トラ、トラ、トラ
鋼鉄製のメイスを構えて周囲を見回し、自分達を囲む敵を数える。
たった今三頭の狼の魔物を排除したがそれでも九頭の敵が残っていた。
背後から聞こえる紅虎の威嚇の声を頼もしく聞きながら、敵意あるものに囲まれる重圧にメイスを握る手から力が抜けそうになるのを抑え、逆に意識し柄を強く握りしめる。
(か、考えなしに突っ込んじゃったけど、ど、どうしよう……………………。
もう攻撃が当たる気がしないよう……………………)
先の攻撃は不意打ちの上に敵はすでにとっさに身動きをとることのできない空中にいたため、当てるの比較的容易いものだった。おかげで当てることができれば柚子香でも一撃で敵を仕留めることができることがわかったが、仲間を殺されたことで警戒心を露にしている目の前の敵に、果たして攻撃は当たるのだろうか?
(当たらなけれどうということはない、て赤い人も言ってたけどそれって逆に言えば当てられなければ意味がないってことでもあるんだよね)
緊張から口の中に溜まってくる唾を呑み込み、頼りない自分に渇いた笑みが浮かぶ。
(どうしよう?)
打つ手が見つからない。
とりあえずメイスを握る手に力を込めて構えてはいるものの、柚子香の頭の中は真っ白になる寸前だった。
(と、とりあえず時間を稼げば伊久津島君が助けに来てくれるよね?というか助けに来てくれないと詰む!)
柚子香が準騎の助けを強く願っている間、狼の魔物達もまた攻めあぐねていた。理由は簡単、柚子香の存在である。
新たな敵の力は未知数。わかっているのは敵の攻撃一つで自分達いも死ぬという事実。それが確実かどうかはわからずとも希望的観測の元に動いても痛い目を見ることになるということを、彼らは本能で理解していた。
故に彼らは様子を見る。
先に戦っていた紅虎の弱点、足枷を見つけたときのように、付け入る隙を探し出すために。
先の紅虎の時のように子虎にちょっかいを出すべきか?
否。どちらかがその守りにつけばもう片方が自由に動ける。先程までのように敵の動きを制限するだけの効果は得られない。
新たな乱入者はたった一人だが、その一人の存在が増えただけ獲物のとれる行動範囲が大きく拡がってしまった。
その事実を理解した狼達から悔しさにも似た声が上がっていた。
柚子香の乱入により場が硬直してどれくらいの時間が経過したのだろうか?
一分、二分、それとも十分かもしかしたら一時間か。時間感覚が曖昧になっていく感覚により、彼女はすでにどれだけの時間そうしていたのか分からなくなってしまっていた。
それでも今にも途切れてしまいそうになる集中力を無理矢理繋ぎ止めて、メイスを握る手に力を込めた。
そうしていると、彼女の腕に柔らかな何かが触れる。それに驚き視線を向けると、彼女を鼓舞するかのように紅虎の尻尾が軽く巻き付き撫で上げていた。
ただそれだけの行為が彼女の過ぎる緊張を解し、無駄にこもっていた力が抜けて行くようだった。
「うん、ありがとう。きっともうすぐ、ボクの友達が来てくれるから。
彼、強いんだよ。だからきっと来てくれればこんな奴ら直ぐに倒してくれるよ」
そうだ、きっとすぐに駆けつけてくれる。その思いが心の底から滲み出てくる恐怖を押さえつけ、彼女に力を与えてくれる。
(あれ?でもボク勝手に飛び出してきちゃったし、そもそも迷宮に来ること事態反対見たいだったけど……………………。愛想尽かさせて見捨てられないよね?
……………………彼のコート着てるし、少なくともこれを取りには来るよね?いやいや一本道だったし、いいずれはここに来るはず!
……………………理由がコートとか一本道だからだったらなんか負けたようで嫌だなぁ)
紅虎のおかげで余裕が出てきたのか余計なことを考え始める柚子香。
狼達はそんな彼女の意識が自分達から逸れ始めたことを敏感察知して各々がいつでも飛びかかれるように身体を低く構えるが、柚子香はそれに気付けない。
「本城!」
そこにようやく追い付いた準騎の声が届く。それは柚子香の置かれた状況を目にすると同時に周囲の状態を察知した警告の声だった。
しかし名前を呼ばれた柚子香の意識は完全に狼達から外れ、視線が迷宮の通路を駆ける準騎へと向けられた。
完全な隙だった。そのできた隙を狼達が逃すはずがなかった。
「伊久津島君!」
柚子香が笑みを浮かべて駆け付けた彼の名を呼ぶのと、狼達が床を蹴るのはほぼ同時だった。
あるものは地を駆け、あるものは空中へと身を踊らせ、爪を、牙を突き立てんと襲いかかる。
そしてそれを予見していた準騎もまた迷宮の床を蹴っていた。駆ける勢いをそのままに前方に低く跳躍し空中でブーツの踵同士を打ち合わせる。
「フリージング!」
ブーツのそこに複数の青い宝石が生える。そして準騎の叫ぶ言葉に呼応するように青色に発光し、靴底が氷結。
着地しつつもの氷に覆われたブーツは跳躍の勢いのままに準騎の身体を前方へと滑らせていく。
「コンセントレイト!」
そしてテンペスターのトリガーが弾かれた。
銃口から放たれるのは直径25mmの鋼製銃弾だ。秒間五発で放たれる鋼の弾丸は、迷宮の通路を滑走する準騎の狙い通りに飛翔し、柚子香へと飛び掛かる狼達へと命中し、その衝撃でもって吹き飛ばしていく。
「グァァァッ!」
さらに紅虎が動く。空中に身を踊らせる狼達を無視して地を這うように駆ける敵を迎撃するために。
自らに襲いかかる物はその巨体で弾き飛ばして、柚子香や今はその足元にいる子虎を標的とする敵にたいしては細い木ならば容易くへし折れるだろう前肢を振るって引き裂き、吹き飛ばし、それでも足りないものには鋭い牙の洗礼を。
柚子香達を守るためその周囲をまるで嵐のように駆け回り瞬く間に四頭の狼を骸へと変えて見せた。
ジャリジャリジャリ、と耳障りな音が響く。それは準騎のブーツから飛び出したスパイクが迷宮の床を引っ掻く音だ。
迷宮の床を滑走していた準騎はそれにより失速し、銃口を四方の通路へと向けて立ち上がった時には、もう動く魔物の姿は周囲には無かった。
「お、終わったの?」
いつのまにか足元の子虎達を抱き抱えていた柚子香の恐る恐るといった様子での言葉に、準騎は頭を振った。
「いや、肝心なのがまだだ」
そう口にして銃口の向けられた先にいるのは、全身を己と敵の血で汚した深紅の巨虎だった。
「え、ちょっと、なんで、伊久津島君!?」
準騎の行動に驚いた柚子香は思わず二人の間に割って入り銃口の前にその身を晒していた。
「ちょっと待ってよ、なんでこの子に銃を向けるの!?
この子はこの迷宮に迷い混んだ、いわば私達と同じような存在なんでしょ?そう言ったのは伊久津島君じゃないか。」
「確かにそう言ったな。立場だけを見れば確かにその通りだ。けどな俺達と魔獣は、やっぱり違うんだよ。
さっきは説明の途中だったが、この迷宮では魔獣と魔物では討伐の優先順位というものがあり、それは魔獣の方が上なんだ。特に強い魔獣の場合はな。
迷宮で魔獣が死に、その骸が迷宮に取り込まれるとその存在が記録され今度は魔物として迷宮内に現れるようになる。だから俺達は魔獣を発見した場合は優先的にその魔獣を討伐し、その骸を素材として回収しているんだ。強ければ強いほど、それが何度も現れた時には降りかかる被害が大きくなるからだ」
真剣な表情で語られる言葉に言い返すことができず、子虎達を抱く腕に力がこもる。
「見たところそいつの負っている傷は深い。今はあの程度の雑魚を一蹴できてもそう遠くない内に動くこともままならなくなるはずだ。そうなれば待ってるのは死。そして迷宮に取り込まれ魔物となる未来だけだ」
「な、ならこの子の傷を手当てしてあげれば!」
「そうして無傷になった強力な魔獣をこの迷宮に放つのか?
言っておくがこの迷宮で魔獣は数少ないが魔物と同じ人を襲う存在だ。迷宮内では何をするにも自己責任という暗黙の了解があるが、迷宮に放ったこいつらが他の探索者を襲い殺傷した場合、お前は責任が持てるのか?」
ようやく出てきた反論も容易く潰され柚子香は言葉に詰まった。準騎が別に意地悪でそうしている訳ではないことは理解はできていたが、それでも込み上げてくる悔しさから睨み付けるのを抑えることはできなかった。
「分かったか?ならさっさとそこを……………………?」
準騎の言葉切れる。何がと思った直後の背後から重たいものが崩れ落ちる音が聞こえ、彼女は驚き振り返った。
彼女が振り返った先に立っていたはずの深紅の巨虎が、先ほどまでの強さが嘘のような弱々しさ崩れ落ちていた。呼吸は荒くすでに立ち上がろうとする余力すら無いようで、その四肢は投げ出されている。
「そんな、どうしてっ………………!?」
紅虎へと駆け寄り、しかしどうしていいかもわからずその手は宙をさ迷う。
「……………………前言撤回か。どうやらこいつは迷宮に来る前か来た後かはわからないが、既に致命傷を負っていたようだな。それも、動けること事態が奇跡のような傷を。
それだってのに例え雑魚とはいえブラックハウンドどもを一蹴するだけの強さ。完全な状態ならBランクでも上位、それか準Aランクと言ったところか。俺レベルでもパーティーを組まないと危ないレベルだな。そんなもの益々魔物化させる訳にはいかないな。傷を治して解き放つなんもっての他か」
「治す、そうだ!」
準騎の言葉から柚子香の脳裏に思い浮かんだのは、準騎にもしもの時に使えと渡されたポーションだった。飲んでもかけても効果があるという上級ポーションを、柚子香は準騎が止める間もなく蓋を開けて深紅の巨虎のもっとも大きな傷へと振りかけていた。
しかし……………………。
「なんで、なんで治らないの?飲んでもかけても効果があるって言ってたよね!!」
今にも泣き出しそうな叫びに準騎はただため息を吐いて口を開く。
「あぁ、言ったな。嘘はついてないぞ。そのポーションは強力な魔法薬だ。対象の生命力を増幅し回復力へと転化して傷を治す最高級の代物だ。だが万能ではない。対象の生命力が尽きかけていればその効果を発揮することはかなわない。
そいつが回復しないのはつまりそういうことだ。既にそれだけの生命力すら残っていない、というな」
「そんな……………………」
伸ばされた手が深紅の巨虎に触れる。狼の魔物達と戦っていた姿からは想像できない弱々しい姿にそれ以上言葉が出てこなかった。
「ミィ……………………」「ミャァ」「ミャウ……………………」
柚子香に抱き抱えられていた子虎達の悲しげな声。対する紅虎からは弱々しく喉を鳴らす音が響くのみだった。
「何も、できないの?」
小さな呟きだった。今にも力尽きようとしている紅虎ならば余計に聞き取れないだろう小さな呟き。しかしその言葉が呟かれた時、巨虎の耳がピクリと動いた。
深紅の巨虎がその重い身体に鞭を打って顔を上げ柚子香と目があった。
思わずその目を疑ってしまうような強い意思を宿した瞳だった。今にも息絶えようとしているとは思えない力強い眼差し。
「グゥォォオオオオン……………………」
鳴いた。
ただ一声。
さして大きな声ではなかった。だが消え入ろうとするような声でもなかった。たしかな意思の籠った一声。
任せた
そう言われたような気がした。その意思の籠った瞳と声で。
その一言を最後に深紅の巨虎の頭が迷宮の床に落ち、その瞳から意思の光が喪われた。
何を?とは思わない。柚子香には深紅の巨虎が何を考えていたのか、それが不思議とたしかな思いと共に理解できてしまっていたから。
下ろしていた子虎達を再び抱き寄せる。その際残っていたポーションを振り掛け、負っていた傷が回復していくのを目にして準騎の言葉が嘘ではないことを確認できた。
準騎がこの迷宮に来てから語ったことはすべて真実なのだろう。魔物のことも、魔獣のことも。
(だけど……………………、それでも……………………)
任されたのだ
自分は、この子達を
子虎達を抱く腕にさらに力がこもり、その瞳に強い意思が宿る。
ー任されたよー
唇だけを動かして息絶えた巨虎へと返事を返し、子虎達を抱えて未だにテンペスター構える準騎へと振り返った。
「その虎達を離せ。
例えあの深紅の虎が強かったとはいえ、まだ小さな子供であるそいつらだけで生きていけるほどこの迷宮は甘くない。ここで見逃してもさっきのブラックハウンドともう一度遭遇すればそこでおしまいだ。
そしてこの迷宮は例え子供であっても取り込めば最盛期の姿で出現するようになる。
それは間違いなくあの深紅の虎の先ほど強さを大きく上回ることになる。お前にその責任がとれるのか?」
「とれるわけないよ。そんなの」
「ならさっさとそいつらを「でも任されたんだ!!」何?」
「あの子から、この子達を!だから、任されたボクが、この子達を守る!
伊久津島君はこの迷宮では全てが自己責任だって言ったよね。ならこの子達を育て、守ることがこの子達を任されたボクの責任の取り方だ!」
先ほどまでとは違う強い意思を込めた言葉に、準騎は思わず口を開くことができなかった。
柚子香の準騎を睨み付ける鋭い視線は、まるで先程までそこに立っていた深紅の巨虎が乗り移ったかのようで、準騎は彼女の背後に深紅の巨虎の姿を幻視していた。