傾城
「白雪の方」の話
田畑を耕し、魚介を獲る、百姓と漁師が住む国の大きな山の麓、そこに城があった。徳川家康によって日ノ本が統一されるよりも幾分前の話である。
その小さな城は禍々しい空気に満ちていた。
その空気の原因こそ明白であったが、そこに至るまでの理由は解明されておらず、疑心暗鬼の中、歳若い城主のみが大層幸せそうな様子で過ごしていた。
城内に蔓延る重い空気は、まず一人の女中が姿を消したことから始まった。若く快活な娘であったが、炭を切らしたから取ってくると厨を出てそれきり姿を見たものがいない。
それから二月の内で同様に四人の女中が姿を消した。
もう一つ、同時期に、一人の家臣に妙な発疹のようなものが出た。肌に浮き出るそれはまるで魚か蛇の鱗のようであり、日に日に体を侵食した。三日程で発疹が全身を蝕むと、その男は間もなく死んだ。
こちらは二月の内で同様に二人が死んだ。
何かの流行り病か、医者に尋ねても首を傾げるばかり。蛇か何かの祟りではないかねと言う者もいた。城主にそれを伝えればすぐに神妙に「わかった」と頷いたが、本当に分かったのかどうかは怪しいところだった。
その時城主が何をしていたのかといえば、一人の女に入れ込んでいたのである。
鍛錬も政も芸事も何もかもを放り出して、ある女を寵愛していた。ある時は女の為に自ら小袖を見立て、ある時は眠り歩き食べる女を日がな一日眺めて過ごしていた。
この女は女中が姿を消す直前に城主が城に招き入れた女であった。下女らしい一人の娘を従えて入城した。とはいえ、どちらもどこぞの武家の娘御などではなく、旅の者という話である。乱波を放って調べさせても、最近この領地に入ったらしいということ以外、素性は知れなかった。
この女こそが、騒ぎの原因なのではないかと誰もが疑っていた。ただ一人、盲目的にこの女を愛している城主を除いて。
女は城主から「白雪の方」と呼ばれていた。
白雪の方は大層目立つ容姿をしている。老人でもこうはなるまいという真っ白な髪が、その通称の由来だった。それでいてこれまた白い肌はぴっちりと張ったような若々しさであるのが、どうにも不釣合いである。おまけに瞳は海を溶かし込んだような群青で、その瞳がなまじ大きいものだから、それが随分と目立つ。身の丈は五尺六寸と大きい。話に聞くところの南蛮人と似ている、だが顔の形や言葉はこの国のものだ。
美しく整った顔立ちと、柔らかい曲線を描く豊満な肉付きの体に女性的な魅力があるとはいえ、どうにも近寄り難い、異形のようなもののように見えて仕方がなかったのである。
白雪の方を城から追い出すようにと、幾度も幾度も繰り返された城主への諫言は意味を成さず、寧ろ彼を頑なにしてしまった。元々、狷介固陋な面がある。こうなれば、家臣が何を言おうと、城主は白雪の方を手放そうとはしないであろう。
一方、死を覚悟で白雪の方を追い出そうとする者は出なかった。このようなことで命を落とすなど、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
そこで漸く重い腰を上げたのが、城主の後見人、城の者からは囲碁殿と呼ばれる壮年の家臣である。囲碁が矢鱈と強いためにこう呼ばれているが、剣捌き、槍働き、男振りも見事な城主の腹心であった。
女中に白雪の方の居場所を尋ね、囲碁殿は城主の閨の一つ外側、日当たりのよい、庭の見える部屋を訪ねた。
丁度梅が終わる頃合で、目白が数羽ぴいぴいちゅんちゅんと鳴きながら蜜を吸っている。
白雪の方はそれを眺めながら、城に入った時から従えている娘に源氏物語を朗読させていた。巻は末摘花らしい。白雪の方は文字が読めないと聞いたことがあったが、娘の方が読めるのは意外だと、囲碁殿は思う。大人しく静かな、黒髪の娘だ。案外口数が多く、よく動き回っている白雪の方とは正反対である。
白雪の方は急に現れた仏頂面の囲碁殿に驚くでもなく狼狽するでもなく艶然と微笑んだ。武士と向かい合っても動じないのはこの女の特徴とも言える。
「あら、こんにちは。どうか致しまして?」
「白雪の方、単刀直入に申す」
囲碁殿はきっ、と白雪の方の方を睨むと、用件を伝えた。
「殿を振りなされ」
白雪の方は、その言葉にきょとんと目を見開いた。そして一拍空けて、くすくすと笑い出した。囲碁殿は眉を顰める。馬鹿にしているのか。なぜ笑われるのか理解できない。白雪の方は俯き笑い続け、そのまま言う。
「いえね、何も馬鹿にしているわけではございませんよ、ただね、ええ、ふふふ、私の目に狂いはございませんでした」
「は?」
囲碁殿が首を捻ると、白雪の方が顔を上げる。
──囲碁殿は絶句した。
不気味に肌に浮くぬらりと光る鱗、縦長の亀裂のような瞳孔、そして何より、血のように真っ赤な虹彩、その瞳を縁取るのは真っ暗な闇色ではないか!
──ああ、と囲碁殿は思う。やはりこの女が、これが、城を騒がせておったのだ、殿はこの雪のように白い蛇の物の怪に誑かされておったのだ──。
「実に、実に。実に好みですわ、あなた」
女が囲碁殿の頬に手を添える。そのまま顔を近づける。傍から見れば接吻のそれである。
自分は死ぬのだ。囲碁殿がそう感じた明確な理由は無い。ただ漠然と思う。これは、駄目だ。手を出してはならぬモノだ。もっと早く、いいや最初から、この城に近付けさせてはならなかった。
「私はね、愛しいあなた。『そういうもの』が糧なのです」
夜と血の色が笑みを象る。
化け物め────囲碁殿がそう詰ろうとした時、不意に、奥の襖が開いた。
「──貴様!」
響いたのは城主の声。次の瞬間、囲碁殿の首は胴体から離れ、畳にごとんと落ちた。
白雪の方が泣く。
ああ、勿体無い。
翌日、白雪の方と黒髪の娘は姿を消した。
残ったのは、城主の腹心の、無残な首無しの死体だけ。正気に返った城主は泣き叫び、自害した。
こうして城は落ち、傾城白雪の名だけがその地に残り、やがて歴史の渦の中に塵のように消えていった。