にあって、血の繋がりなど権威を示すだけのものではないかと痛感した。叔父は血の繋がりを持つはずの傘戸にあまり口に出したくないような狼藉を行うし、従兄は一族を捨て神と駆け落ちする始末だ。実際の血族でさえこうだ、赤の他人の繋がりなど吹けば飛ぶようなものではないのか。
傘戸は娘を毛嫌いしていた。それは無理もないものであり、覆ることもない。
「喰え」
九条は傘戸の顔に向かって何かを投げつけた。ぐしょりと湿っているし冷たいし生臭い。摘み上げてみれば魚である。近くの清流とも呼べる渓流で獲ったのだろう。びっちびっちと身を苛む熱から逃れようと、必死に体を動かしている。
「もう七日もまともに喰っていないだろう。喰え。貴様は私やスイレイさまと違って、その姿では喰わんと死ぬ」
純血だからな。
そう言うと九条は黙って踵を返した。やれやれ、妙なところで人間臭いのは半分人間の血が入っているからだろうか。
傘戸はばりばりと骨ごと魚を咀嚼する。咀嚼しながらぼんやりと考えた。自分が嫌うのと同様に、或いはそれ以上に強烈に、九条には嫌われている。好かれているわけはないだろう。九条という娘は区別が行き過ぎて「大好き」と「大嫌い」以外には無関心である。なぜ助けるような行為に出たのかは知らないが、どう考えても傘戸は「大嫌い」に分類されているらしかった。嬉しいような嬉しくないような。
スイレイに関係する事柄以外には慧眼を持ち、頭脳も明晰である傘戸だが、混血という捻じ曲がった存在を理解することは出来なかった。だからこそスイレイを愛し、だからこそ九条を毛嫌いするのである。
しかしこれは生臭い。清流の川魚とはいえ魚は魚だった。生きたままの魚を喰い終えると、流石に気持ちの悪い口内を漱ぐために川へと向かう。
そこでは九条が手を洗っていた。見れば、川幅の狭いところで石が積み重なり流れを堰き止めている。ますますもって理解できない。
傘戸は九条の三歩左に立って話しかけた。
「ありがとうね、不味かったよ」
「それは良かった。寄生虫にはらわた食われて死ね」
ひどいなあ。小気味良い罵りに、傘戸は微かに目を細め笑う。九条はそれを見て驚いたように目を見開き、口の中で何某か呟く。傘戸は首を傾げた。今は何より口が気持ち悪い。口をゆすぐと、少しだけすっきりした。口の中にちょっと残った小さな鱗をもごもごと舌で剥がす。
少しだけ、気分が良かった。傘戸は無邪気に口を開いた。
「スイレイさまはさ、うつくしいんだよ」
「ああそうだな、それがどうした」
流すような様子の九条の様子を横目で窺いながら傘戸は続ける。
「何よりもうつくしい、だから僕らみたいなのには手が届かない。雲の上のひと、高嶺の花、いやいや寧ろ霞に千鳥。いるかどうか、それすら分からないひとだ。何からも黙殺され何にも属さない、故にうつくしい。その混じった血を否定する気なんかさらさら無いし、それがなければ彼女じゃない、それくらいは理解しているつもりだ。たとえ愛されなくたって、たとえ殺されたって、僕はスイレイさまを愛し続ける。恋し続けるよ。僕はいつまでもこうしてはいられない。僕は純血であったことを一生涯恨み続けた。住む世を変えようと恨み続けるだろう。いずれにせよ、きっとこれが最後だ。大蛇の小娘、僕はスイレイさまに何も求める気はないからさ、だからもう少しだけ、一秒でも長く、スイレイさまと共に生きさせてくれ」
九条はきつく傘戸を睨み、暫くして口を開いた。
「勝手にしろ」
傘戸はまた微かに笑った。
先程の場所に戻ると、スイレイは起きていた。ただし体は横たえたままである。
「おはようございますスイレイさま」
話しかけるとスイレイは傘戸をちらと見て、それから口角だけを器用に上げて「おはようございます」と返した。静かに歓喜し何の意味もなく鉄扇を開閉し始める傘戸を横目に見ながら、九条もスイレイに話しかけた。
「歩けますか」
スイレイは垂れ気味の目を少し細めて「少しなら」と言うが、彼女の「少し」は毎度程度が違うので九条は逡巡した。歩いたところでスイレイの主食である男を安全に喰えるわけでもない。しかし留まっていても仕方が無い。九条は、じゃあ行きますよとスイレイの手を取った。ひやりと冷たい手だった。そういえばそろそろ風の冷たい季節になる。
「傘戸」
スイレイは立ち上がると、ゆるりと傘戸を振り返った。そこに表情はない。瑠璃の瞳は、傘戸の琥珀の瞳を覗き込むように捉えると、緩やかに笑んだ。
「お前は、私に惚れるべきではありませんでした。私は自分に惚れた男を愛すことはありません。愛し合うことはないのです。それは出来ないのです。……食べられなくなるから、ね」
傘戸はぱちりと一つ瞬きをした。そうして、ああそうか、となんとなく全てを察した。
彼女は生まれた時から疎まれていた。愛されることを知らない彼女に残ったのは虚無だけで、名前も居場所も存在をも奪われた彼女は何も知らない。残った本能の欲、その延長線上にある愛と食欲が限りなく近いのはその所為であった。唯一の望みで絶対の目的が、永遠の愛の享受である故に。
彼女は誰より不遜で誰より気高く誰より傲慢で誰より寂しく誰より不幸で誰より恐ろしく誰より卑賤で誰よりうつくしかった。紛れもなく。
傘戸は言う。
「それでも愛しています。あなたは誰よりうつくしい」
だからどうか。その後に続く言葉を傘戸は持たない。彼は彼女に何も望まない。愛するだけ、見つめるだけで彼は幸せだったと言える。彼女がうつくしい、ただそれだけで。
スイレイは琥珀の瞳から目を逸らした。
「戯言を」
僅か一刻後、スイレイは空腹で動けなくなっていた。人里まではまだ遠く、周りに人の気配は感じられない。迷子と言っても差し支えなかった。青白い顔で唸るスイレイの腹は、どうやらもう腹の虫さえ鳴く気力を無くしたらしい。今まで主食の男が食べられない空腹を甘味で誤魔化していたのだが、それも限界のようだった。
「もう少し歩けますか」
「無理です」
九条の問いかけに蚊の鳴くような声で答えるスイレイの前に、傘戸が歩み出た。
「スイレイさま」
瑠璃の瞳と琥珀の瞳が、再びそれぞれを映す。
傘戸は笑んでいた。歓喜に満ち溢れた顔で、言った。
「でしたら、私めをお食べください」
九条がはっとしたように傘戸を見た。そこにあるのは驚愕と恐怖、それから困惑であっただろう。傘戸の言うところの人間臭さである。しかしそれを全く意に介することなく、傘戸は続けた。
「あなたに殺されることほど、嬉しいことはございません。あなたの糧となることほど、嬉しいことはございません」
そこにあるのは純粋な歓喜である。無邪気な歓喜とは言い難かったが、そこにあるのは確かに、純なる歓び、喜び、悦び、慶び。
「……そうですか」
スイレイが吐息をひとつ漏らした、次の瞬間には、二人の唇は重なっていた。
傘戸の視界には最早スイレイしか存在しない。苛立つことも憤ることもない。肌に浮く鱗は、彼にとっては最も甘美な、スイレイの毒の証。ある意味では愛の証である。無論、彼から彼女への。
傘戸は倒れた。次いで歓喜に満ち満ちた笑い声が、深い森に響き渡った。既に呼吸もままならない傘戸は、もう殆ど視界を失っていたが、ゆっくりと、そこにいるはずの彼女に手を伸ばした。
「スイレイさま……愛しています。ずっと、これからも」
見えないはずの瑠璃色が笑んだ気がした。
「ごめんなさい、好みじゃないの」
ああ、やはりあなたは、うつくしいひとだ。
傘戸の最期の言葉を聞き届け、スイレイは何の感慨もなく彼の懐を漁っていた。彼女からすれば何より疎ましい、地位を持つ純血であり、愛することは出来ない存在である。そんなスイレイを、九条はじっと見つめていた。感情の読み取れない、常の白痴美である。人間臭さは、消え失せていた。
「やっぱりと言いますか、嫌いな男は不味いですね。……さて九条」
「はい」
「口直しに、団子屋にでも行きましょうか」
銭束を鳴らして、瑠璃色が笑んだ。