姉妹コックの晩餐
美紗の後を追って、どの位の時間が経っただろう?
わりと遅い時間まで明るい真夏の空の日もほとんど落ち、暗く寒い夜の世界になろうとしていた。
西区の商店街にも点々に明かりが灯り、偽りの活気が出始める。
「どこまで行く気だ?」
周りにはそれなりに人が居て、一向に話し掛けるタイミングをつかめない。
――まさか、気が付かれている?
可能性としてはありえない話ではない。
美紗は今まで幾つもの死線をくぐり抜けているような人間。尾行の素人である俺のぎこちない視線に、気が付いても何ら不思議ではないからだ。
(零司)
アーシェの一言で、思考の海から抜け出す零司。
辺りは、少しずつだが人の割合が減ってきている。
一度も立ち止まる事無く、ただ黙々と歩き続ける美紗。西区の奥へ進むごとに、だんだん辺りが静かになっていく。
ふと気が付くと、美紗の行く方向には夜の暗い情景から浮いた、一本の白いモニュメント。
高さは二階建のアパート程だろうか、見上げずとも目を軽く上に向けるだけで十分に全体を把握できる。
美紗は、そのモニュメントの前でピタリと足を止めた。
「やはり……アナタ達でしたね」
――やはり、気が付かれていた。
美紗の口調はトーンが低く、普通とはどこか違う異様な雰囲気を発している。
おそらく、今、この場で、再び殺し合いが始まる。
だが、零司の瞳に昨日までの恐怖はない。継承した黒眼の力が、彼に大きな自信を与えていた。
学校の鞄を地面に落とし、ゆっくりと振り向く美紗。
「私が……戻ってきたのが不思議…ですか?」
「不思議さ。昨日、あれだけやっといてノコノコ戻ってくるなんてな」
「喧嘩をしたからもう来ない……組織を学校と勘違いしている…のではないですか?」
水面が凍てついたかのような、氷のひび割れた時に出る効果音が四方から響く。
しかし、周囲の景色にに変化はない。
それは、閉鎖空間の発動を意味していた。
「殺るき満々? やっぱりまた零司狙いなのね」
「任務……ですから」
透き通った視線、感情など微塵も感じないその視線に、零司は身体が震えた。
「でも……アナタの言う“狙う”のニュアンスとは少し…違います」
「違う?」
美紗は押し黙り、右手をこちらへと向ける。
包帯越しに浮かび上がる十字の紋章。
「連れ帰る気は……ありません」
「――ッ!」
―――。
微かにそよいだアーシェの髪が、ハラハラと数本宙に踊った。
しかし、そんな事にまったく動じる様子もなく美紗を睨み続けるアーシェ。
「な―――」
何が起こった、と言おうとした零司の横。零司とアーシェの間に、二人を引き裂くかのように何かが倒れこむ。
「“監視と傍観”……それが私に…私たちに与えられた、本来の任務……ですから」
――息が荒くなる。
恐る恐る倒れこんだ物体へと視線を落とす零司。
倒れこんでいたのは、胸板に銀のナイフを突き立てられ、じわじわと赤い液体を地面へと垂れ流し続けているスーツを着た中年男性。
「心配しなくたって、それは“式”よ。閉鎖空間のなかに普通の人間は入れないって言ったでしょ」
零司の危惧を見透かすかのような一言。
アーシェは再び美紗へと視線を戻す。
「で、私たちを助けちゃって“監視と傍観”じゃなかったの?」
「気にしなくても……助けるのはこれが最初で最後…です」
「あ、そう」と鼻で笑うアーシェ。
「あと……エフェソ様からアナタ達へ…伝言があります」
「エフェソ? あぁ、教会のジジィね」
自分のマスターとも言える人物への侮辱的な言葉にもまったく反応を示さない美紗に対して、面白く無さそうな表情を浮かべるアーシェ。
「“姉妹のコックが晩餐のメニューを完成させた。近々オーダーが始まるだろう”……と、追伸で“せいぜい生き残れ”…だ、そうです」
「あ、そう。じゃあ、余計なお世話だヴォケッ! って返しておいて」
ビシィッ、と中指を立ててみせるが、やはり美紗は感情を表す様子はなかった。。
ℱ
用意された幕は切って落とされる。
選択の時は、刻一刻と、確実に迫ってきていた。
「失敗…かぁ。完璧だと思ってたんだけど、式もまだまだ改良が必要かも」
「か…がぁ……」
魔力により微かに命を繋ぎ止めていた“式”が助けを求めるように、見下ろし嘲り笑っているクレアへと手を伸ばす。
「助けるわけ無いじゃん。――役立たず」
苦しみ悶える式を、紅い瞳は冷徹に見下ろし口元は滑稽とばかりに歪む。
「でも、私は優しいから慈悲を施してあげたり」
腰に当てていた手を、式へと向けるクレア。
式がその手へと自分の手を伸ばす。
「はい、慈悲」
あと少し、まさに目と鼻の先まで式の手が迫ったとき、クレアの差し出した手に一枚の人形が召喚された。
「が…っ!」
式がクレアの意図に気が付いたときには既に手遅れ。
召喚された人形をクレアが無常にも握り潰すと、それとリンクしているかのように式の全身から高音と低音の楽曲が始まる。
足、腕、肋骨。
首を除いたすべての骨が一気に粉となり、ゴム人形のように人間味が失われる。
「アハハハハッ!」
絶望した表情を浮かべ、足から風化していく式。
その光景に、甲高い笑いを上げるクレア。
その狂気の瞳は、その狂乱した笑いは、彼女を悪魔と呼ぶに十分だった。
クレアはひとしきり笑い終えると、夜空に浮かぶ三日月を仰ぎ、それを視界から遮るように右手をかざす。
「ほぉうら、私の思っていたとおり……霧谷零司にアーシェ。――と、ついでに審問官も」
三日月を見上げながら風化した式の残骸を中心に、まるでワルツを踊るかのように妖艶な笑みを浮かべながら回りはじめる。
「私達が相手しなくちゃ」
そう言ってクレアがかざしていた手を退かすと、三日月は紅く――鮮麗な紅ではなく、黒ずんだ深い赤色へと染まっていた。