石山の守護神
本願寺勢には二人の守護神が居る。
「大坂之左右之大将」と言われた『下間頼廉』『鈴木重秀』である。
重秀は『雑賀孫一』という敬称でも通っていて、孫一は重秀だというものも居れば、いいや違うというものもいる。
これは半分正解で、半分ハズレである。
というのも、彼ら雑賀衆は傭兵稼業を生業にしており、いつ敵味方になるかも分からないうえに、武名をあげて、狙われるのはまっぴらごめんやという考えがあります。
そこで考えられたのが、組織の役職が「名前」という制度でした。
つまり、鈴木家の指揮官が雑賀孫一を名乗っていたのです。
狙撃手なら、「針」とか「蛍」とか通り名をあげればきりがない。
何せ、鈴木家の者は、本名で活動する時というのは商売である傭兵ではなくて、本気の戦の時である。
彼ら雑賀衆が当時世界でも最も鉄砲を有効に戦闘活用出来た集団だと言われています。
それは前込め式の火縄銃はどうしても次の発射までには時間がかかり、各個ばらばらな個人射撃になってしまいます。
弓にしろ、鉄砲にしろ、飛び道具の最も有効な使い方は、「制面射撃」である。
信長が考案したと言われる3段撃ちは後日有名な戦法として語られるが、雑賀衆が操る「組撃ち鉄砲」はそれを上回る恐ろしいシステムである。
鉄砲は1人で使用すると、熟練した鉄砲兵の射撃の間隔は早くても約20秒強と言われています。
信長はこれを三段に分けることにより、約7秒間で制面発射する事が出来た。
これに対し、組撃ち鉄砲は1挺の鉄砲を4人で撃つところに特徴がある。
すなわち、射撃手が一人いて、その左右と後ろに各1人ずつ配置し、それぞれが別々の役割を果たすのである。
銃に弾を込める係から、蓋に火薬を素早く盛って閉じる係、さらに後ろの兵が火縄を火挟みに挟む係と、分散されていて、あとは射撃手が引き金を引くだけである。
この一連の動作では、約4~5秒間隔で連射できたという。
さらに射撃を2組に分けただけでも、計算上2~3秒間隔の射撃となる。
相手の軍勢は荒れ狂う射撃の雨に近寄る事も出来ないのである。
これを指揮するのが、鈴木家一番の戦上手『鈴木重秀』なのである。
もう一人の大将『下間頼廉』である。
この人は本願寺の坊官であり、坊官とは門跡という格式に付随する職で、大名家でいえば、家老職と言ったところである。
頼廉はその坊官という職を与えられ、本願寺内部では家老として政務・軍務を取り仕切った。
さらに彼は清和源氏頼光流で、源三位頼政五世の孫宗重から始まるれっきとした『清和源氏』の流れをくむ源氏武士なのである。
その為軍政では頼廉を始め、多くの下間一族が本願寺の戦闘に参加していた。
彼もまた鉄砲の指揮を取らせると一級品であり、恐ろしい戦闘能力を擁していた。
この男の凄味は外交力・政治力にも発揮させられている。
日和見がちな毛利家を引きこんだのも彼の手腕であるし、門徒の一揆を扇動して、領国の大名を動かしたりもする。
三好家はこの典型であったが、彼らも信長に下り、阿波に引っ込んでしまった。
武田家もあと一息で引き込めたが、どうも参戦する気はないようであるし、上杉にいたっては越後国境で加賀門徒が扇動している影響もあって、信長以上に険悪である。
北条家も、隠居とはいえ実質の権力者である氏康が無くなり、積極性に欠く。
頼廉は正直手詰まり感で一杯であった。
一揆を扇動するにも、織田家の領民は信長の政策を大歓迎している。
噂を聞いて、隣国の領民などは逃げ込んでくる始末だが、信長は積極的に保護した。
信長は逃げてくる領民に対し、開拓地を与え、開拓した土地を与えた。
又余っている二男三男などは、兵役に雇い入れ、軍事力の拡大を図った。
情報封鎖のメリットなど信長に取ってはデメリット以外の何物でもない。
逆に織田政策の良さを外に広めるのは大歓迎だ。
現実に越前の領民などは、織田軍が侵攻したときに、あまりの協力的な領民たちに織田兵が面を食らったほどである。
民衆の不満に付け込んだ宗教洗脳は、現実的な生きる希望と生活を与えれば、自然と溶けてくる。
人は誰しも本能で生きたいのである。
只この時代は、生と死の距離が近すぎた。
それにより、死が身近な彼らは、死後位は極楽にいけると言う事で宗教にすがるのである。
当然、本願寺の坊官たちはそんな彼らを利用する。
それが信長が武装宗教を嫌う理由である。
頼廉もそんな民衆の心理を巧みに利用して、本願寺門徒を急速に増やしている。
この時期、キリスト教も布教活動が盛んであった。
彼らは日本の軍事力に恐れをなして、他国では積極的に見せていた武力に頼らずに、純粋に布教を説いていた。
彼らも一向宗の教えと同じで、死後の極楽を説いていた点で共通するものがある。
只、信長はこの頃庇護していた宣教師たちと距離を取り始める。
国内の金の価値の低さに着目した南蛮人達が大量に海外に持ち出したのである。
さらに、人身売買を積極的に行っていた。
これがどうもカンに障っているらしい。
信長は珍しく、奴隷売買をしない大名であった。
あの信玄でも、謙信でも積極的に奴隷を売っていた時代である。
この人ほど、特権身分でありながら、身分に興味がない人間はいないと思われる。
下賤の出である秀吉を大名に取り立てたり。
気さくに天皇に接っしたり、町民と飲み会をしたり、支配される側の人間から見たら彼は誰よりも自分たちを支配してほしい人だったのである。