珍事
傘戸の話
今日は厄日だろうか。
店の床几に腰掛ける二人の女を眺めながらこっそりと溜め息を吐くと、少し歳の離れた気の強い家内に、手にした盆でぽこっと頭を殴られた。お客さんに失礼でしょうがって、そんなこたあ分かっている。しかし出てしまった溜め息は戻らない。
二人の奇妙な客は気づいた様子もなく談笑しながら、というより、一人が一方的に話しながら、団子と茶を口に運んでいる。ほっと息を吐く。ああ、違うってお前、溜め息じゃねえっての。
人里から少し離れた、山の手前にある一つの茶屋。夫婦二人で営む小さな店だが、関所が近く、お陰さまで何とか生活は出来ている。ちょっぴりのいざこざは生きていく上仕方がない。面倒な客だってそれなりにいる。
まずは一人の容姿に仰天した。背の高い方の女だ。まず、真っ白な髪でそのくせ俺より年若らしく、肌にはシミや皺も見受けられない。白子、にしては目は深く青く、異様だった。なんだこいつは、と口には出さなかった俺を褒めてほしい。家内曰く顔に出ていたようだが。
その女の連れは年頃の娘という風情で、艶々した黒髪に茶色の瞳。口元を粗布で隠している以外は、ごく普通の娘に見えた。
しかし、注文を受けるためにその二人に近寄ると、この娘の方も何やらおかしいということが分かった。赤みがかった茶色の瞳にある瞳孔が、針のように引き絞られている。兎角人間のそれではない。
何事もなく帰ってくれりゃあそれでいい、そんな風に思った矢先である。ふと視線を向けると、床几から二人の姿が消えていた。
床几の上には、空になった湯呑と皿が二つずつ。ああ、これは、
「──食い逃げだ!」
男の怒声が聞こえた。
食い逃げ、という単語に木の洞から出、首を擡げて視線を巡らせれば、最愛のあのひとの走る姿が見えた。
ああ、うつくしい。白銀の髪が風になびいてきらきら光る。そのひとが、森へ飛び込んでくる。
その後ろから一人の男。あの怒声の主であろう。その男が、彼女の胸ぐらを掴む。あ、と思ったときには、彼女の瞳は鬼灯色に、肌は鱗が浮いていた。
そこに近づくために慌てて人に化けると、自分の視界が、赤くちかちかと点滅するような感覚を覚える。僕はこれを知っている。毒だ。これが彼女の、甘美な毒。くらくらする。
ああ、あの男、なんと煩わしい。妬みや嫉みではない。ただ煩わしかった。自分の視界へ入るその人間が。うつくしくない。お前は所詮、この世のものだ。天上であり地獄であり何者でもない彼女と並ぶなど、ああ、烏滸がましい、差し出がましい、身の程知らずめ。
彼女が毒を注ごうと、男に接吻を迫る。
「はあい、そこまで」
男と彼女を、扇子でもって切り離す。懐から銭を出して男に握らせて、無理やり背中を押して帰らせる。存外男はすんなりと帰っていった。商売人というのは割り切りが良い。
「スイレイさま。食い逃げの度に人殺してちゃあ、そのうちみぃんな商いやめちゃいますよ」
「……貴男、お名前は?」
嗚呼、嗚呼!
初めて、初めて彼女の視線が、意識が、心が、言葉が、こちらを向いた。歓喜に打ち震える胸、自然と上がる口角。彼女の足元に跪く。
「傘戸と申します。スイレイさまには、お初にお目にかかります────ずっと前から、お慕いしておりました」
そう、彼女を、スイレイさまを初めて目にしたあの日。叔父の棲家に、まだ幼さの残る彼女がやってきたあの日。
木の陰から盗み見た彼女は見たこともない色をしていて、どこまでもうつくしかった。自分はもっと幼く、美しいものなど知らず、その基準もなく、ただその時見た彼女をうつくしい、と思った。幼い、それ故に強烈で鮮烈で純粋な感情は、今はただ強く強く育っていた。うつくしさ、とは即ち、常軌を逸するものであるとこの心は解釈し、彼女を崇め奉り恋い焦がれるように求め続けた。手に入れたいわけではない。うつくしいものをずっと眺めていたいだけである。
「おい。貴様、何者だ」
彼女の前に、小娘が庇うように出、刺々しい声で問う。視界に入っていなかった。彼女に付き従い彼女を崇拝する、自分とよく似た、また彼女に愛された、実に憎々しい小娘である。
この小娘の何が良いのだろう。スイレイさまは混血が好きだ。というよりも、好みの男以外の純血が嫌いだ。自分とよく似たふつうの黒髪、それが疎ましい。山の神と駆け落ちした従兄の息子はまだ幼子であるが、うつくしい白銀であったか。そちらの方が余程ましであるのに、と思う。あれだって混血だろう。なぜこうも違うのか。やはり神と人は何もかも違う。
みすぼらしい。この小娘も、僕も。
「大蛇の小娘に用はないよ」
そう言えば小娘は青筋を立てた。その小娘を遮るように、スイレイさまが一歩前へ出て口を開く。
「傘戸とやら」
その顔は笑んでいた。が、何、こちとら三百年も彼女を見つめている。作り笑いであることはすぐに分かった。表情は怒気を巧妙に隠して、しかし語調にはそんな気遣いは全くせずに彼女は言う。
「九条は私の大切な家族の一員です。貴男に見下される謂れはありません」
「……申し訳ありません、スイレイさま」
頭を垂れれば少し呆れたような吐息が頭上から聞こえた。
「それにしても、随分酔狂ですね。私を慕うと?」
「酔狂などではありません。貴女はこんなにもうつくしい」
即座に否定し、その雪のように白く冷たく柔らかな手を取り、瑠璃の瞳を見つめると、彼女は少し困ったように笑った。小娘が烈火の如く怒り出すのを横目に彼女を眺めているのは、実に幸福であった。