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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第3章 泡のゆくえ
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エピローグ ただ君と歩くだけの旅

 夕暮れの街は、やわらかな光に包まれていた。


 サロンのある通りには、若い世代の店が並び、流れる音楽も、行き交う声も、昔とは少しずつ変わっていた。

 けれど、通りの端にある小さなベンチだけは、あの頃と変わらずそこにあった。


「……ここ、まだ残ってたんだね」


 未沙がそう呟くと、五条は隣に腰を下ろした。

 風が吹くたび、街路樹の葉がさわさわと揺れ、その音が二人のあいだの沈黙をやわらかく包んだ。


「壊れそうで壊れない。君みたいだ」


 未沙は肘で小さく突く。


「そういうこと言うの、昔より上手くなったよね」

「年の功だよ」


 二人はしばらく黙って、通りを眺めた。


 若いスタッフたちが笑いながら店を閉めていく。

 その横を、未輝と美咲が並んで歩いていく。


「……あの子たち、いい顔してるね」

「うん」


 五条は目を細めた。


「君が残したものが、ちゃんとあの子たちの中にある」


 未沙は少しだけ目を伏せる。


「私、ちゃんとできてたのかな」


「できてたよ」


 五条はすぐにそう言った。


「君が残した香りは、誰かの中にちゃんと残る。そういうものだろ」


 未沙は、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 夕暮れの空気は少し冷たくて、でも懐かしい匂いがした。


「……変わったわね、この街」

「変わったよ」


 五条は通りの先を見ながら言った。


「でも、君が隣にいるなら、それでいい」


 未沙は少し笑う。


「昔のあなたなら、そんなこと言わなかったのに」


 夕暮れの色が、ゆっくりと深くなっていく。


「ねぇ、ひかるん」

「ん」

「私たちの物語って……もう終わってるのかな」


 五条は少しだけ考えてから答えた。


「終わってないよ。

 ただ、前に出る役目が変わっただけだ」


 未沙は静かに笑った。


「……ずるい言い方」

「そう言うと思ったよ」


 そして五条は立ち上がる。


「未沙。旅に出ないか」


 未沙は驚いたように目を瞬かせた。


「旅?」


 五条は夕暮れの空を見上げた。


「南の海もいいと思った。

 陽射しがやわらかくて、海がきらきらしていて、君の笑顔がよく似合いそうだ」


 未沙はくすっと笑う。


「あなた、そんなこと言う人だったかしら」


 五条は少しだけ目を細めた。


「賑やかな街も悪くない。

 光の多い場所を、君と歩くのもきっと楽しい」


 未沙は首をかしげる。


「でも……あなたの声の感じだと、そこじゃないのね?」

「うん」


 五条は未沙の手をそっと取った。


「もっと静かな場所がいい。

 石畳の道をゆっくり歩いて、

 古い街並みの中で、

 急がずに時間を過ごせるようなところ」


 未沙は息をのむ。


「……いいわね。

 若い頃の私たちじゃ、似合わなかった場所」

「だからこそ、今がいいんだよ」


 そして五条は、未沙の目をまっすぐ見て言った。


「誰のためでもなく、何のためでもなく。

 ただ、君と歩くためだけの旅をしたいんだ」


 未沙は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……行きましょう」


 石畳の道を、二人はゆっくり歩いた。

 川の上を渡る風は少し冷たくて、でも心地よかった。


「こんな街、若い頃の私たちじゃ似合わなかったわね」

「今の君がいちばん似合ってるよ」


 未沙は照れたように笑う。


「ねぇ、ひかるん。

 私たち、やっと自由な旅ができてる気がする」

「そうだね。

 ただ、君と歩くための旅だよ」


 未沙は何も言わず、ただ少しだけ五条のほうへ近づいた。


 夜の湯気の向こうで、未沙はそっと目を閉じた。


「昔は、“ちゃんとしなきゃ”って思ってたのよ」

「知ってるよ」

「……知ってたんだ」

「ずっと見てたからね」


 湯のあたたかさが、言葉の角をやわらかくしていく。


「今は、こうして肩の力を抜ける。

 あなたといると、そう思えるの」

「それなら、旅に来た意味があったね」


 未沙は目を開けて、湯気の向こうの五条を見た。

 若い頃より静かな顔で、でもあの頃よりずっと近くに感じた。


 旧い街の広場に、夕暮れの鐘の音が響いていた。


「私たち、ずいぶん遠回りしたわね」

「遠回りしたから、今があるんだよ」


 二人は肩を寄せて歩いた。

 若い頃より歩幅は少し小さくなったのに、不思議なくらい歩く速さは同じだった。


 カフェの窓辺で休みながら、二人は通りを眺めていた。

 窓の外では馬車がゆっくり通り過ぎていく。


「君と歩くと、どの街も静かに見える」

「それは……あなたが隣にいるからよ」


 二人は顔を見合わせて、少し笑った。

 若い頃よりずっと自然に、何でもないことで笑い合えるようになっていた。


 列車がフランスへ入るころ、未沙は窓の外を眺めながら言った。


「ねぇ、ひかるん。

 最後の街だよね? どこへ行くの?」


 五条は少し照れたように笑った。


「シャンパーニュだよ。君と乾杯したくてね。

 長い旅の終わり、

 “今まで”と“これから”に」


 黄金色の葡萄畑が広がる丘の上で、二人は静かにグラスを合わせた。


「ひかるん」

「ん」

「……ありがとう。

 こんな旅、若い頃の私たちにはできなかった」

「若い頃の君は、忙しすぎたからね」

「今は?」

「今の君は、隣にいるだけで十分だよ」


 未沙は目を細めた。


「……ずるい」

「そう言うと思ったよ」


 二人は手をつないだ。

 強く握らない。

 ただ触れているだけで、十分だった。


 シャンパーニュの泡が静かに弾ける。

 その音は、二人のこれまでの時間と、これからの時間を祝福するようだった。


 未沙は五条の肩にそっと寄りかかった。


「ひかるん」

「ん」

「……未来に、乾杯」

「未来に、乾杯」


 グラスの触れ合う小さな音が、静かに、やさしく響く。


「ねぇ、ひかるん」

「ん」

「わたしを見つけてくれて、ありがとう。」


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